水戸中央教会 説教 2008年4月20日
「人は理由もなくキリストを憎む」
ヨハネによる福音書15章18〜27節
18:「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。
19:あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。
だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。
だから、世はあなたがたを憎むのである。
20:『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。
人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。
わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。
21:しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。
わたしをお遣わしになった方を知らないからである。
22:わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。
だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。
23:わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。
24:だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。
だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。
25:しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
26:わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、
すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
27:あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
イエス・キリストを信じて、生きてゆくとき、わたしたちはこの世の人々から憎まれることがあると主は語って下さいました。
この御言葉はわたしたちにとって大きな慰めです。
なぜならば、イエス・キリストを信じて、誠実に主に従って行こうとする時、
わたしたちは、攻撃を受けることがしばしばだからです。
自分の得には何もならないけれど、それが最終的には愛する隣人のためであり、
多くの人々、あるいは何人かの人々のためにはそれがいいと信じて、あえて行うとき、
わたしたちは時としてあしざまに言われ、ののしられ、愚かだとか、傲慢だとかさえ言われることがあります。
そのようなわたしたちを励まし、倒れそうなわたしたちを支えて下さるのがこの主イエス・キリストの御言葉です。
ただ、ニセ宗教の教祖などもよくこの言葉を利用して、無知な信者を自分の欲望のためにこき使います。
カルト宗教の信者が、売れない物売りで、何件も尋ね歩いて、何も売れないときに、
「真のご父母さまも、世から受け入れられず、苦しんでいらっしゃるのだ。その苦しみをわたしも今味わっているのだ。
何と幸いなことだろう。」
などと、思ったと聞いたことがあります。
「そう思った途端に、大きな慰めが与えられ、日もとっぷり暮れて、夜に尋ねた、
一軒のお宅で一袋、数千円の法外な値段の珍味が売れた。
これこそ神の恵み、わたしたちの真のご父母様は本当のご父母様だ。そうして信仰が強められました。」
こう言われてしまいますと、イエス様の言葉も気をつけなければと身を引いてしまいそうですが、
イエス様の御言葉の真実はそのようなことで失われたり、覆われてしまったりするものではありません。
なぜならばイエス様は本当に罪なくして十字架に掛けられ、三日目に復活されているからです。
ご自分が儲かるような経済的な豊かさや、名誉や富をイエス様は求められませんでした。
そしてそのことはイエス様の生涯を通じて確かに誰の目にも間違うことなく証明されています。
しかし、ニセ宗教の教祖たちは、自分の語る言葉に反する生活をしています。
彼らは贅沢と肉欲におぼれ、名誉を求めて、外国の大学から名誉博士号を送られることを喜び、
信者から搾り取った献金で、学者や政治家を集めて何とか平和会議などというのを開催するのを喜びとしています。
ここに彼らが詐欺師であることが明らかにされています。
「結婚して下さい」という言葉を結婚詐欺師も使うから、「結婚して下さい」という言葉は使ってはならないとか、
そう言う言い方は間違っているということは出来ません。
愚かな詐欺師はイエス様の真実の言葉を利用しているだけです。
そのことは逆にイエス様の言葉がいかに真実であり力あるものであるかを証明しています。
本物があり、その本物が素晴らしい価値あるものだからこそ、ニセモノが出てくるのです。
たとえ本物であっても、それが何の価値もなければ、ニセモノが出てくることはありません。
この世から憎まれるということは、わたしたちが今、真実な道を歩いているという確かな道しるべです。
憎しみや抵抗に出会っても、わたしたちはひるむことはありません。
もちろん、わたしたちの思い込みで、信仰を強要したり、相手をむやみやたらと裁いたりして、見下したりするとき、
わたしたちの愛する隣人がわたしたちに反抗するということはあります。
それは、わたしたちの間違いであり、わたしたち自身が、ニセ教祖になってしまったということです。
このようなことは案外、わたしたち自身に起こりえることですから注意しなければなりません。
しかし、この区別は、わたしたちに与えられる聖霊によって明確になされますから、
「どうやって区別するのか」と、心配する必要はまったくありません。
わたしたちは不当な仕打ちを受け入れることができます。
相手をそれほど攻撃することもしたいとは思わないようになるのがその証ではないでしょうか。
15:19 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。
だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。
だから、世はあなたがたを憎むのである。
わたしたちが世から憎まれる理由は、わたしたちがもはやこの世のものではなく、
世から神様によって選ばれたからだと、イエス様は教えて下さっています。
神によって選ばれたというと、何か偉くなったような気がしますが、
わたしたちはこの世で支配者となるために選ばれているのではありません。
この世での誉れに心を動かされるのではなく、神のもとに留まり続けたいとわたしたちは願います。
15:20 『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。
わたしたちの主人とはイエス・キリストその方以外にはありません。わたしたちは主イエスの僕(しもべ)です。
イエス様は神の子であり、真の王の王でしたが、この世的な意味では栄光も栄華も富も名誉も持つことはありませんでした。
イエス様にできなかったことをわたしたちがする必要はありません。
この世での誉れや富を持ちながら、神の子としての誉れを神のもとで得ようとするのは愚かなことです。
神様はただ、わたしたちの弱さを省みて下さって、わたしたちがそこそこの生活ができるように養って下さり、
イエス様よりもよほど社会的に安定した生活をさせて頂いています。
イエス様はこの世で王や偉い人になれなかったのではなくて、ならなかったのです。
わたしたち人間は実に弱いものです。教会の中でもこのような、
偉い偉くないというような地位を巡る争いや混乱が起こります。
たとえば、水戸中央教会は、日本基督教団に属し、その中でも茨城地区に属しています。
そして茨城地区は他の埼玉、群馬、栃木、新潟の計5地区からなる関東教区に属しています。
そして、それぞれ地区長や地区委員、教区議長や教区の委員が置かれています。
この地区長になるとか教区長になる、あるいは地区や教区の委員になるということを、
わたしたちはこの世の出世と同じように捕らえてしまうことが非常に頻繁に起こります。
あるいは大きな教会に仕える牧師は偉いとか、
大きな教会の会員や役員は何かのステータスであるかのように思い込んでしまいます。
イエス様にとってはそのようなことはどうでもいいことです。
人によって選ばれるかどうかということは、わたしたちにとってどうでもよいことです。
人に認められるかどうかということもどうでもよいことです。
どうでもよいことにこだわるわたしたちであることを今、御前に告白し、罪の赦しを願いたいと思います。
重要なこと、本質的なことはわたしたちが神に選ばれており、神様に認められていると言うことです。
そして、わたしたちがイエス・キリストに従うがために出会う憎しみや困難は、
わたしたちがイエス・キリストによって確かに選ばれているということの証明です。
神を愛するならば、わたしたちの為すべきことは、わたしたちが出会う憎しみや困難を受け入れると言うことです。
そして、イエス様は、まさに
「あなたがたに対する憎しみは、わたしも受けたものだから、受け入れなさい」
と、命じて下さっています。
主は、この憎しみのゆえに十字架に掛けられました。
しかし、現代の日本社会を生きる私たちは十字架のような苦しみを受ける必要はありません。
けれどもだからこそ、わたしたちはしっかりと見据えなければなりません。
苦難が大きいとわたしたちは案外、正しい道からそれないものですが、
苦難が小さいと見過ごして、うっかりと大切なことを見失ってしまうことがあるからです。
恵まれた環境や豊かさの中で、今の若い人々はむしろ生きる喜びや目的を見つけることが難しくなっています。
それと同じようにわたしたちも迫害の嵐の中で、
信仰を守ろうとするときは案外、何が良いことで悪いことであるかが分かりますが、
迫害のないところでは神への信仰そのものが腐り果ててしまうことが起こるのです。
それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』とは、奇妙な言葉だとわたしたちは思います。
「なぜ、理由もなく神を人は憎むのだろう。」「そんなことが聖書に書いてあるというのはおかしいのではないか」
と、思います。神様によって人が、神を憎むようにされているように見えます。
しかし、そうではありません。これには一つの真理が隠されています。
それは、「神は理由もなく、わたしたちを愛した」ということです。
この真理のメダルの裏側が「人々は理由もなく、わたしを憎んだ」ということなのです。
あるいは「神は理由もなく、わたしたちを愛した」という印で粘土に押された跡が、
「人々は理由もなく、わたしを憎んだ」という言葉です。
神様が、わたしたちを愛して、選んで下さったのは、何か理由があったからではありません。
わたしたちがよい子だから、愛して下さっているのではありません。
何か素晴らしい能力があるから選んで下さったのではありません。
地位や名誉や家柄が素晴らしいから、神はあなたを選んだのではありません。
わたしたちが悩みの中にあり、苦悩の中にあり、小さく、貧しく、つまらないものとして捨てられたようになっていたから、
神はわたしたちを憐れんで救って下さったのです。
わたしたちが頑張ったから、認めて下さったのではありません。
わたしたちが神、自らのみじめさと孤独の中で、神に呼ばわったから、神は答えて下さっているのです。
15:24 だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。
だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。
イエス・キリストは、まさに見捨てられている人々、病の中にある人々を憐れみ癒し、罪人の罪を赦されました。
それは誰にもできないことでした。今も人間にはイエス様がなさったようなことをできる人はいません。
主は確かにわたしたちと共にいまして、わたしたちを守り導いて下さっています。
わたしたちが困難と迫害に遭うときも、神は確かにいて下さいます。
困難と迫害はむしろ、わたしたちが正しい道を歩んでいる印です。
ですから弱ることなく安心して、今日のこの日を感謝をもって歩んでいきましょう。
神の恵みはわたしたちの前に光り輝いています。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988