水戸中央教会 説教       2008年5月18日

「イエス・キリストの十字架」

ヨハネによる福音書 19:16〜30

16:そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

   こうして、彼らはイエスを引き取った。
17:イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、
 すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向われた。
18:そこで、彼らはイエスを十字架につけた。
 また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
19:ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。
 それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
20:イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。
 それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
21:ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、
 「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
22:しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
 23:兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。
  下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
24:そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、
   「彼らはわたしの服を分け合い、
   わたしの衣服のことでくじを引いた」
  という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
25:イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとかが立っていた。
26:イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子たちとを見て、母に、
 「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
27:それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」
 そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

 28:この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。
  こうして、聖書の言葉が実現した。
29:そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。
 人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
30:イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 最近、とある牧師のセミナーに参加していましたら、
「クリスチャンになって何も生き方に変化が見られないとするならば、
それはイエス・キリストの十字架の意味がよく分かっていないからだ。」
というお話しを聞きました。
 「なるほど、確かにそういうところはある。」と、思いながら、ふと振り返ってみますと、
わたしは2000年に水戸中央教会へ赴任してから、
イエス様が十字架に架けられた聖書の箇所で直接、説教をしたことはあまりないことに気がつきました。
 ここのところ日本基督教団の定めた教会暦に基づいて万遍なく説教をしているつもりでしたが、
主が十字架に架けられた受難日は復活祭の前の金曜日で、
キリスト教国ですと休日で、教会の礼拝が日曜日のようにありますが、
わたしたちの水戸中央教会では、そのようなことがありません。
 教会暦では、金曜日の受難日はかならずこの十字架の箇所が説教箇所となっているのですが、
その日に、礼拝がありませんから、ずっと十字架のことを話すことがなく来てしまいました。

 思い返してみますと、受難週の始まりは棕櫚の聖日です。
それはイエス様がこれからエルサレムに入城する箇所が説教箇所になっています。
そして、次の週が復活祭ですので、イエス・キリストの復活の箇所が説教箇所となります。
 もちろん説教の中でイエス・キリストの十字架と復活の出来事は毎回、かならず触れますし、
そのことを説教するのですが、十字架の箇所から直接、説教をしたことがほとんど記憶にないことに気がつきました。
 それで今日は急遽、日本基督教団の定めた教会暦による聖書箇所とは関係なく、
十字架のところを説教箇所とさせて頂きました。
キリスト教のもっとも重要な教えについて、具体的的にすっぽり抜け落ちてしまっていたことにハッと気がつきました。
今後も、時々、意図的に教会暦を離れて十字架について語るようにしなければいけないと考えている次第です。

 十字架は、ペンダントとして現代はペンダントのデザインとして大人気です。
バスや電車の中でも、町を歩いていても、日本のいたるところで、十字架を首から提げている人を見ます。
 本来的にはそれはクリスチャンの敬虔さを表すものですが、この日本では単なるファッションとなっています。
クリスチャンでなくてもクリスマスをお祝いするのと同じように、
十字架のペンダントをつけていてもクリスチャンである可能性はほとんどありません。
 十字架は、人間が考えた歴史上、もっとも恐ろしく残虐な死刑の方法であり、十字架はその道具です。
十字架による死刑の起源は紀元前のローマ帝国にさかのぼります。
 死刑に定められた罪人を裸にして、十字架に大きな釘で打ち付けて、
その十字架を地面に立て、そのまま死ぬまで晒し者にします。息が絶えるのに何日もかかることもまれではないそうです。
 打ち付けられて釘の痛みと、十字架が立てられたとき、釘が刺されているところに体重がかかり、
激痛が走るであろうことは、想像に難くありません。
 イエス様が数時間で亡くなられたのは、十字架に架けられる以前に、
むち打たれたりして痛めつけられていたことも関係していると言われています。

 ローマ帝国時代には、死刑の方法は他にもあり、十字架はその中でも最も厳しい刑で、
ローマ市民は、どんなに悪いことをして死刑にされても、十字架刑にはならないことが定められていました。
なるべく多く激痛の苦しみを与え、しかもその苦しみが長く続くようにしたのが十字架による死刑です。
 死刑といいますと、フランス革命のギロチンなどが恐ろしげに見えますが、
あれはなるべく受刑者の苦痛を減らす為に考え出された死刑方法です。
電気椅子や絞首刑、銃殺なども基本的には受刑者の苦痛を少なくするものです。

