土浦教会 説教        2008年4月13日

「イエスに従う」

ヨハネ福音書21章15−25節

 
15:食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、
  「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。
 ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、
 イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
16:二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
 ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、
 イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
17:三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」
 ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。
 そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、
 あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
18:はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。
 しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
19:ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。
 このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

 20:ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。
 この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、
 「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。
21:ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
22:イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、
 あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
23:それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間で広まった。
 しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。
 ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、
 あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
 24:これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。
  わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
 25:イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。
  わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

 キリスト教は、仏教のような教えとか哲学というものではありません。
世界をどのように理解し、解釈するかということが、その中心にはありません。
キリスト教はイエス・キリストにおいて起こった出来事にあります。

イエス・キリストの十字架の死と復活という事件がキリスト教の核心です。
 ところが、この核心に立つことは非常に困難なことで、
わたしたちは、そうは言いながらも無意識のうちに、
キリスト教をイエスという偉大な宗教指導者が語った教えに矮小化しています。

「復活というのは、本当にあったのかどうかは分からないが、
とにかくイエスという男が教えたことは真実であり、真理だ。
イエスの言葉に聞き従ってゆくことが大切だ。
神を愛し、隣人を愛するということを大切にして、
敵をも愛するように人格を成長させてゆくことが重要であって、
復活は、イエス・キリストを信じるために必要不可欠なことではない。」
というように考えがちです。
 また非常に多くの人々がキリスト教の絵画や音楽や教会建築などの芸術を見て、素晴らしいと感嘆しています。
レオナルド・ダヴィンチの最後の晩餐の絵は日本人にとってすら、絵画の中で最も有名な絵です。
バッハは、あらゆる人々から最高の評価を与えられています。
バッハを評価できない人は、要は音楽が分からない無教養な人ということだけであり、
自分で自分をおとしめているだけです。
ケルンの大聖堂やパリのノートルダム礼拝堂、あるいはガウディの教会建築を素晴らしいと思わない人はいないでしょう。
 ところが、この芸術によって飾られている,
最も中心をなしているイエス・キリストの十字架と復活の出来事はないがしろにされています。
「復活なんていうのは作り話だ」と言っても、誰も軽蔑しません。それどころか尊敬されたりします。
わたしたちのキリスト教会の内部ですら、そのような傾向があります。
わたしたちがいかに信仰が薄いかということを顕著に言い表しています。

 「復活を信じないとは、何というクリスチャンだ。復活があったのは当たり前ではないか。
信じないとは本当に信じられない人々だ。」
というような人々ももちろんキリスト教会の中には沢山いますが、それでは、その生活はどうかと見ますと、
とても復活を信じているとは思えないような場合がまれではありません。

 統一協会という新興宗教が今もあります。彼らの教典である原理講論を見ますと、
「復活」という項目はあり、「キリスト論」という項目もあるのですが、
イエス・キリストの十字架と復活の出来事が本当にあったのか、なかったのかということは、ほとんど触れられていません。
歴史的事実として復活があったということには触れないで、
人間は霊界へ行くように輪廻転生の一パターンのような理解がされています。
輪廻転生があるので、復活もあるのだ。という程度の認識で、
実際にイエス・キリストの復活が起こったとき、どのようであったのかということは全く問題とされません。

 復活は現実に起こった事実として受け止めるところにキリスト教会は、始まります。
ここにわたしたちの望みと希望と生きる目的があります。

  ヨハネ福音書は、イエス様が十字架で殺され、墓に葬られて後に三回、
イエス様が復活して現れたことを報告しています。
これは、復活が確かに起こったことを意味しています。
 三度目というのは、日本語などにおいても確実なことの証拠として用いられる回数です。
 本日、わたしたちに与えられた聖書の箇所は、この三度目のイエス様の復活の出来事について語っています。
それは言うまでもなく、復活は確実に起こった事実であることを伝えようとしています。

