土に還る...
田中従夫(たなか よりお)
1909年1月10日、岡山県出身。
1911年、父母とともに朝鮮に移住。
1907年、京城(ソウル)在住時、貞洞日本基督教会の日曜学校に通う。
1922年、釜山第一公立商業学校入学。同校のクリスチャン教師に出会う。
1925年、釜山日本基督教会にて受洗。
1927年、商業学校卒業、朝鮮殖産銀行へ入行。
1931年、銀行を退職、東京の日本神学校(東京神学社、明治学院神学部の合同、
後の東京神学大学)入学。
1937年、日本神学校卒業。柏木日本基督教会(東京都新宿区)伝道師拝命。
和夫人と結婚。
1938年、台湾長老教神学校教授就任。
1939年、台南白金基督教会牧師に就任。
1943年、召集、台南第二連隊に入営。
1945年、終戦後、米軍によりフィリピンの捕虜収容所に拘束される。
収容所内において礼拝を許可され、他のプロテスタント牧師1名、
カトリック司祭1名と協力し、収容所内伝道に従事する。
1946年、帰国。日本基督教団佐世保教会へ就任。
1954年、日本基督教団熊本坪井教会へ赴任。
1966年、日本基督教団仙台東一番丁教会へ招聘。
1983年、仙台東一番丁教会を辞任、引退する。
仙台市片平町のマンションに転居、仙台東一番丁教会にて
教会生活を守る。
1999年、神奈川県大和市に移住。日本基督教団つきみ野教会にて
教会生活を守る。
2001年、日本基督教団南町田教会に出席開始する。
2002年11月28日、慢性心不全により死去、享年93歳。
出会い
ウリヤが田中従夫牧師に出会ったのは、1968年春であった。
当時、ウリヤは中学生であり、宮城県仙台市に住んでいた。
仙台という街は、キリスト教会の多い所である。ウリヤの実家の周辺、
徒歩10分位の所にも4軒の教会があった。
ごく普通の中学生だったウリヤ、当時人生に悩み苦しむことはなかった。(今でもないが...)
教会..なんとなく異文化の匂いに惹かれたウリヤは、一度教会を覗いてみたいと思うようになった。
しかし、単独で教会に潜入する度胸は今ひとつなかった。
そこで同級生を誘った。ウリヤの誘いに乗った好奇心旺盛の同級生は、
T.T君、T.G君、A.K君だった。そのうち東京生まれのA.K君は母上がクリスチャンであり、
東京の教会で幼児洗礼を受けていた。
幼稚園ころまで、日曜学校に通っており、ひととおり教会というものを知っていた。
ウリヤが選んだ教会は、実家から徒歩5分の日本基督教団仙台東一番丁教会であった。
ウリヤたちを迎えてくれたのは、長身で厳つい顔、しかし優しい笑顔の田中従夫牧師であった。
田中先生、当時59歳。この人は善人だ、とウリヤは直感した。
礼拝説教は、中学生のウリヤたちには難しく、理解不能であった。
しかしウリヤたちは教会にすぐに馴染んだ。教会には、小学生対象の
教会学校のほか、中学生会、高校生会、大学生対象の学生会、
一般青年対象の青年会、中堅男性の壮年会、主婦対象の婦人会が
あり、ウリヤたちは勿論中学生会に入った。
中学生会には他校の生徒も多く参加していた。教会はウリヤたちには
楽しい遊び場となった。
洗礼
中学、高校時代、教会を遊び場としていたウリヤに転機が訪れたのは
大学生になってからだった。
ウリヤは、地元のミッション系大学に進学した。
教会では、教会学校のヘルパーをするようになっていた。
1975年の春、レントの少し前、田中先生がウリヤに呼びかけた。
「ウリヤ君、洗礼を考えてみないか」
ウリヤは一瞬ためらった。中学時代から7年教会に通い、
教会学校のヘルパーをしている自分はいったい何者か..?
