土浦教会 代務説教 2008年5月4日
「生きた命の水」
ヨハネによる福音書7章32〜39節
32:ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。
祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。
33:そこで、イエスは言われた。
「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。
34:あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。
わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」
35:すると、ユダヤ人たちが互いに言った。
「わたしたちが見つけることがないとは、いったい、どこへ行くつもりなのだろう。
ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。
36:『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。
わたしのいる所に、あなたっちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」
37:祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
38:わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
39:イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。
イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、”霊”がまだ降っていなかったからである。
イエス様の多くのしるしと奇跡を見た群衆は、
「このイエスという方こそ、メシアではないか。」
と、信じるようになり、これを恐れたファリサイ派の人々は、
イエス様を捕らえるために下役のものたち、部下を遣わします。
彼らはイエス様がメシアであるとは認めていなかったからです。
ご自分を捕らえようとしてやってきた人々にイエス様はおっしゃっています。
33:そこで、イエスは言われた。
「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。
34:あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。
そして、その直後に、イエス様は、祭りが最も盛大に祝われる時、不特定多数の大勢の人々に向かって、
37:祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
38:わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
先に、
「あなた達はわたしを捜しても見つけることができず、来ることもできない」
と言いながら、
「渇いている人は誰でも、わたしのところに来なさい」
と、おっしゃっています。
一方では、「わたしのところに来ることはできない」と言いながら、
「誰でもわたしのところに来なさい」というのは矛盾です。一体これはどのようなことなのでしょうか。
実際のところ、イエス様は、この後、しばらくしてファリサイ派などの人々によって探し出されて、捕らえられ、
十字架につけられて殺されてしまいます。
ユダの裏切りによってイエス様は捕まえられてしまう訳ですが、
ユダが裏切らなかったら、イエス様の
「わたしのいる所に、あなた達は来ることができない」という言葉は、
ずっと守られたであろうということでもありません。
イエス様の十字架の死と復活、そして、その後、天の神様のもとへ昇ってゆかれたということを知っているわたしたちには、
イエス様のおっしゃったことが分かります。イエス様が語っておられるのは、父なる神の天の御国へ行くということです。
「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができない」
という言葉を聞いて、ファリサイ派の僕たちは、「どこか遠い外国にでも高飛びするのだろうか」と、思います。
このような記録はヨハネ福音書だけにあり、他のいわゆるマタイ、マルコ、ルカの福音書には伝えられていませんが、
モチーフとしては他の福音書にも共通するものがあります。
たとえば、マタイ福音書におけるイエス様がお生まれになった時の出来事です。
東の国から来た博士たちがヘロデ王のもとにやってきて、
「新しく生まれた王はどこにいますか?」と尋ねます。
ヘロデ王は自分の地位が脅かされると不安になり、東方の博士たちの知らせに基づいて、
イエスが生まれた近隣の子供を手当たり次第に虐殺するという暴挙に出ます。
しかし、イエスは神のお告げによってヨセフとマリヤに守られてエジプトへ脱出します。
「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができない」と、
イエス様に言われた「あなた方」とは一体どのような人々でしょうか。
それはイエス様を捕らえようとした人々です。
真理をつかもう、真理を理解しようとして、イエス様を捕らえようとしたのではありません。
彼らは自分たちこそが正義であり、正しいと信じていたからイエス様を捕らえようとしたのです。
彼らはイエス様の正しさと権威を認めなかったにも関わらず、徐々に群衆がイエス様を認めるようになってきました。
彼らは、自分たちの地位が脅かされると不安を感じて、イエスを捕らえようとしたのです。
「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい」と、
イエス様がおっしゃった「渇いている人」とは誰でしょうか。
それは「義に飢え渇いている人」です。この人々は自分の内に正義がないことを知っています。
