水戸中央教会 説教         2008年2月17日

「メシアへの信仰」

ヨハネによる福音書9章13〜41節

 
13:人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。
14:イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。
15:そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。
 「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。
  そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」
16:ファリサイ派の人々の中には、
 「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、
 「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。
 こうして、彼らの間で意見が分かれた。
17:そこで、人々は盲人であった人に再び言った。
 「目を開けてくれたということだが、いたい、お前はあの人をどう思うのか。」
 彼は「あの方は預言者です」と言った。
 18:それでも、ユダヤ人たちはこの人について、
  盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。
  ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、
19:尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。
 それが、どうして今は目が見えるのか。」
20:両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。
21:しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。
 だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。
 もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」
22:両親がこう言ったのは、ユダヤ人あっちを恐れていたからである。
 ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、
 会堂から追放すると決めていたのである。
23:両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
 24:さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。
  「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」
25:彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。
 ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
26:すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」
27:彼は答えた。「もうお話したのに、聞いてくださいませんでした。
 なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」
28:そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。
29:我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」
30:彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。
 あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。
31:神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。
 しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。
32:生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。
33:あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
34:彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

 35:イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。
  そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
36:彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
37:イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
38:彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、
39:イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。
 こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
 40:イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、
  「我々も見えないということか」と言った。
41:イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。
 しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」


 わたしたちの主であるイエス・キリストは、多くの不治の病を癒す奇跡を行われました。
 本日の聖書の箇所によりますと、イエス様は通りすがりに、
生まれつき目の見えない人の目を見ることが出来るように癒されました。不思議なことです。

 毎週土曜日に行っているジーザス・キッズでは、今月、ノアの箱船がテーマです。
昨日もノアの箱船のお話しを子どもたちに致しました。
 幼児は別に疑問を持つこともなく、ノアの箱船のお話しを聞いていますが、
小学生の中学年くらいになると、
「本当の話だろうか。信じられない。」
という疑問を持つようです。昨日も、そのように言ったお子さんがいらっしゃいました。
「それって、本当の話?」
と、率直に聞かれて、わたしはあまり信仰がないせいか、ちょっと口ごもって
「そうだよ。この地方に昔、大洪水があったことは本当のことなんだよ。」
というような具合に答えました。しかし、心臓はどきどきしていましたので、
「先生も信じられないけれど、聖書にはそう書いてあるんだ。」
というようなことをわたしも率直に言いました。

 大人に話すように、
「ノアの箱船の話は荒唐無稽かも知れないが、
それでは古事記などにある日本の国産み伝説は、本当のことだと思う?」
などと、言うことも出来ません。「ただの昔話」と言う勇気もわたしにはありません。
 そしてまた、この信じられない聖書の言葉によって、
生かされている自分があることは本当のことですから、
否定することも、肯定することも出来ないようなジレンマに陥りました。
少々、後味の悪いものが残りました。なぜ、もっとはっきり答えてあげられなかったのだろうと思ったのです。
 しかし、それはそれで良かったのかも知れません。
聖書の言葉は、わたしたちがそれを真理であるとか真理ではないという類のものではなく、
聖書がわたしたち自身を裁くものだからです。
 わたしが聖書の言葉を受け入れることが出来るか、どうかが問題であって、
わたしが受け入れようが入れまいが、聖書は真理の書としてあり続けているからです。

 この盲人の癒しの奇跡も信じられない出来事の一つです。
しかし、心のどこかには
「あり得ない話ではないだろう。」
というような思いがあります。
 ノアの箱船のように大規模な話ではありませんし、
なにかの超能力のようなもので治ったのかも知れないと考えたりします。
 しかし、このような考えは正しいものではありません。
なぜならば、この超能力などというのは、人間に備わった力の一つであって、
神から出ているものではない可能性も含んでいるからです。
 目にこねた泥を塗って、それを洗うだけで生まれつき見えない目が治るはずがありません。
聖書はこれをあり得ない出来事として伝えています。それはまさに奇跡でした。
 そして、これらのイエス様の奇跡は非常に特徴があります。
それは対象が貧しい者や弱い人々にのみその恵みの業が向かっているからです。
決して、イエス様の超能力によって株で大もうけをしたりとかいう類のことではありません。
アラジンの魔法のランプのように巨人の力によって願いが何でも叶えられるというものではありません。

 そしてこれは神様がどのような方であるかをわたしたちに教えています。
 その昔、神はエジプトで奴隷として卑しめられ、
苦しめられていた小さな民族を省みてご自分の民として救い出されました。
 神がその民を選ばれた基準は、その民が優れていたわけでも、心が素直であったからでもありません。
小さく弱かったから、このイスラエルを省みて下さったのです。