田中先生は、むやみやたらに人に洗礼を勧める牧師ではなかった。
当時、教会の中で、ウリヤの立場は求道者であった。もっともウリヤ自身は
救いを求めているわけではなく、教会を心地よい遊び場と思っていただけだったのだが...。
ウリヤは田中先生の洗礼の勧めを断った。
しかし、田中先生の先の一言「洗礼を考えてみないか」は
ウリヤの心に深く突き刺さっていた。
7年間、聖書は断片的に読んでいた。理解はしていなかった。
なんとなく、神が存在するように感じていた。自分の性格から考えて
ウリヤ自身の本質は悪だとも思っていた。
生きる指針にイエス・キリストを据えてもよいかな、などとも思った。
その年のイースターが終わってから、ウリヤは田中先生に
受洗志願を表明した。田中先生はとても喜んでくれた。
後でわかったこと...田中先生は真に祈りの人であった。
ウリヤの背後には、常に田中先生の熱い祈りがあった。
その年のペンテコステ、ウリヤは洗礼を受けた。
それから1年かけて聖書を通読した。再度の通読はその20年後である。
大学卒業の前年、就職活動に出遅れたウリヤは田中先生から一通の封書を手渡された。
「それを持ってYMCAの主事就職試験を受けてきなさい。」
と田中先生はいつもの笑顔で言われた。
YMCA主事...難関である。大学の就職課に掲示されていた募集要項には
条件として『クリスチャンであること。所属教会牧師の推薦状があること。大学の推薦状があること。』
と書かれてあった。
ウリヤの成績から常識的に判断して、大学の推薦状が発布されることは120%なかった。
ウリヤはYMCA受験などという大それたことは全く考えていなかった。
田中先生から受け取ったのは、推薦状であった。
ウリヤは推薦状を就職課の窓口に差し出した。
「君、自分の成績を知っているのかね」
と言われるのかと思いきや、直ちに受験申込書を書かされた。
YMCA受験後、通知が来た。「まことに貴意に沿いがたく...」
勿論、田中先生はウリヤを責めることはなかったが、ウリヤは田中先生に申し訳なく思った...。
離反
大学卒業後、ウリヤは茨城県の某公共団体に就職した。
最初の赴任地は県西の小さな町であった。
教会を探した。...が、ない??
驚愕の伝道不毛地帯、それが茨城であった。
やがて仕事の多忙さなどから教会探しも熱が冷め、教会生活から離れた。
信仰も途切れていた。
ウリヤが信仰に立ち帰る伏線は、
毎年ウリヤの誕生日に送られてくる田中先生からのお祝い葉書であった。
信仰生活から離れて約4年後、ウリヤは教会生活復帰した。
結婚後...
ウリヤは県庁所在地に転勤した折、当時住んでいたアパートの近くの教会に、教会籍を移した。
馴染んだ日本基督教団とは異なる教会であった。
その教会の牧師の薦めによりクリスチャン女性と見合い結婚した。
挙式の司式を田中先生に御願いした。そのころ、田中先生は既に牧師を引退していた。
田中先生は司式を断った。牧師として筋を通された。
結婚式には勿論来席していただき、披露宴では祝辞を頂戴した。
結婚翌年、ウリヤに第一子が与えられた。女児であった。
田中先生に名前を付けていただいた。ウリヤ夫婦には考え付かない素晴らしい名前であった。
仙台に帰省するたび、ウリヤ一家は田中先生を訪ねた。田中先生御夫妻はいつも笑顔で迎えてくれた。
召天
2002年11月28日、田中先生は神奈川県大和市の自宅で天に召された。
そのころ、田中先生は入院中の和夫人を見舞うことが日課であったそうだ。
身支度を整え、外出しようとした時、倒れたそうである。
前夜式
2002年11月29日、田中先生の前夜式が日本基督教団南町田教会で行なわれた。
その日の夕方、ウリヤはJR町田駅に降り立った。電話ボックスの電話帳で南町田教会を探す。
所在地を確認するためだ。ところが電話帳に記載がない。
近隣の教会に電話し、南町田教会の住所を知る。
駅前でタクシーに乗った。運転手に教会の所在番地を告げるが運転手はわからない模様であった。