 人類史上、ただ一度、この世にいらっしゃった世の救い主イエス・キリストは、
十字架に架けられて殺されたということは、キリスト教の最も中心的なメッセージです。
キリスト教の核をなしている出来事です。
 なぜ、この世に歴史上、唯一度現れた最も正しく、最も有能で、神の力を持ち、
愛に満ちた方が十字架に架けられて殺されるというようなことが起こったのでしょうか?
なぜ神は、ご自身の愛する御子が、十字架に架かって殺されることをよしとされたのでしょう?
 普通の人間の考え方ならば、そんな素晴らしい神の子は、この地上で素晴らしい王国を作り上げ、
しかもその王国は、この地上で史上最大の帝国となり、子孫も沢山できて、どんどん発展してゆくと考えます。
このような考え方に立っているのが似非宗教の統一協会です。
 その他、似たようなものは数限りなくあります。間違った宗教は大抵、この普通の人間の考え方に基づいています。
ですから、これらのニセ宗教は普通の人間に受け容れやすいのです。
 日本の国家神道も基本的には、この人間的な普通の考えに基づいています。
最も素晴らしい神の子の子孫が、日本を統治する正当な権利を持っているとしているからです。
 しかし、唯一真の神であり、天と地と全てを創造された神の御子はこの地上で大帝国を打ち立てるのではなく、
弟子にさえ裏切られて、十字架に架けられてみじめに死んでしまいました。
そして、それこそが「神の御心であり、ご計画であった」と、するのがキリスト教です。
 イエス・キリストは神の御心に従い抜いたから、十字架に架かって殺されたのです。
わたしたちの考える神とは全く違う神様がここに姿を表しています。

 28:この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。
  こうして、聖書の言葉が実現した。
29:そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。
 人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
30:イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。


 ヨハネ福音書は天地を創造された神への深い洞察をもって記録されている福音書です。
「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった」という冒頭部にも明確にその傾向は確認されます。
 十字架に架けられて死んだイエス様の最後の言葉は「成し遂げられた」という一言でした。
 ここに、わたしたちは全ての人間が本来為すべきことが全て完全に為し遂げられたということを信じています。
わたしたち人間が、他に何かを付け加えて、イエス様のしたことよりもより良いことが出来るということではありません。
キリスト教会はそのような教えを完全に否定してきました。
神の子が、人間となって全ての人間が本来なすべきことを全て成し遂げてくださいました。

 イエス・キリストは、わたしたちの罪の為に、わたしたちの身代わりに死んで下さったのです。
わたしたちが神のために何かをしなければならないことは何もありません。
わたしたちはただ、全てをなして下さった神の御業を感謝して受け取り、神の栄光を語り伝えてゆくだけです。
 この神の御業がわたしたちを解放します。そして、この神の御業がわたしたちの罪を白日の下にさらけ出します。
 なぜならば、神は、「全てのことは、わたしの子イエス・キリストによって全て為された」とおっしゃっているにもかかわらず、
わたしたちは何かをしなければならないと思い続けているからです。
 わたしたちの人生の目的は、本来この神を讃美し、この神の栄光を讃えることですが、
実に巧妙に、あるいは露骨にこの人生の目的をすり替えて、神ではなくて自分が讃美され、自分の栄光を求めます。

 わたしたちが嬉しいと思うとき、楽しいと思うとき、それは、自分の能力や力が人々から認められたとき、
自分が人よりも豊かだと思うとき、それを実感する時ではないでしょうか。
 また「自分は人よりも偉い」と、思いたい、思われたいという一心で極つまらないくだらないことでも一生懸命になり、
あげくの果てには争い、人殺しまで辞さないのがわたしたち人間の赤裸々な姿です。それがわたしたち人間の隠れた素顔です。

 ピラミッドのような大きな墓をつくり、ベルサイユ宮殿のような豪華な宮殿を造るのは、
自分の存在を人々に知らしめようとするそれぞれの王の思いでなくてなんでありましょうか。
それらはすべて、海の波打ち際に造られた砂のお城のようです。
時間の波に洗われて全てがもとの砂浜の砂に吸い込まれていくように、消え去ってゆきます。それは虚しいことです。

