水戸中央教会 説教       2008年6月8日

「永遠の命の水」

ヨハネによる福音書4章5〜26 節

5:それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
6:そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
 7:サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
8:弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
9:すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、
 どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
10:イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、
 また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、
 あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
11:女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。
 どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
12:あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、
 彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
13:イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
14:しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
 わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
15:女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
 16:イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
17:女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
18:あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
19:女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
20:わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
21:イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
22:あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
23:しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。
 なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
24:神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
25:女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。
 その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
26:イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」


 今週の聖書を学ぶ会の中で、神を知る、悔い改めるというのは、難しいものだという経験をしました。
毎週木曜日の聖書を学ぶ会では、今、マルコによる福音書を学んでいます。
最近、少し手法を変えて、説教形式ではなくて、グループ・ディスカッション形式というような形式に変えました。
 どこで誰が何をどのように、なぜしたのかという、極単純な質問を積み重ねて行くのですが、
分かり切っていることでも、一度、問いの形式にして、自分自身を問いますと、
不思議と聖書の言葉の理解が深まることを体験しています。
 今週は、3章の安息日にイエス様が、手の萎えた人を癒された奇跡の記事でした。
この学びの中で、わたしはイエス様が、手の萎えた人を奇跡によって癒せば、
当時の規則に違反するというファリサイ派の人々が仕掛けた罠のような中で、
決然とたった一人で、人を愛するがために癒しの奇跡を行われたことを改めて思いました。
そして、イエス様のようでない自分というものがあることを考えました。
 つまり、大勢の人がいるところで気後れしたり、
人間関係の中で、本当は言わなければいけないことを言わずに済ませてしまったりすることはないだろうか、
ということを話し合ってはどうかと考え、質問しました。

 ところが、案外、そのような質問に素直に答えるというのは難しいのです。
なかなか自分の失敗を語るというのは難しいことです。
 沢山あるはずだということは分かるのですが、具体的には案外、これというものがないのです。
それで、自分はドイツで学生だったときの失敗談を話しました。
 教会の会堂守りの方が休暇で、日曜日の礼拝の準備や後始末を頼まれることになりました。
5千円くらいのアルバイトでした。
 礼拝堂の脇の壁には讃美歌の番号が差し替え式になっていたのですが、
わたしはその番号を右と左の壁で一カ所、間違えてしまいました。
 日曜日の礼拝のまっただ中でその間違いに気がついたのです。
右と左で歌っている歌詞の番号が違って不協和音が生じたからです。
礼拝堂の前へ行って、「こっちが正しいです」と指示して謝ることができませんでした。
「これはまずいけれど、今、前へ出ていっていいのだろうか。」と、思ってしまったのです。
そして、「どうしよう、どうしよう」と思っている間に過ぎていったことを例として話しました。

 そして、話し終わって少しして気がついたのですが、自分の話はいかに偽善に満ちているかということです。
この先のわたしの失敗は、「わたしはドイツで勉強したんです。」ということを言いたいだけなのだと思うからです。
 今、こうしてお話ししていることは恥の上塗りでしょう。
他にも人の目を気にして言えなかったことは沢山あるはずなのに、
人に言えるのは、自分の体裁を整えるような話しか思いつかない、
というところに自らの虚栄心の根深さを見た思いがしました。

 先週の日曜日、大洗鹿島線の電車に久しぶりに乗りました。
向かいに中学か高校くらいのいわゆるいかにも不良ぽっいカップルが座っていました。
後ろのドアから降りようとしますと、彼らも一緒について来ました。
ところが降りようとしたら、ドアが開きません。先頭のドアだけが水戸駅では開くんですね。
わたしは思わず、びびってしまい「これは前のドアだけが開くんですね。」と、
後ろにいた彼らに丁寧語で話してしまいました。

 こんな話は他にもあるはずなのですが、自分の体裁やメンツが潰れてしまうようなことは、決して浮かんで来ません。
わたしは非常に狡猾で頑なだということを改めて思いました。
 悔い改めるということを心の奥深いところで拒否しており、
悔い改めると言いながら自分の正しさをより強く主張しようとするのです。

 先日、集会の司会を依頼されました。
司会だからガウンは不要と思っていたら、着用してくださいと言われ、居合わせた牧師さんのガウンを借りました。
後で、その牧師さんは前科7犯で、
30歳の時、三度目の服役の際、刑務所で差し入れられた聖書から悔い改めて牧師になった方だと分かりました。
 ヤクザで、組のbQになったころに覚醒剤で身を持ち崩し、
ヤクザからも見放されて生きるところがなくなって犯罪を犯し、刑務所で神の言葉に出会ったそうです。

回心の御言葉は、エゼキエル33章11節

「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。
むしろ、悪人がその道から立ち返って生きることを喜ぶ。
立ち返れ、立ち返れ、おまえたちの悪しき道から。
イスラエルの家よ、どうしておまえたちは死んでよいのだろうか。」