そして自らの罪と悪を認める人々です。
「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」にイエス様はこの言葉を
「立ち上がって大声で言われた」とヨハネは伝えています。
祭りが最も盛大に祝われるとき、人々の心は高揚します。
そして、食べて飲んで、満腹しているときではないでしょうか。
「渇いている人」など誰一人としていない時ではないでしょうか。
この祭りは仮庵の祭りであったと、7章の冒頭にあります。
これは収穫祭とも言われるものですから、まさに収穫を祝って人々が満腹している時です。
ですから、このイエス様がおっしゃった「渇いている人」の「渇き」は肉体的なものではなく、霊的なものです。
イエス様のところへ行くことが出来るのは、自らの罪を認めて、神の義を求める人々です。
今日、わたしたちは教会の設立を祝う記念の礼拝を持っています。この土浦教会の誕生を祝う、祭りの意味を持った日です。
この日は、この教会を導かれた神の恵みに感謝すると共に、
自分自身の教会に対する態度、教会の中での自分自身を振り返るときでもあります。
教会でわたしたちはイエス・キリストの福音に触れ、イエス・キリストを信じ、従う者とされて、洗礼を受け、
救いの恵みに与っています。
わたしたちは自らの罪を認めて洗礼を受けました。
自らのプライドがペシャンコにされて、無きに等しいものと自覚することが洗礼を受けると言うことです。
そして、そのことが信仰生活の深まりと共により明らかになっくるはずなのです。
しかし、時として全く逆のことが起こります。あるいは一種の錯覚に陥ります。
つまり、クリスチャンとして神の恵みの中で生活している中で、わたしたちは徐々に自分を積み上げ始めるのです。
自分の居場所を作り上げてしまうのです。
自分は彼または彼女より信仰生活が長いから、教会の中で発言権がより大きく、
重んじられるて当然ではないかという思いが起こってきます。
たとえば、新しく教会に入ってこられた方が、何か提案や発案をされるときに、
「ああ、そんなことは、前にも言われたことがある。あの人は事情を知らないのだ。」
と思うような時があるものです。
また、新しく加わった方は加わった方で、
「あの人は、長くいらっしゃるから、発言権があり、重んじられるのだ。」
と思うことがあるのではないでしょうか。
そして、「自分も長くいれば、認められるようになってくるのだろうか」とか、
「新参者だから認められないのだ」とか思ってしまうことがあるのではないでしょうか。
このような考えは、どちらも、教会の中で、人々から自分が認められるか認められないか、
というところに問題の中心があり、共に間違っています。
自分が善意でなしたことが否定されるようなことがありますと、わたしたちは大変激しく怒るものです。
わたし自身、今もそのような思いが、自分の中にあることを認めなければならないことに気がつかされています。
つい最近も思い当たることがわたしにはあります。
教会の中で、自分のなした善い業を認めて欲しいという思いがわたしの中にもあるのです。
しかし、わたしがクリスチャンとして神様の恵みの内に入れて頂いたのは、そのようなことではありませんでした。
わたしの人生の生きる喜びは、わたしがわたしの内に生きてくださっているキリストの力が、
ますます強まってくることであり、わたしのプライドやわたしの正義やわたしの素晴らしさが、
キリストによってうち砕かされて、新たなものに作り替えられることにあるはずです。
そこにこそ、クリスチャンとしての生きる喜びがあるはずなのですが、
わたしは、キリストを認めることではなくて、自分が認められることを求めてしまうのです。
「わたしは何代目のクリスチャンです」という言葉の背後には、本来的に人と神の前での謙遜と誠実さがあるべきですが、
しばしば、高慢とプライドが見え隠れすることがあります。
そしてまた、その言葉を聞いたときに、何代目のクリスチャンでもないわたしは、
相手はそんなことはなにも思っていないのに、勝手に「高慢だ」と思ってしまう、
あるいは引け目を感じるわたし自身の高慢とくだらないプライドがあります。
信仰生活の長さばかりでなく、この物差しは社会的な地位や富や能力でも同じことが起こります。
「あの人は同じクリスチャンでも、あんなに豊かなのに、自分はこんなに貧しい。神様は不公平だ。」
と思ったりしやすいものです。
なかなか、
「あんなに豊かそうに見える人でも、同じクリスチャンなのだから、わたしと同じ重荷を負っているのだな。」
という連帯感を持って兄弟姉妹と向き合うということは難しいものです。
それは、やはりわたしたちが自分の正義を主張している証拠であって、
このファリサイ派の人々と同じように、イエス・キリストを捕らえようとして捜しているのです。
牧師などをしていますともっと卑屈になって、この世的に豊かな人を見て、
「何とかそのおこぼれに与ることが出来ないか」などと考えたり致します。
この世の権威には従うべきでありますが、卑屈になることはないはずです。
しかし、なかなかこれが難しい。
やっぱりこの世で、重んじられている人が教会に来ますと、喜ぶし、
そうでない人が来るとうさんくさい目で見てしまいます。
ですから、ここにこそ、わたしたちが教会の設立を、今日お祝いする意味があるのではないかと思うのです。
つまり、教会設立の原点に返って自分自身を正す、来し方を振り返って、未来を見つめる意味があるのです。
このように人を分け隔てする自分自身に気がついて、自らの罪を愚かさを認めるとき、
わたしたちは再び、「渇いた者」となって、イエスのもとで飲むことを許される者となることが出来るのです。
「その人の内にから生きた水が川となって流れ出るようになる」
その時、このイエスの言葉にあるように、わたしたちは兄弟を裁くのではなく、
愛する者へと変えられるのではないでしょうか。
このことを覚えつつ、わたしたちは共に新たな年を重ねて行きたいと願います。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988