
水戸中央教会説教 2008年1月27日
「病を癒すキリストの奇跡」
ヨハネによる福音書5章1〜18節
1:その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
2:エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、
そこのは五つの回廊があった。
3:この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、
大勢横たわっていた。+
5:さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
6:イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、
「良くなりたいか」と言われた。
7:病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。
わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
8:イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
9:すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
その日は安息日であった。
10:そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。
「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
11:しかし、その人は、
「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
12:彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。
13:しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。
イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。
14:その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。
「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。
さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
15:この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
16:そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。
イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
17:イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
18:このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。
イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。
主イエス様はユダヤ人の祭りのためにエルサレムへ行かれました。
ベトザタという池はエルサレム神殿の北側に位置します。
そこには病気や障害を持った人々が集まっていました。
この池の水が間歇泉か地下水の影響によってか動くことがあり、
その時に真っ先に池に入った人は病が癒されるといういわれがあったからです。
ここにイエス様が立ち寄り、一人の病の人に声をかけられます。
「よくなりたいのか。」
この人は38年間も病で苦しんでいました。病人は答えます。
「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。
わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
すると、イエスは言われます。
「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
この言葉によって、病人は癒され、床を担いで歩きます。
ただここで問題が起こります。
イエス様がこの病人を癒された日が、ユダヤ教の安息日でした。
つまり、神様を礼拝する日として労働が禁じられた日でした。
そして、この病人が「床を担いで歩いた」ことは、安息日にしてはならないことの一つだったのです。
床を担いで歩いている癒された人を見たユダヤ人たちは、
「安息日に床を担いで歩いているとは何事だ。神を冒涜する行為だ。」
と責め立てます。
癒された人は、
「わたしが床を担いで歩こうと思ってしているのではない。
そうではなくて、わたしを癒して下さった人がそう言ったからしているだけです。
わたしが悪いのではありません。」
と、言い訳をしたのでありましょう。
ユダヤ人たちは
「それでは、そう言ったのは誰だ。そいつが悪い。とんでもない奴だ。」
ということになりました。
その後で神殿で病を癒された人はイエス様に出会います。イエス様はおっしゃいます。
「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。
さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
癒された人は、自分を癒してくれた人は、イエス様であったことをユダヤ人たちに伝えます。
光が闇の中にやって来ました。
ここにもヨハネ福音書の主要モチーフである光と闇のコントラストが明らかにされています。
絶望的なわたしたち人間の心の闇がここに明らかにされています。
この闇を間のあたりにするとき、
なぜイエス・キリストが十字架で死ななければならなかったかという理由が明らかになります。
それほど、この闇は深く、どうしようもないのであり、救いがたいからです。
イエス様は、病の人に「よくなりたいのか」と尋ねます。
そして、この病人は
「はい、そうです。あなたはこの病気を癒して下さるのですか?」
とは、答えません。そうではなくて、
「主よ、水が動くとき、わたしを池の中へ入れてくれる人がいないのです。
わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
と、答えます。
ここにわたしたちの心の闇を見る思いが致します。
今は受験シーズンで、神社へお参りに行く人もいることでしょう。
わたしたちは
「試験が受かりますように。」と祈ります。そして、試験が受かれば、神様のことなど関係ありません。
「よい伴侶が与えられますように」とか、「子どもが授かりますように」とか、
会社や社会での出世や人間関係が改善されるようになどと祈ったりします。
最後は、ポックリ寺のように、
「どうか苦しまずにぽっくり死ぬことができますように。」と祈ったり致します。
しかし、
「永遠の命を受け継ぐ神の子とされますように」
とは、わたしたちは祈りません。そんなものになるよりも、
この世のわずかばかりの幸福と自分の望みが優先されます。
優先されるどころか、この世のわずかばかりの自分の望みが叶えられることばかりの願っています。
神の御心にわたしたちが目を留めることなどありません。
イエス様は、病人の「わたしを池へ運んでくれる人がいないのです。」という訴えに対して、
「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」という恵みの言葉をかけて下さいました。