 進藤龍也先生の証(BLOGより)罪人の友 主イエス・キリスト教会
「救われる以前の私は前科7犯の元ヤクザです。 学歴も手に職もありません。おまけに小指もありません。
あってはならない前科と刺青があります。 こんな私が、どこからどうやって救われたのかを証いたします。
 18歳の時からやくざ一筋の人生の中で、
10年後 組のナンバー2に出世しましたが覚醒剤の打ちすぎで組を破門になってしまいました。
ヤクザになる・・・ということは、社会から信用を失っているということです。
 だからヤクザはヤクザの掟の中に生きるのですが、そのヤクザがヤクザから破門される・・・
ということは生きる術を失うということです。
 そんな中で逮捕されます。 私にとっては、お先真っ暗・・・ しかし、この出来事が救いの始まりでした。
 刑務所の暗〜い、くら〜い独居房のなかで聖書と出会います。
人生をやり直したい!この一心で聖書を読みました。 そこで イゼキエル33:11 に、出会い回心したのです。
 わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。かえってその悪人がその罪を悔い改めて生きるのをわたしは喜ぶ。
立ち返れ!立ち返れ!お前の悪しき道から。進藤龍也よ!どうして、おまえは死んでもよいのだろうか。
 この御言葉で私は 生まれて初めて悔い改めたのです。 今までの自分勝手な生き方を恥じたのです!憎んだのです! 
 私が悔い改めたから愛されたんじゃない! 神様の愛を知って 生まれて初めて悔い改めることが出来たのです。
 こ〜〜〜〜んな 私が救われたのだから、救われたのならば いかに生きるべきか!
 救われた者としての生き様が本当の証であると私は思います。
 分かりやすい罪人の代表として、ここに立っています。 
 死骸であった、ロバの顎の骨のような私であっても イエス様の十字架と復活によって清いもの者とされた。
 どんなハンデがあったて、イエス様によって用いられるようになったんです。」

 進藤先生のような方のお話しを聞きますと、わたしが悔い改めることが難しいというのは、
恵まれすぎた甘えなのではないかと思われます。

イエス様はシカルというサマリアの町へいらっしゃいました。
サマリア人は当時ユダヤ人たちからは正しい教えから脱落した人々として非常に嫌われていました。
 お昼に、町にあったヤコブに由来する井戸のそばにイエス様は座られました。
そこへ一人のサマリアの女が水を汲みに来ます。
 井戸の水くみは早朝の仕事ですが、この女は、色々な厭うべき経歴があり、
人々から白い目で見られており、人々が集まる時ではなく、
この乾燥地帯の照りつく日差しのもと、暑い正午に水を汲みに来るしかありませんでした。
 人目を気にしていたでしょうし、実際、嫌な目に遭ったでしょう。
それは彼女の経歴からして当然の社会的制裁であったと考えることができます。
 イエス様が「女に水を飲ませてくれ」というと、サマリアの女は驚き、躊躇します。
なぜなら、ユダヤ人がサマリア人にものを頼むなどと言うことはあり得ないことだったからです。
そしてイエス様が永遠の命の水について話すと、
サマリアの女は、その水を下さいと願い出ます。
彼女の生きている環境がいかに厳しいものであったかが伺われます。
 なぜならば、神の子、イエス・キリストの言葉を素直に聞いて受け容れられるということは、
よほど厳しい孤独な状況でなければ人間は受け容れられないからです。

4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
4:16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
4:17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
4:18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
4:19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」

 ここで明白なのは、神は、わたしたちの最も恥ずかしい過去をご存じの方であるということです。
そして、それを承知の上で神は御子を世に遣わして、救いに与らせて下さり、永遠の命を与えて下さるということです。

 わたしたちの誰にでも、自分では普段は忘れてしまったり、心の奥に鍵を掛けてしまっているようにしている、
誰にも言えないような過ちや間違いや恥ずかしいことというものはあります。
 人に知られたくないと思うようなことでも、神は全てをご存じであり、それを承知で、
わたしたちをなお愛して下さっている方が神様であり、
その愚かなわたしたちのために十字架に架かって死んで下さったのがイエス・キリストです。

 わたしたちは人の前では、何か自分は何者であるかのように思って、何者かであるように振る舞っていますが、
神の前でそんな大したものではありません。あるはずがありません。神の前で取り繕うことなどできるはずがありません。
 しかし、わたしたちはあたかもそれが出来るかのように、色々とよい業をしようとしたり、
わたしはこんないいことをしたのだから神様を喜ばせていると思ったりします。
 わたしたちは唯一真の神、全知全能の神を信じています。
善行や修行をしたところで、それによって少しでも神に近づけるなどと言うことはありません。
そうではなくて神が人となってわたしたちに近づいてきて下さりました。

 そしてわたしたちの愚かさも醜さも、虚栄も偽善も全てをご存じて、全てを十字架の血潮で清めて下さいました。
修行やよい業によって自分の罪が清められると思っているならば、
わたしたちは全知全能の唯一の神を信じているのではありません。
 その神は何も見えず、知ることができない神です。だから人間がごまかしたり思い込んだりできるのです。

 しかし、わたしたちは全知全能の神を信じています。
そしてこの神はわたしたちの全ての悪を承知で、全てを許してくださって、
わたしたちに生きろとおっしゃってくださっています。

 「イエス・キリストを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」
この聖書の御言葉の真実に立って、一人、神の前に静まって祈ることを大切にしたいと願います。

 わたしたちの主イエス・キリストに栄光が限りなくありますように。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教