だがそこはプロのドライバー、ウリヤが告げた住所地付近に向かった。
5分ほどでその場所に着いた。前夜式の看板が立てかけられていなければ見過ごしそうな小さな教会だった。
建物と建物の間に申し訳程度に建っている実に小さな教会、それが南町田教会であった。
信徒300名を擁する仙台の否、日本でも老舗の大教会、仙台東一番丁教会を17年の長きに渡り牧会した田中従夫先生。
田中先生が仙台東一番丁教会に着任したのは、まさに70年安保の渦中、日本基督教団が最も荒れた時代であった。
田中先生着任前の1年、仙台東一番丁教会は無牧であった。それなりに問題を抱えていた教会だった。
ウリヤの中学高校時代、東一教会にも、
よど号ハイジャック犯に共感する神学生の先輩がいた。
成田闘争に参加し、公務執行妨害罪で逮捕され、大学を退学処分になった先輩もいた。
そういう時代、田中先生は懸命に東一教会を建て直した。
田中先生の理念はただ一つ「御言葉に立つ」であった。
現在の仙台東一番丁教会の堅い基盤を作り直したのが田中先生であった。
ただしウリヤは田中先生の実際の苦労を知らない。
若年だったウリヤにはいつも笑顔の優しい牧師、という印象しかない。
10人も入れば満席になるような小さな教会で、田中先生の前夜式と告別式は執り行われた。
喪主は、学校法人女子学院院長の田中弘志氏、田中従夫先生の長男である。
弘志先生は、ウリヤが中高生時代、宮城学院高校の教諭で仙台東一番丁教会の長老でもあった。
後に宮城学院中・高校校長に就任され、その後女子学院に院長として迎えられた。
弘志先生は常に従夫先生の近くに居た。
仙台東一番丁教会関係者で前夜式に参列したのは数人であった。
これは弘志先生の配慮であった。日を改めて埋骨式を仙台で行なうので、
仙台東一番丁教会の皆様には、その時出席していただきたい、とのことであった。
千葉県八千代市の日本基督教団勝田台教会の田中良一牧師が前夜式に参列していた。
同じ田中姓だが、従夫先生と縁戚関係はない。
田中良一師は、ウリヤが大学生後半のころ、仙台東一番丁教会の集会所、
又新館(ゆうしんかん)に下宿していた神学生であった。
前夜式終了後、ウリヤと良一師は新宿に向かった。居酒屋に入り旧交を温めながら従夫先生を偲んだ。
二人とも前夜式に感動していた。老舗大教会の牧師が極小規模教会で静かに葬儀...
田中先生の生き方もさることながら、最期の時のなんとかっこよいことか..。
ウリヤは規模の大きさで教会の優劣を語るつもりは毛頭ない。
南町田教会は、人的規模は小さくても、キリストによって建てられた教会である。
ウリヤは再度、南町田教会を訪ね礼拝に与りたいと思っている。
さて新宿で二人は酔っ払いと化した。時の流れは思いのほか速かった。
ウリヤは最終電車に乗り遅れた。その晩、ウリヤは勝田台教会に泊めていただいた。
追悼式、追悼会、そして埋骨式
2003年3月8日土曜日、田中従夫先生の追悼式が仙台東一番丁教会礼拝堂で行なわれた。
田中先生を知る多くの人が参列した。
この地上で田中先生に会うことができなくなった寂しさはあったが、悲しみはなかった。
生涯をキリストに献げ、数多くの信仰の種まきをして、神の国へ凱旋した田中従夫牧師。
会衆一同、田中先生に出会えたことを神に感謝し、天の御国で再会する希望を、あらためて思わされた。
追悼式の後、集会室「又新館」で追悼会が行なわれた。
喪主の田中弘志先生は
「やっと父はここ(仙台東一番丁教会)に帰ってきました。」
と語った。田中従夫先生が帰ってきた...ウリヤは妙に嬉しかった。
午後になると朝からの雨は上がった。
仙台東一番丁教会は、仙台市青葉区北部の墓苑の一角に、共同墓地を持っている。
午後3時過ぎ、同所で埋骨式が行なわれた。
仙台東一番丁教会北山教会墓地には26柱が収められていた。田中先生の遺骨が27番目である。
田中従夫先生は天に凱旋された。そして骨は仙台に帰ってきた。ウリヤも
ここに帰ってきたい...そう思いながら、新幹線に乗り込んだ。 2003.3.15