 そして2000年前、神は人となってこの世にいらっしゃいました。
それがイエス・キリストです。
 このイエス・キリストは王の王でありながら、この世の王とはなりませんでした。
どうしようもない病に苦しめられている人を癒し、貧しい人々に心を向けて下さいました。
 本日の箇所にありますように生まれつき目の見えない人を癒されました。
彼がとりわけなにか有名な貴族の出身であったからではありません。
富豪の息子であったからではありません。
 通りがかりに見つけたのですから、物乞いか何かをしていたと考えられます。
イエス様は当時の王や貴族と親しくなることを喜ぶような方ではありませんでした。
神は愛であると言いますが、ここに愛というものがどのようなものであるかが明確にされています。

 そして同時にここに、わたしたちの心の中に、愛がないことが明らかになっているのではないでしょうか。
 なぜならば、わたしたちは、自分の生まれが多少なりともよいものであると、それを内心誇りに思うからです。
生まれが卑しかったりすれば、隠したり、引け目に感じたりするからです。
 また有名人や偉い人と知り合いになることを好み、それを誇りに思うからです。 
そして一生懸命に努力をするのは、少しでも人から認められ、ほめられたいからです。
 地位を求め、名誉を求めます。地位が脅かされ、名誉が傷つけられるようなこととは関わらないようにします。
知らん顔をします。
 神は貧しいものを慈しみ、富める者を空手で去らせる方ですが、
わたしたちは貧しい者を無視し、富める者に礼を尽くします。
 そして自分自身が貧しく、愚かで、惨めな状態にあることが耐えられません。
その貧しさと愚かさと惨めさから逃れようとして、
いかにわたしたちは度々、より貧しく、より愚かで、より惨めになっていくことでしょうか。

 神は貧しい一人の生まれつき目の見えない人を省みて、その目を開いてくださいました。
神は人を愛しておられるからです。
神は、わたしたちが素晴らしい人で、知恵があり、力があるから愛して下さるのではありません。
もし、そうならば、神はわたしたちが素晴らしくなく、
知恵がなく、力がなかったら愛して下さらないことになります。そして、それは愛ではありません。
 貧しく、愚かで、惨めな自分を愛することが、わたしたちには必要なのではないでしょうか。
富んでいて、賢く、栄光と誇りに輝いている自分をわたしたちは求めますが、
それは、わたしたちの中に愛がないことを意味しています。
それは富と知識と栄誉をわたしたちが愛していることの証明であって、
わたしたちはわたしたち自身を愛していないのです。
 貧しく、愚かで、惨めな自分という者こそが大切なのです。
 他人が自分より貧しくて、愚かで、惨めであるのはわたしたちは何とも思いません。
むしろ、それを望むかも知れないほどです。
 しかし、ひとたび、自分が貧しく、愚かで惨めな状態になりますと、
わたしたちはパニックに陥り、何とかその状態から脱出しようとします。
脱出できなければ、絶望してしまいます。
 そして、自分自身もまた周りの人々も皆、「可哀想に」と思います。
 けれども果たしてそうでしょうか?
 神は小さくて、惨めなイスラエルを選ばれました。そして、神は惨めなすぐに死んでゆく人になられました。
 わたしたちの人生の意味とは、貧しさと愚かさと惨めさを体験することにあるのではないでしょうか。
そのことこそが、この世で生きたことの意味ではないでしょうか?
 ちっぽけな惨めな自分をしっかりと受け止めて、そのままで自分自身を愛してゆくことが、
わたしたちの人生において最も大切なことではないでしょうか。
 神は、この惨めでちっぽけなわたしを愛して下さっていると聖書は明確に教えています。
そのような神が聖書の神です。

 何の役にも立たない自分を愛することができるかどうかが、
わたしたちが永遠の命を受け継ぐことが出来るかどうかを決定します。
そして、このことが目覚めるということなのです。
 わたしたちは普段、自分はなにかの役に立っていると思って生きています。
しかし、全能で完全なる神の御前に、わたしたちはどのようにして、
自分はなにかの役に立っているなどと誇ることができるでしょう。
 人助けをしたり、善いことをしたりしているつもりでいます。
そして人助けができなくなったり、善いことができなくなったりしますと、
人生の意味がなくなってしまうように思います。
 このわたしたちの目には意味のないように思えるその時こそが、神の目には大切な時間です。
 神様はあなたを見捨ててはいらっしゃらなかったのです。

 もし、わたしたちの人生が最初から最後まで何の苦しみもなく、
人々からちやほやされて栄光と成功と富の中を歩み続けて終わるとしたならば、その人生は呪われた人生です。
その人は、この世に生きることの意味をついに見いだすことなく、人生を棒に振ってしまった人です。
なぜならば、その人は惨めで愚かで貧しい自分自身を愛する愛を、
ついに知らずにこの世を去ってゆかねばならないからです。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教