そして、病人は起きあがり、床を担いで歩くのです。周りの人々は、これに驚き、群衆が取り囲みます。
その間にイエス様は去っていきますが、この癒された病人は、この奇跡に対して、
すぐさまにイエス様にひれ伏し、感謝したという訳ではないようです。
「癒していただいてありがとうございます。あなたは一体どなたのですか?」
と、問いかけた形跡がありません。
そして、その証拠にユダヤ人たちに問いつめられたとき、
彼は、自分を癒してくれたのはイエス様だとは知りませんでした。
命の恩人の名を聞くのは、当然のことです。失礼なことではありません。
このようなことに洋の東西や文化の違いなどあるはずがありません。
しかし、この癒された病人は、
「あなたはどなたですか?ありがとうございます。」
とは言いませんでした。
そしてこの事実は洋の東西を問わず、そして文化の違いを超えて、
厳然として存在する人間の神への感謝のなさと不信仰を明らかにしています。
自分の願いの望みが叶えられることには、一生懸命です。
そして、何とか叶えられるようにと神様にお祈りを、叶えられない内は一生懸命にしますが、
一旦、叶えられたとなると、神様への関心が一遍に薄くなります。
叶えて下さった神様に生涯忠誠を誓って奉仕するなどと言うことは致しません。
思うようにできるようになったことを喜んで、自分の思うままをするだけです。
教会へもたまに、「食べ物を下さい」とか、
「困っているので助けて下さい」という方がいらっしゃいます。
ホンのわずかのものを分けるようにはしているだけです
が、そのような人々が、教会の礼拝に出てくるということは、まずありません。
最も釜が崎や山谷のようなところで伝道活動を継続的にされているところでは、
そのようなことから信仰の実が結ばれていますが、わたしの経験の中では起こったことがありません。
また人はどうだというよりも、自分自身を振り返ってみてそうなのです。
何か、神様に祈りの中でお願いし続けて来たことが、叶って、実現されたとき、神への感謝は二の次です。
自分の努力や才気のせいだと思ってしまっているのです。神への感謝は二の次どころか形式的なものです。
ですから、わたしはこのユダヤ人たちが、
「何でお前は、大事な安息日に禁じられている床を担いで歩いているのだ。」
と指摘した気持ちがよく分かります。それはわたし自身の形式的な信仰と同じです。
形ばかりの感謝しかしないわたしがここにいます。
38年間、病で身動きもままならない人が癒されて、起きあがっただけではなくて、
床を担いで歩いているという信じがたい事実を見て、驚くのでもなく、喜ぶのでもなく、
彼らは批判をするのです。
なぜ、こんな信じがたい行為をユダヤ人たちはすることができるのでしょう。
こんな素晴らしいことが目の前で起こったのに、イエス様を賛美するのではなくて、
批判し、責め立てようと彼らは思うのでしょう。
それは彼らが、自分たちの基準で物事を見ているからです。
安息日は確かに大切なものですが、
聖書そのものには、「働いてはいけない」とありますが、
「床を担いではいけない」ということは直接書かれていません。
これは聖書の「働いてはいけない」という聖書の言葉をユダヤ教の学者たちが解釈をして、
作り上げてきた教典の中に書かれていることです。
イエス様は、他のところで、ユダヤ人たちに問いつめられたとき、
「聖書には、家畜が井戸などに落ちて、緊急を要する場合は、
これを助けてもよいと書いてあるではないか。」
ということを引用して、ご自身のなさったことの正当性を教えて下さっています。
ここにわたしたち人間の罪の本質が顔を覗かせています。
つまり、善悪の基準を持っていらっしゃるのは全てを創造し、
支配していらっしゃる神様だけなのにも関わらず、わたしたちは自分たちの基準で神をも裁こうとするのです。
聖書のはじめにある、神との約束を破って、
善と悪を知る知識の木の実を食べたことが罪の根源であると言われている通りです。
唯一まことの神を崇め、賛美することが安息日の意味であり、
わたしたち人間の本質ですが、その唯一の神様ご自身が彼らの目の前に姿を現したとき、
彼らは、こんな素晴らしいことを実現して下さった神に、
感謝と賛美を捧げようとは致しませんでした。彼らはその神ご自身を葬り去ろうとしたのです。
分かりやすくするためにたとえて言います。
病人を運んでいる救急車は、赤信号でも進むことができます。
サイレンを鳴らして走ってきますと、他の全ての車は道の端に寄って、
救急車に道を譲らなければなりません。
このユダヤ人たちのしたことは、丁度、
「あの車は赤信号を無視した。交通ルール無視のとんでもない車だ。」
と言っているようなものです。
そして、彼らは、救急車の進路を妨害しようとさえしたわけです。
ユダヤ人たちはイエス様に道を譲ろうとは致しませんでした。
それどころかイエス様の前に立ちはだかったのです。
ここに問われているのは、ユダヤ人たちの信仰のなさ、不信仰と愚かさではなくて、
わたしたちの不信仰と愚かさです。
「あなたはイエス・キリストに道を譲っているのか?」
という問いがわたしたち一人一人に向かって発せられているのです。
この問いに対して、わたしたちは愚かにも、自分自身を省みるのではなくて、
周りの自分の気に入らない人を見て、
「あなたはイエス様に道を譲っていないじゃない。」と言いだします。
本当にわたしたちは救いがたいのです。
ですから主は、この救いがたいわたしたちのために十字架で死なれたのです。
イエス様によって癒された病人が、同じことをしています。
彼は。イエス様から
「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪い
ことが起こるかもしれない。」
との御言葉を頂きながら、
「病を癒して下さりありがとうございます。おっしゃるとおり罪を犯さないように努めます。
どうぞあなたの弟子の一人にして下さい。」
とは、言いません。
自分を守るために、
「わたしに安息日を破るように命じたのは、あのイエスという男だ。」
と密告したのです。
「なぜイエスの弟子であるユダが裏切ったのか」
ということで、わたしたちは「それは永遠の謎だ」などと言ったり、
色々とあらぬ詮索をしておもしろがっていますが、ここにも一人のユダがいるのです。
彼は病を癒されながら、救いに与るチャンスを逃してしまったのです。
神はこのようなわたしたちのために十字架に架かり、命を捧げて、わたしたちの罪を贖い、
永遠に生きるものとして下さいました。
イエス・キリストを信じることは、わたしたち人間の謙遜さとへりくだりの表現であり、
わたしたちの救いがたい罪の告白です。
決して、わたしたちが素晴らしいものであるということの自己賛美ではありません。
わたしたちはよく、
「なぜイエス様は安息日に癒しの業を行って、ユダヤ人を挑発するようなことを行ったのか?」、
「なぜ安息日の規則を守らなかったのか?」
という疑問を持ちます。
そして、「そんなことをしなければよかったのに。」と思います。
しかし、これは正当なことではありません。
17:イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
ですから安息日に癒しを行ったのは、イエス様ご自身が誰であるかを明らかにするために行ったのです。
それは啓示の業です。
イエス・キリストこそが王の王であることの証明であり、神であることの必然の業なのです。
イエス様を信じるならば、自由に規則を破っていいということの根拠ではなく、
律法が全うされるためにまさにイエス様はいらっしゃったのです。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988