 短く振り返って見ますと、第一回目はまさにイースターの日の夕方、
ユダヤ人たちを恐れて集まっていた弟子たちの真ん中に主が忽然と姿を現され、
「あなたがたに平安があるように」と繰り返しおっしゃり、聖霊と罪を赦す権威を弟子たちに与えられました。
 第二回目は、それから一週間後の日曜日です。
最初に主が現れたとき、居合わせなかったトマスは、「主を見た」と言う他の弟子たちの言葉を信じませんでした。
しかし、この日、主はトマスもいるところに現れて、トマスに「信じるように」と命じます。
 そして、三度目、ガリラヤ地方のティベリアス湖畔にいた弟子たちに主は姿を現されて、朝食を共にされます。
弟子たちの間に主の復活は動かし難い事実となっていました。
 最初に復活の主が現れたとき、絶望と悲しみの中にある弟子たちに平安と希望が与えられました。
二回目の時、復活に対する確信が与えられました。
 そして、今日の聖書の箇所にある三回目では、主は、食べるにも困っていた弟子たちに、食べ物を与え、
ペトロに任務が与えられます。三回目は派遣の時です。

 イエス様はペトロに三度、「わたしを愛しているか。」と、問いかけ、「わたしの羊を飼いなさい」と命じています。
 一応、念のために言いますと、この羊というのは、イエス様が大牧場主で、実際に羊を何頭も飼っていて、
その遺産の管理を任されたと言うことではもちろんありません。
 羊は比喩で、イエス・キリストを信じる人々、全てのことを表しています。

 このイエス様が、三回同じ質問を繰り返されたことは、
ペトロがイエス様を三度「知らない」と否定したことを赦すためにおっしゃったことであると言われます。
そして、それを踏まえて、わたしは思うのですが、
この「わたしを愛しているか」と、イエス様が三回繰り返しておっしゃったことは、
ペトロがイエス様を否定したことに対する赦しであると同時に、
ペトロ自身がその自分の弱さを決して忘れないようにする意味もあると思います。
 それはペトロに謙遜を教え、彼自身が高慢になって救いから漏れないようにする主の愛です。

 主が十字架に掛けられようとするとき、
ペテロは、「命を捨てても、イエス様について行きます」と、宣言しますが、
主は「鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言うだろう」とおっしゃいました。
 イエスが捕らえられた時、ペトロはイエス様の後を追って行きます。
しかし、人々から三度「お前もあの男の弟子ではないか」と、問われたとき、
三度ともペトロは、「違う」とイエスの弟子であることを否定してしまい、
三度目に否定したときにイエス様の言葉どおりに鶏が鳴きました。
 この事実は、ペトロだけが知っている事実です。彼にとっては恥ずかしい面目を失うようなことであったでしょう。

 ヨハネ21章のティベリアス湖畔にイエス様が復活の姿を現されたとき、
ペトロは、「主だ」と言う声を聞いて、上着を羽織って、湖に飛び込んで、イエス様のところへ泳いで行っています。
 また、陸に上がって、イエス様が「取れた魚を持ってきなさい。」と、おっしゃると、
舟でやって来た弟子たちではなくて、ペトロが自分で舟に乗り込んで網を陸に引き上げています。
 これらの他の弟子たちから突出したペトロの行動は、
「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」
と言うイエス様の言葉の根拠となっています。
そこには、イエスを知らないと言って否定したことへのペトロの後ろめたさもあったでしょう。
 ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と言うと、
イエスは「わたしの子羊を飼いなさい」と言われます。
それは最も小さい者を養い育てなさいという意味ではないでしょうか。
 イエス・キリストを愛すると、わたしたちは言いますが、
そこには、「神様がわたしを認めてくださる」ことを願う思いが強くあるのではないでしょうか。
 「良い人として認められたい」とか、自分が人々から認められることを望んでいないでしょうか。
丁度、学校のテストで一番をとるように、他人よりも優れているという優越感を得るのと同じように、
神様を誰よりも一番愛そうとすることが人間には起こりやすいのです。
そしてこの優越感は、自分よりも優れていない人々を踏みにじることによって得られるものです。
 しかし、イエス様はペトロに命じました。
「わたしの子羊を飼いなさい」それは、イエスに従おうとする他の大勢の人々を愛しなさいという意味です。
ペトロが大勢の人々に仕え奉仕することを意味します。
 小さな者を踏みにじり、弟子たちを支配し、利用することではなく、最も小さな人を養い育て、
主イエス・キリストの救いの中で、信仰的に人格的に成長させて行くお手伝いをするようにと、
主はペトロに命じられたのです。
 ペトロの評価は、彼がいかに多くの信仰的な業を成し遂げ、神のための業績を残したかではありません。
いかに羊が育ったかということにあります。
 ペトロがほめられることではなくて、彼の育てている羊が素晴らしいかどうか、
彼の羊がほめられるかどうかが、ペトロの生きる目的となったのです。