 この世にいらっしゃった神の子イエス・キリストは、大きな宮殿や墓を造らせたりはしませんでした。
人々を愛し、弟子たちを愛し、神の御心に従って、十字架に架かって苦しんで死にました。
 十字架に架かって苦しんで死ぬことなどが、わたしたちの人生の目的となったことがあるでしょうか。
そんなことはあり得ないことです。
何の悪いこともした覚えがないのに、苦しめられて死ぬというのは不当なことであり、
もしそのような目にわたしたちが遭ったとしたら、その不当性を死ぬまで訴え続けるでしょう。
「神様なんてどこにいるのか」とその不当性を訴え、神の存在を否定するでしょう。
 しかし、神ご自身がこの世にいらしてなさって下さったことは、不当に苦しめられて死ぬことでした。
 イエス様のような正しい方が不当に、全く不当に苦しめられて、それを受け容れられたのに、
わたしは、なぜ、わたしが受けるわずかばかりの苦しみを不当だと思うのでしょうか。
もちろん、不当な苦しみとして、表明し、自分自身の人間の尊厳を守らねばならないことはあります。
しかし、それは、むしろ十字架につけられたイエス・キリストの故であって、
イエス・キリストの御業を否定するものでは決してありません。

 わたしたち人間が為すべき、最も重要で素晴らしいこと、そしてわたしたち人間が為すべき本来的に全てのことは、
イエス・キリストによって全て成し遂げられたということがわたしたちの信仰の核心です。
そして、この信仰はイエス・キリストによって突然、始まった訳でもなく、
この世にイエス様やキリスト教会によって言われはじめたことでもありません。
 それは旧約聖書にも初めから言われている聖書が伝える信仰の最も本質的なメッセージです。
 「神ははじめに天と地を造られた」と、聖書は教えています。
つまり神様はこの世の全てを既に素晴らしく造って下さいました。
わたしたちはこれをより良く、より美しくすることなどできません。
 冬は寒いので、太陽を二倍の明るさにしようなどと言うことは人間にはできません。
できたとしても、もしそんなことをすれば、地球環境はずたずたになってしまいます。
そして、わたしたち人間にそのような知恵や力が与えられていないことをわたしたちは感謝すべきです。
なぜならば、もしそのような大きな力や知恵が与えられていたら、
些細なことでも争い、和解のできないわたしたちですから、全人類はその大きすぎる力によって自ら滅んでいるでしょう。

 イエス・キリストは神の御心に従って自ら、十字架の苦難の道を歩まれました。
「正しい人がなぜ苦しまねばならないのか?」と、わたしたちは疑問に思います。
 しかし、真実はそうではありません。正しい人こそが苦しみを身に受けて生きることができるのです。
悪人は、苦しみを避けて、自分の快楽を求めます。そして、罰を受けて苦しむのです。その罰は当然であり正当なものです。
 イエス・キリストは神の御心に従い続けました。
そして苦しめられて死にましたが、その生涯は無意味なものではありませんでした。
そうではなくて、わたしたちに真に生きる意味を与える素晴らしい生涯を歩んで下さいました。

 わたしたちの人生はつらいことばかりで、何も人からも誉められることなく、誰にも知られず、
世界の片隅でひっそりと死んでゆくような人生であるかもしれません。
しかし、そのような人生もまた神はしっかりとご覧になっているであり、
むしろ、そのよう人生こそが神の祝福を受けていると聖書はわたしたちに伝えているのではないでしょうか。
 神様が全てを造り、全てを成し遂げ、良しとされました。
神はわたしたちの何でもない普通の人生を見て、あなたの全ては素晴らしかったと、
イエス・キリストにおいておっしゃっているのです。

 神に感謝を捧げ、イエス・キリストの御業を讃美することができるならば、
わたしたちはいついかなる時も、どんなみじめな状況であっても、
この世で得られる限りの幸いの全てを与えられているのであり、
この地上で為すべき全てのことを為し遂げているのです。
 そして、それ以外のことに喜びと人生の意味を見つけようとするならば、
人間の人生はどんなに高い地位と多くの富と権力を得たとしても、
取り返しのつかない無意味な人生を生きてしまったのです。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教