
水戸中央教会 説教 2008年3月9日
「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ」
ヨハネによる福音書12章20〜36節
20:さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
21:彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、
「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
22:フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
23:イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
24:はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
25:自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
26:わたしの仕えようとする者は、わたしの従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。
わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
27:「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。
しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
28:父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
29:そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
30:イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。
31:今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。
32:私は地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
33:イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。
34:すると、群衆は言葉を返した。
「わたしは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。
それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」
35:イエスは言われた。
「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。
暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。
36:光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
エルサレムで、イスラエルの国で最も重要な過ぎ越しの祭りが祝われるときでした。
多くのユダヤ人が国内、国外から神の都エルサレムへ集まってきていました。
その中に、何人かのギリシア人が、イエス様への面会を弟子たちにお願いしました。
イエスの評判が異邦人の間にまで広がっていたことが伺われます。
弟子のフィリポがまず、ギリシア人たちからお願いされ、フィリポはアンデレに相談し、
アンデレとフィリポが二人でイエス様に許可をいただきに行ったと聖書は伝えます。
おそらく、この経緯の説明がなされているのは、
フィリポとアンデレの二人でイエス様のこの言葉を確かに聞いたということであると考えられます。
ユダヤの律法によれば、物事の証人は二人以上でなければなりません。
ここで語られているイエス様の言葉が、本当にイエス様の口から語られたということの証明と、
その真実さがここに表現されています。
「人の子が栄光を受ける時が来た。
12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。
そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。
わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
この直前の部分を見ますと、エルサレムに来ていた大勢の群衆が、
イエス様とその弟子たちをエルサレムの新たな王を迎えるような大歓迎をしています。
その大歓迎の有り様をこのギリシア人たちは見て、
イエスという人がどのような人なのか会ってみたいと思ったのかも知れません。
外国人の間にまでもその名がとどろいているとなれば、
普通は、「そうか、そうか、それは嬉しいことだ。ギリシア人のような外国人までもわたしのことを分かっているのか。」と、
得意な思いになるでしょう。それは確かに栄光を受ける時です。
しかし、ここでイエス様は「人の子が栄光を受けるときが来た」と確かに言っていますが、その意味は全く違っています。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
という言葉が続いています。これは、イエス様が、十字架にかけられて殺されることを示しています。
この世での名誉や栄誉を人々から受けることよりも、
イエス様は神の子として、神から与えられている使命に生きることを自覚しています。
「12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」
健康は、万人の願いです。富や名誉や地位はなくても構わないが、健康だけは欲しいと思います。
富や地位や名誉も健康があって初めて意味があります。
わたしも弱い信仰しか持ち合わせていませんので、そのような考えから抜け出していません。
しかし、ここでイエス様は「自分の命にこだわるな、健康、健康とそればかりを気にするな」ということをおっしゃっています。
人生には目的があるということがここに明らかにされています。
健康で長生きならば、それが幸せな人生だとわたしたちは思いますが、そうではないということがここに宣言されています。
一粒の麦の種が、地に蒔かれて、麦の種であることを止めて、芽を出さなければ、それは一粒の麦の種であるに過ぎません。
しかし、種が、地に蒔かれて、芽を出し、成長してたくさんの実をつけます。
主イエス・キリストは十字架にかけられて死んで、三日目によみがえり、全ての人々の罪をゆるす、神のあがないとなりました。
このイエス・キリストの十字架の死による罪のあがないを信じる者は、永遠の命を得ると聖書は教えています。
人生には目的があります。それはこの世で出来るだけ長く生きて、健康で、富や財産を出来る限り増やし、
より多くの名誉をえ、より高い地位を勝ち取るということではありません。
長寿や健康、富や名誉や地位が人生の目的ではありません。