 主は、三度繰り返して、同じことを質問されました。
人は自分に都合の悪いことは、簡単に忘れてしまい、忘れたことさえ忘れてしまいます。
 ペトロは、心の中で、主を三度知らないと言った自分の恥ずかしいことに思いが至ったのではないでしょうか。
そして、イエス様は続けて、ペトロが自分の行きたくはないところへ連れて行かれるだろうとおっしゃって、
主の栄光を現して死ぬであろうことを預言されています。
 ですから、この三度の「わたしを愛するか」という質問は、
ペトロが三度イエスを知らないと言ったことと密接な関連の中にあります。

 信仰に熱心であると、熱心でない人々を見下し、裁くようになる傾向がわたしたちの心の中にあります。
厳しく、律法的にわたしたちはなって行きます。
「わたしはこれだけのことをしてきた」と誇る高慢な気持ちがわたしたちの心を支配してしまいます。

 イエス様の三度の質問は、ペトロに自分の過ちを思い起こさせ、
他人の過ちに対して寛容でなければならないことを教えています。
 ペトロがこの時、直ちにイエス様の思いを悟ったかどうかは疑問です。
なぜならば、イエス様は、ペトロに「自分の罪を見据えて、従ってきなさい」
という意味のことをおっしゃったにもかかわらず、イエスの愛しておられた弟子がついてくるのを見て、
「主よ、この人はどうなるのでしょうか?」という質問をしているからです。
 他人のことを心配するふりをして、自分と他人とを比較して、
自分の優位性はどうなるだろうかというような考えをしているからです。

「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。
あなたは、わたしに従いなさい。」
 イエス様はきっぱりと他人との比較を否定しています。
 他人がどうなるかに思いが至ると言うことは、自分の罪から目をそらすことであり、
それは罪を告白して、神の赦しと救いに与るという福音の道を自ら閉じてしまう行為だからです。
 他人がどのように評価されているかが気になるということは、
わたしたちが心の中でイエス・キリストに従っていないという事実のバロメーターです。
 わたし自身、牧師としてこのような心があることに思い至ることが多々あります。
そのような心があっても、何の反省もせずに気がつかないことがほとんどです。
 人と自分を比べることは、あってはならないはずですが、よくあります。
そして、ちょっとほめられたりすると、自分が何者かであるように思い込みます。
人より何か偉くなったように思い込みます。
 今日の説教はひどかったというような時は、家事も進んでしますが、
ちょっと、「なかなか良かった」というような時ですと、
買い物を頼まれても「何で俺がそんなことまでしなければいけないのか」と、不満に思います。

 おそらくペトロは、この後、誰にも話していなかった主イエスに従いきることができず、
イエス様を否定したあの夜の出来事を、他の弟子たちの前で語ったのでしょう。
ですから、福音書にあの鶏が鳴く前に三度イエスを知らないとペテロが言ったことがちゃんと入れられているのです。
 このペトロの失態はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの全ての福音書に記録されています。
ここにペトロに与えられた信仰の素晴らしさがあります。
自分の過ちや欠点を後世に伝えられるほどの彼の人格は成長したからです。

