水戸中央教会 説教                     2008年3月16日

「見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」

ヨハネによる福音書12章12〜16節

 
12:その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、
13:なつめやしのの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。
 「ホサナ。
  主の名によって来られる方に、祝福があるように、
  イスラエルの王に。」
14:イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
15:「シオンの娘よ、恐れるな。
  見よ、お前の王がおいでになる、
  ろばの子に乗って。」
16:弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、
 それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。

 今日は棕櫚の聖日です。
これはイエス・キリストが十字架に架けられて復活する丁度、一週間前の今日、イエス様がエルサレムに入られました。
その際、群衆がイエス様をナツメヤシの葉、つまり棕櫚の葉を持って迎えに出たことに由来します。
 それは当時のこの地方における王を迎える際の儀礼でした。
 今日から次の日曜日までの一週間を受難週と呼び、
イエス・キリストの十字架の苦難と復活の出来事を記念する時とされています。
 福音書の記録はすべてこの受難週の記述に大きなページ数を割いています。
特にヨハネ福音書では、それは12章12節から終わりの21章までが、この受難週の記録に用いられており、
ほぼ半分がわずか一週間の出来事に集中しています。 

12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、
12:13 なつめやしの枝を持って迎えに出た。

 この祭りとは「過ぎ越しの祭り」と言われる、イスラエル民族の祭りです。
 かつて今から5000年ほど前、ピラミッドで有名なエジプト王国が健在であったころ、
イスラエル民族はエジプトで奴隷として暮らしていました。
 時のエジプト王はイスラエル民族に敵対的な政策をとり、イスラエル民族を絶滅させようとしました。
この危機の中でイスラエル民族は神に助けを求め、モーセによってエジプトから脱出し、
神の示すカナンの地、今のパレスチナを目指しました。
 エジプト王は、イスラエル民族がエジプトから出てゆくことを許しませんでしたが、
最後の最後に神は、一夜にしてエジプト人の家の最初の子供を家畜に至るまで殺すという御業を示され、
これに驚いたエジプト王は遂にモーセにイスラエル民族がエジプトから出てゆくことを許します。
その際、神はイスラエルの人々の家の入り口の柱には子羊の血を塗るように命じます。
この目印のある家を神は過ぎ越されるということから、過ぎ越しの祭りと呼ばれます。
旧約聖書の出エジプト記12章(111頁)に詳しく記されています。
 これはイスラエル民族が民族として誕生する瞬間であり、イスラエルの暦ではこの期間が正月、新年となっています。

 水戸中央教会で毎週、説教の後に行われる聖餐式は、イエス・キリストとその弟子たちの最後の食事に由来しますが、
これは過ぎ越しの祭りの中で祝われるエジプトを脱出する際に神から定められた食事に由来します。

 旧約聖書の過ぎ越しの祭りの食事は、神の約束の地、乳と蜜の流れる肥沃なカナンの地への旅立ちを意味しました。
この祭りの食事をイエス様は、神の永遠の御国への旅立ちとして新たな意味づけを行って弟子たちに伝えました。
ここにキリスト教会独特の聖書理解が発生します。
 つまり旧約聖書にはイスラエル民族の歴史や掟、預言がありますが、
それらは直接的に歴史的なイスラエル民族に関するものでありながら、
それらを通して、神の本当の救いの業であるイエス・キリストの救いによってできあがる新しいイスラエル、
つまりキリスト教会を示しているという聖書理解です。

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

 このヨハネ福音書の有名なはじめの部分は、先ほど言いましたキリスト教会独特の聖書理解と密接な関係があります。
つまりイエス・キリストこそが真実な神の言葉そのものであり、
旧約聖書は、この真の神の言葉であるイエス・キリストを指し示しているからこそ神の言葉なのです。

12:16 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、
 それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。

 ここに大きな弟子たちの意識の転換点が示されています。
つまり、聖書をよく読んで、そこから推測して真実に到達したり、真理を発見するのではなく、
イエス・キリストの真実と事実と真理から聖書を読むということがここに明らかになっています。
 そしてこのことはまた、わたしたちの信仰においても基本的な原則となっています。
それは、聖書を理解するためには、まずイエス・キリストを信じなければ、理解ができないということです。
イエス・キリストがどのような人であるかを理解してから、イエス・キリストを信じるのではなく、
イエス・キリストを理解するためには、まずイエス・キリストを信じなければならないのです。