このような人生の目的ではないものを、目的とする生き方は、丁度、一粒の麦が一粒のままで終わってしまう生き方です。
それは死によって全て滅ぼされてしまいます。
人は神によって創造されました。ですから、神は無意味なことはなさらない方です。
人が生きていることは無意味なことではありません。
人は、神を愛し、人を愛するために創造されています。
神を認め、神を愛することが、人間の生涯の目的です。
その神が確かにいるということの証明がイエス・キリストです。
十字架にかけられて殺されて、確かに三日目に復活したというこの驚くべき事実が神の存在を証明しています。
このイエス・キリストの十字架の死と復活によって証明された神のみを信じるのがわたしたちです。
そして、この神は聖書によって何千年も前から天地万物を創造された唯一の神であり、
かつてエジプトで奴隷として苦しめられ、まさにエジプト王によって絶滅の危機にさらされていた、
イスラエル民族を憐れんで助け出した神であることが証しされています。
わたしたちの信ずる聖書が証しする神は、わたしたちの勝手な創造の産物や根拠のない空想ではありません。
今もいまして生きて働かれる神をわたしたちは信じています。
神を愛すると言うことは、神の御心に聞き従うということです。
健康や富や地位や名誉を得るために、わたしたちは神を自分に聞き従わせようとばかりしていますが、それは誤りです。
この誤りこそが罪です。自分に神を従わせようとする、この人間の愚かさが罪に他なりません。
「12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。
そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。
わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
幸いな人 2008年3月号60頁より(若干修正あり)
ブレンダ・ランダンは、アラバマ州のテレビ局の女性ニュースキャスターでした。
3人の子どもも与えられ、教会学校の先生もし、充実した毎日を送っていました。
しかし、「神様は何かもっと別のことを用意されている」という思いが、ずっと彼女の中にありました。
何か犠牲を強いられたとしても、神様の器として用いられたいと願ったブレンダは、ある日神様に祈りました。
「わたしを用いてください。人生をささげます」。
真実な神の前で覚悟をした。献身の祈りでした。
そして1ヶ月後のことです。ブレンダは乳ガンだと診断されたのです。
御言葉と祈りに励まされ、ブレンダはガンと戦い続けました。それは決して簡単ではありませんでした。
放射線治療を受け、髪の毛も抜けました。言葉で言い表せないほどの痛みに恐れを感じることもありました。
しかし、「『神様の器として用いてください』と祈ったのだから、最後まで神様と一緒に」
という思いで、
神様のそばを離れることはありませんでした。
ある日、ブレンダが出演していたニュース番組で、彼女がガンと闘う様子が放映されました。
すると同じようにガンと診断され、恐れの中にある多くの人々が彼女に連絡をしてきました。
ガンと闘いながら輝いている彼女の姿を見て、その理由が知りたいと思ったのでした。
このようにして神様のことを伝える門が開かれ、彼女は神様の器として用いられるようになりました。
命をささげて神様を証しする、一人のガン患者ブレンダを通して神様の栄光が現されたということです。
キリスト教会に神から与えられた大切な真実は、闇の中で光り輝く光のようです。
まさに主イエスが十字架の苦しみを苦しまれて、神を証しされたように、
数え切れない多くのキリストの証人たちが、人生の苦悩と悲しみと病の中で神を証ししてきました。
クリスチャンは大変大勢いますから、その中には大統領や首相や大富豪や、
社会的な身分の高い人々などもたくさんいらっしゃいます。
しかし、そのような著名・有名な人々よりも、病と困難と苦しみの中にある人々の方が、
断然確かにイエス・キリストの実在を証ししているようにわたしには思われます。
わたしたちは富や名誉や地位がはぎ取られ、その上病気にでもなったり、苦しみの中におかれたりすれば、
「神から見放された」と思います。
しかし、わたしたちの信じる神は、病や苦悩や苦しみ、人々の中傷や非難の中でもわたしたちを決して見捨てることなく、
助け出して下さる方です。
人生最大の危機である死であっても、この死からわたしたちを引き上げ永遠の命を与えて下さる方です。
わたしたちの人生のいついかなる時もわたしたちと共にいて下さり、わたしたちを永遠へと導いて下さる方です。
人となった神であるイエス・キリストは、十字架にかけられて殺されるとき、
十字架の上で
「わたしの神様、わたしの神様、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」
と叫ばれました。
なぜ神の子である、イエス・キリストがこのような言葉を発したのかということがよく問題とされます。
これは実は詩編22編の冒頭の言葉で、この詩編22編を歌い始めてイエス様は最後の時を迎えてしまったのだといわれます。
詩編22編の最後の方は神への信頼と確信に満ちているからです。
そのようなうがった解釈もよいと思いますが、
このイエス・キリストの
「わたしの神様、わたしの神様、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」
という神への訴えは、そのまま受け取ってもいいのではないかとわたしは思います。
わたしたちの人生の中にも、やはり「神様、なぜわたしを見捨てたのですか」と叫ぶようなことは度々あります。
十字架の死、神の全人間への罰を一身に十字架で背負ったイエス・キリストです。
その罪を負う苦しさと恐ろしさは、わたしたちの想像を絶しています。
神は確かに人となって、わたしたちの苦しみを負って下さった証明が
「わたしの神様、わたしの神様、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」
という神への訴えではないでしょうか。
そして、何より確かなことは、イエス・キリストでさえ、「なぜ、わたしを見捨てたのですか?」と、
言わざるを得ないような状況の中で、神は確かにイエス・キリストと共にいらっしゃり、
決して彼を見捨ててはおかれなかったという事実です。
イエス・キリストは十字架にかけられて、殺され、三日目に確かに復活したのです。
神は、ですから、わたしたちがどのような恥や苦しみや病の中にあっても、わたしたちを見捨てておかれる方ではありません。
そのような神こそが唯一絶対の神なのです。
唯一絶対の神というと、非常にラディカルな原理主義者のように思えます。
他の神や神々の存在を認めない高慢なクリスチャンであるかのように思われます。
しかし、現実はそうではありません。
全ての神々が見捨て、運命に見捨てられ、人々に見捨てられても、われらの神は決してわたしたちを見捨てはしない、
ただ一人のお方なのです。この神だけがわたしを見捨てないたった一人の神だから、唯一絶対の神様なのです。
われらの主なる神に栄光が限りなくありますように。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988