
水戸中央教会 説教 2008年4月6日
「三度目の復活顕現」
ヨハネによる福音書21章1−14節
1:その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
2:シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、
ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
3:シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。
彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
4:既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
5:イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
6:イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」
そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
7:イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、
裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
8:ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。
陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
9:さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
10:イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
11:シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。
それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
12:イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。
弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。
主であることを知っていたからである。
13:イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
14:イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
ヨハネ福音書は、イエス様が十字架で殺され、墓に葬られて後に三回、
イエス様が復活して現れたことを報告しています。
これは、復活が確かに起こったことを意味しています。
三度目というのは、日本語などにおいても確実なことの証拠として用いられる回数です。
本日、わたしたちに与えられた聖書の箇所は、
この三度目のイエス様の復活の出来事について語っています。
それは言うまでもなく、復活は確実に起こった事実であることを伝えようとしています。
最初は見間違いかと誰もが思ったでしょう。二度目でも半信半疑かも知れません。
しかし、三度目となるともはやそれは動かし難い事実として認めざるを得ません。
復活したイエスが三度目に現れた時、
弟子たちはエルサレムを遠く離れたティベリアス湖畔にいたとヨハネ福音書は伝えています。
ティベリアスとはガリラヤ湖畔の町の名です。ティベリアス湖とはガリラヤ湖の異名です。
ルカ福音書ではエルサレムの郊外の山上でイエス様に弟子たちは会っています。
マタイ福音書では、復活したイエス様が「ガリラヤに行くように弟子たちに告げなさい」と、
言っていますからヨハネ福音書と符合しています。
ルカ福音書との場所の相違は今日となってはもはやどちらが正しいと決めることは出来ません。
既に新約聖書がまとめられた時点でそれは確かめられないものとなっていたか、
あるいは両方が正しいと認められていたのかも知れません。
一つの理由として考えられるのは、
イエス様が弟子たちにエルサレムから遠く離れたガリラヤ地方で現れたのは、
イエス様がエルサレムという土地に縛り付けられた自縛霊のような幽霊ではなく、
どこにでも行くことができる自由な身であることの証明ということです。
ペテロと他の弟子たちは、その時、とにかくガリラヤ湖畔に生活していました。
漁に出るための舟を彼らは所有している訳ですから自分たちの家に帰ってきていたのかも知れません。
ペテロが「漁に行く」というと、他の弟子たちもついてきます。
ペテロは、「ガリラヤで会う」と言われたイエス様の言葉に従って、イエス様を待っていたのかも知れません。
他の弟子たちに食べ物や物質的必要を満たすためにペテロは自ら漁に行こうとしたと推測されます。
食糧も資金も底をついていたのでしょう。
リーダー格のペテロは、しかしながら、「お前たちが、漁に行って来い」と命令するのではなく、
まず自らが仕える者としての模範をわたしたちに示しています。
ペテロが同行を強制したのではなくて、他の弟子たちも自発的にペトロに従っています。
舟で湖に乗り出し、夜中働いて、収穫はありませんでした。夜が明けて、イエスが岸に立っていました。
しかし、弟子たちはそれがイエスとは気がつきませんでした。
彼らはイエスと出会うためにガリラヤにいるのですが、
目的のイエス様その人が現れたとき、弟子たちは、その人がイエス様であるとは思いも寄りませんでした。
21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
イエス様も、「ここにいるのはわたしだ。お前たちの先生だ。」とは、おっしゃいませんでした。
「子たちよ、何か食べ物があるか」と尋ねられています。