 世の中の武勇伝や偉人伝などには、普通は自分自身の情けない部分など書き残したりしません。
大抵は、その人がなした素晴らしい業績や、
困難の中でいかに希望を失わずに頑張って今の地位を築いたかなどと言うことが記されます。
これが聖書と一般の歴史書や偉人伝とは違うところです。

 よくダビデが部下のウリヤの妻、バトシェバを奪って、ウリヤを殺してしまったことを非難する人がいます。
しかし、これは実はいかにダビデという人が清廉潔白な素晴らしい王であったかということの証明なのです。
 日本の歴史の中で、体制側の権力者がなした過ちは決して書かれていません。
過ちは握りつぶされ、あたかもなにもなかったかのように消し去られてしまっているのです。
本当はダビデ以上の悪を平然と数え切れないほど行っているのです。
 日本の歴史の中で、ダビデがなしたことは過ちどころか、習慣化されていました。
そして、その子孫が先祖のなした過ちを後世に語り伝えて行くということはあり得ません。
これはこの世の人々の中で、自分がいかに優れているかということを言わなければ、
自分の地位の正当性が保証されないからです。
 しかし、聖書は本当に聖なる神に出会い、愛された人々の証ですから、
自分の罪を認め、それを語り伝えようとします。
彼らの存在の根拠は、自分が優れた人間であるからではなく、
唯一真の神が彼らを選び愛されたということにだけあるからです。

「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。
あなたは、わたしに従いなさい。」

 この言葉がヨハネ福音書が記録するイエス様が地上で弟子たちに語られた最後の言葉であり、最後の命令です。
 神の子、主イエスがわたしたちに命じたことは、わたしたちがイエス様に従ってゆくということです。
そして、他人と自分とを見比べないということです。
ならば、わたしたちは教会のような集団を形成するべきではなく、
教会など解散してしまって、一人一人が、バラバラに生きていれば比べることもなく、
純粋にイエス様に従うことができるのではないかと思うかも知れません。しかし、それは間違いです。

「あなたはわたしに従いなさい」というイエス様のご命令こそが、
わたしたちがここに共に集まり、教会共同体を形成する根拠です。
「あなたはわたしに従いなさい」というこの言葉によってわたしたちは集められました。
わたしたちの連帯の根拠はこの言葉にあります。
 そして、一人一人に与えられた神からの賜物と導きを比較したりして、
どちらが優れていると考えないところに教会の聖なる性質があるのです。

 この世は、このどちらがどれくらい優れているかという物差しによって社会が形成され機能しています。
財産や生まれや能力に社会が秩序が生み出され、人々がつなぎ合わされます。
 しかし、教会において人々がつなぎ合わされる言葉は、
「わたしに従いなさい」というイエスの言葉だけであり、それ以外のものであってはなりません。
そしてこの言葉に一人一人が集中して行くとき、わたしたちはイエス・キリストの体の一部となって働くことが出来ます。
「主よ、この人はどうなるのでしょう」という思いを抱き、自分と他人との比較が始まったとき、
それは教会共同体を破壊してしまいます。
 なぜなら、その時、わたしたちは主イエスを見るのではなく、自分とその兄弟あるいは姉妹を見ているからです。

 主の僕モーセが死んでヨシュアがその後継者となったとき、神はおっしゃいました。
「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。
あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」
 「強く雄々しくあれ」とはただ先立ち行くイエス・キリストを見つめて、主に従い続けることです。
「うろたえ、おののく」とは、他人と自分を見比べて、主を見失うことです。
 わたしたちの進む先には永遠の命が手を広げて待っています。
この大きな勝利の冠をわたしたちは決して見失ってはなりません。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教