 西方キリスト教会最高の神学者であるアウグスチヌスは、言っています。
「わたしは理解するために、信じる」と。
普通は「信じるために、理解する」というのが順序であるとわたしたちは考えます。
ですから、理解するために信じると言うと、それは何か不可能な理不尽なことであると思われます。
事実、そうでありまして、聖書も
「イエスを主と告白することは聖霊の働きによる」
「聖霊によらなければ誰も『イエスを主である』と告白することはできない」(第一コリント12:3)
とはっきりと教えています。
ですから、弟子たちが後にイエスが栄光を受けられたときに思い出したということは聖霊の働きです。
 そして、このことはただイエス・キリストを信じる時、つまりイエス・キリストをまだ信じられないときに、
洗礼を受けてクリスチャンになるとき、信仰の世界に飛び込むときにのことだけを言っているのではありません。
クリスチャンとなって聖書を読み、その言葉を理解してゆく過程でも全く同じ原理が働いています。
 それぞれの信仰の成長度合いによって、それは聖霊様がわたしたちに示して下さることですが、わたしにも、小さな経験があります。

5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
 (マタイによる福音書)

 この20数年ほどの信仰生活の中で、わたしは一度だけ、この御言葉に文字通り従う機会がありました。
そして、その時、大きな恵みと平安がわたしの心に満ちあふれ、人格的にわたしなりに成長したことは確かです。
そして御言葉に対する信頼がわたしの中でより確かなものとなりました。

12:15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」

 イエス・キリストの受難を覚える受難週に入りました。
 聖書を熱心に読んで祈ると言うことはもちろん大切なことですが、
わたしたちはそれに加えて、イエス様のご命令に従ってそれを勇気を持って実行するということが、
ここにすすめられているのではないでしょうか。わたしには、特に個人的にそのように語られているように感じます。

 先週、どうもこの頃好きになれない同僚の牧師からメールが入っていました。
とあるトラブルがあり、それについての意見を聞かせてくれないかということでした。
下手に答えますと変な風に利用される可能性があるなぁと思い、わたしにしては珍しくメールの返事をしていません。
「敵を愛しなさい」という御言葉に従って、答えようかと思わされました。「恐れるな」とわたしたちに聖書は命じています。
 和解や謝罪は、何か敗北を認めるようなことであり、わたしはそのような敗北を認めたくはありません。
むしろ、相手が謝罪し、和解を求めてくることを心の底では願っています。
相手がこてんぱんに打ちのめされることをわたしは喜びます。「ざまぁ、見ろ」という訳です。
そのようなわたしに向かって、聖書は「恐れるな」と語っています。
和解や謝罪をしたくないのは、わたしたちが恐れる者であり、臆病で卑怯者だからです。

12:14 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
12:15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」

 「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。」
と、聖書は報告しています。
 わたしたちは、ここに神の御子であるイエス様ご自身も、聖書の言葉に従って行動しているのを見ます。
この出来事はたまたまイエス様がろばの子を見つけて、それに乗ったことが、
旧約聖書のゼカリヤ書の預言と一致していることが後に分かった、
「あれは運命だったのだ。」ということではありません。避けることのできない運命的な出来事が、
聖書によって預言されているのではありません。
 そうではなくて、ここには神の言葉へのイエス様の信頼が語られています。
イエス様は、このゼカリヤ書9章9節の言葉を知っていたから、
それに従って、ろばの子を見つけて、ご自分の意志で、これに乗ってエルサレムに入ったのです。
 死んだラザロを復活させるという奇跡によってイエスの人気は絶頂に達していました。
「今こそ、イスラエルの民族解放の時だ!」と叫べば、何万という人々が武器を持って付き従い、
イエス様は軍馬に乗ってさっそうとローマやその手先となっているヘロデ王に対して攻撃を仕掛けることもできたでしょう。

「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」という群衆の叫びは、
そのようなこの世の軍事力によって支配する王に対するものでした。

 しかし、イエス様は武器を取るのではなく、神の言葉を握りしめて、エルサレムに入りました。
わたしたちもまた勇気を持って、傲慢を捨て、謙遜に、憎しみを捨て、和解に生きる者としてこの一週間を過ごしましょう。

 わたしたちがこの世の栄光ではなく、神の御心をこの世で行うことを求め続けることができますように、
わたしたちに信仰と勇気と知恵を神が与えて下さいますように。
 この世の過ぎ去りゆく虚栄心の満足ではなく、永遠なる神の勝利を求めて歩むものでありたいと願います。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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