おそらく、弟子たちが食うや食わずでいたことを慮っていたのでしょう。
弟子たちは素直に「ありません」と答えています。
確かに食糧がなくなり、資金も尽きて、止むに止まれず漁に出てきていたのです。
21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」
そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
弟子たちは、それがイエス様とは分からないまま、その言葉に従って大きな収穫を得ます。
そして、その瞬間にイエスの愛しておられた弟子が、「主だ」ととっさに気がつきます。
ペテロは驚いて、裸同然であったため、上着をまとって湖に飛び込みます。
よくペテロはおっちょこちょいだと言われる根拠となる箇所ですが、
わたしはペテロの誠実さが出ている箇所であると思います。
魚も舟も放り出して、イエス様に会いに行こうとしたのではないでしょうか。
ですから、この後、15節以下で、ペテロはイエス様から
「この人たち以上にわたしを愛するか」
という問いを受けるのではないでしょうか。
他の弟子たちは冷静に舟で戻ってきます。200ペキスというと大体90メートルほどです。
イエス様はすぐそこですから、彼が「泳いだ方が早い」と飛び込んだのは理解できます。
陸には炭火が起こされていて食事が用意されていました。
「取れた魚を持ってきなさい。」とイエス様がおっしゃると、ここで舟に向かうのはペテロです。
他の弟子たちが舟に乗って来たのですから、彼らこそが魚の入っている網をとりに行くはずですが、
ペトロがそれを行っています。ペテロがいかにイエス様を大切に思っていたかが窺い知られます。
弟子たちはイエス様が準備して下さった朝食に与ります。
もはや誰もイエスに向かって「あなたはどなたですか?」と、問う者はいませんでした。
それが主であることは彼らには分かっていたからです。
復活の主から食事を頂いて食べたということは、
弟子たちが幽霊に出会ったと言うことを完全に否定している出来事です。
復活の主に出会う、この三度目の出来事は、弟子たちに、
今も主が共に生きて下さっているということを確実に知らしめる出来事でした。
そして、イエス様は、自由な体を持っていらして、
わたしたちの行くところいたるところにいらっしゃることが明らかになっています。
イエス・キリストの復活、ここにわたしたちの希望があります。
根拠のない希望、はかない望みではありません。
そうではなくて、現実に起こった出来事です。
望むだけで実現しない理想ではなく、また、わたしたちが努力する目標でもありません。
このわたしたちの希望は既に起こったことであり、そしてわたしたちが努力するのではなくて、
神様自らが助けて下さる希望です。
死という厳しい現実を覆い隠し忘れさせるものではなくて、
わたしたちはこの希望によって、本当に死ぬことができ、
死を現実のものとして逃げることなく受け入れることができるようになるのです。
そして、このわたしたちの希望は死を克服します。
わたしたちはこの希望によって、死につつあっても喜ぶことができます。
この希望によって聖書を信じる人々は生かされてきました。
例話(「Leben ist mehr 2003」,97頁より)
ナチス・ドイツ時代にヨーロッパ各地にユダヤ人強制収容所が造られ、
推定300万人という大量のユダヤ人がガス室などで殺されてゆきました。
ポーランドのワルシャワにも有名なユダヤ人強制収容所が建設され、
多くのユダヤ人がその犠牲となりました。
現在、当時のナチス・ドイツの秘密警察ゲシュタポの本部であった建物に、
犠牲となったユダヤ人の残した文書などが保管されているそうです。
このユダヤ人虐殺のホロコーストの現実に直面するとき、
わたしたちは誰もが「なぜ神様はこんな酷いことをお許しになったのか?」と疑問を持ちます。
全ての秩序と法がそこでは踏みにじられました。そこにはただ人間の暗闇が支配しています。
しかし、「神はどこにいるのか?」という信じられないような酷たらしい現実の中にあっても、
神への信仰の灯火はなお輝いているのです。
死を迎えようとしている一人の母親の最後の言葉を書き記している紙切れが保管されています。
彼女は、最後の時に自分の娘に伝言を頼みました。その伝言は次のような言葉です。
「我が子よ、最後の時が来ました。あなたはみなしごになるでしょう。
けれどもあなたは、天の神は確かに生きて働いている方だということを忘れてはいけません。
神様はあなたの最高のお父様です。そして神様は決してあなたを見捨ててはおかれません。
(中略)神と共に生きなさい。神様のことを常に心に覚えなさい。
この世界を愛し、人々を愛しなさい。なぜならば神様がこの世を創造されたのですから。
神様のなさることに信頼しなさい。」
ワルシャワ強制収容所の他の証し人は書き残しています。
「どこに神は行ったのか?なぜ悪魔に罪のない人々を神は渡されたのか?」
と彼は問いながら続けています。
「わたしの魂は神への信仰について新たな力を与えられた。
わたしは、イスラエル民族が決して絶滅されないことを確信している。」
この信仰を神は現実のものとして下さいました。
ホロコーストの後、神は再びイスラエル民族を父祖の約束の地に連れ戻ったのです。
「千の風になって」という流行歌との違いがここにお分かり頂けるのではないでしょうか。
信仰は幻想ではなく、それは事実であり、夢の中に生きるのではなくて、
目を覚まして現実を見据えるということを意味しているのです。
わたしたちクリスチャンも確かに、一度は死にます。
しかし、イエス・キリストによってわたしたちはこの死の向こうに死よりも確かな希望を持っています。
死ななければ復活はありません。
復活の希望、この確かな約束をしっかりと握りしめて、死に向かってゆきたいと願います。
そしてだからこそ、死に行く人々に、わたしたちはこの希望の福音を伝える使命と義務を負っているのです。
わたしたちの主イエス・キリストにのみ、恵みと栄光が豊かにありますように。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988