水戸中央教会 説教         2008年1月20日

「自殺について」

ヨハネ福音書8章21〜36節

 
21:そこで、イエスはまた言われた。
 「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。
  だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。
  わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」
22:ユダヤ人たちが、
 「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、
 自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、
23:イエスは彼らに言われた。
 「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。
  あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。
24:だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。
 『わたしはある』ということを信じないならば、
  あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
25:彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。
 「それは初めから話しているではないか。
26:あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。
 しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、
 わたしはその方から聞いたことを、世に向って話している。」
27:彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。
28:そこで、イエスは言われた。
 「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、
 また、わたしが自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。
29:わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。
 わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」
30:これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。

 31:イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。
 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
32:あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
33:すると、彼らは言った。
 「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。
 『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」
34:イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。
35:奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。
36:だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。

 光りと闇がヨハネ福音書の重要なモチーフです。
ヨハネ福音書の序章である1章5節には
「光りは暗闇の中で輝いている。暗闇は光りを理解しなかった。」
とあります。
 光はイエス・キリストであり、闇はユダヤ人たちです。
8章21〜30節ではイエス・キリストを信じず、
「自らの罪の中に死ぬ」であろうユダヤ人たちと、
イエス様の会話が記されており、
31〜36節では、イエス様を信じるようになったユダヤ人とイエス様の会話が記されています。
 しかし、ここでイエス様を彼らが信じるようになったと言っても、
それは表面的なことで、心からのものではないことがこの続きの箇所から理解されます。

 21:そこで、イエスはまた言われた。
 「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。
  だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。
  わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」


 ヨハネ福音書は非常に象徴的な表現が多く理解が難しいですが、
このイエスの言葉も非常に象徴的で何を言いたいのかよく分かりません。
一応、わたしたちイエス様がこの後十字架に掛けられて殺され、三日目に復活し、
その後、キリスト教会が成立するという歴史を知っている者にとっては、
「去ってゆく」とは、十字架に掛けられて殺されることであろうとは分かりますが、
なぜそれならそうとはっきり言わないのだろうと思います。
 「あなたたちはわたしを捜すだろう。」というのは、もっとよく分かりません。
このユダヤ人たちは、イエス様が十字架に掛けられた後、成立した初代キリスト教会を迫害します。
その迫害を「探す」こととするのにはなにかしっくり来ないところがあります。

 「だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」というのもなんだかよく分かりません。
「わたしの行くところに、あなたたちは来ることができない。」というのも変で、
「あなたの行くところへ、別に行けなくも構いません。」と、わたしたちは思います。
 なぜ、このようにイエス様の言葉が謎めいたものであり、なにやら意味が分からない原因は、
わたしたちがイエス様をただの人とだけ見ているからです。

 イエス・キリストは永遠なる神の御子であるということを信じるとき、
この言葉の意味合いが変わってきます。
「わたしは去ってゆく」と、主は言われました。
それは十字架の死によって、イエス・キリストは死なないことを意味しています。
十字架上で確かにイエス・キリストは死にますが、復活します。
「わたしはある」と24節でおっしゃっているように、
イエス・キリストは、死んでも「ある」というお方であり、神ご自身に他なりません。

「命は去ってゆく。わたしたちは死に直面して、生きようとするでしょう。
死にたくないと思うでしょう。しかし、わたしたちはその死から逃れることは出来ません。
命の源である神のもとに行くことはできません。」
という意味ではないでしょうか。

 「わたしたちは自分の罪の内に死ぬことになる。」わけです。
ここに大きな永遠への入り口が口を開いています。
わたしたちは自分の死を罪の結果とは思っていません。
そうではなくて、罪の中に命があるとさえ思っています。
罪こそがわたしたちの人生の楽しみとなっています。
わたしたちには何が罪であるかがよく見えないのです。
 いえ、わたしたちは罪を見ようとはしないのです。
死はわたしたちにとって誰にも変えることも避けることもできない自然の理ですが、
そして、宗教はこの死を受け入れるように機能するものだと思っていますが、
そうではないことがここに言われています。
わたしたちには理解できないことがここに語られています。
ですから、どのようにそれが語られたとしても、
わたしたちにはイエス様の言葉は謎のままになります。

 わたしたちはこの世に属しており、この世の法則の中で生きています。
そのようにしかわたしたちは生きられません。

 しかし、全てが変わる一点があることがイエス様によって示されています。

24:だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。
 『わたしはある』ということを信じないならば、
  あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」


 「わたしはある」ということを信じるならば、その全てが変わるとイエス様はおっしゃいました。
 アウグスチヌスは、ここでイエス様が「理解しなければ」と言っていないことに、
わたしたちは感謝をすべきだと書き記しています。
それはわたしたちの理解を超えた事柄であり、理解しなければ、罪から救われないというのならば、
わたしたちは永遠に救われないものだからです。わたしたちは罪の悲惨の中で惨めに死んでゆくだけです。

 罪とは、イエス様がおっしゃった「わたしはある」という言葉を信じさせないようにする全てであり、
この言葉を無効にしようとする全ての企てです。
 神はかつて荒野でモーセに現れ、「わたしはあってあるものだ」とおっしゃいました。
 このイエス様の「わたしはある」ということはイエス様が神であることを表しています。
 わたしたちの生活の中で、わたしたちの人生の中で、
この「わたしはある」というイエス様の言葉がどれほど力ある真実となっているでしょうか。
日々の生活の中で、わたしたちはイエス様とだけ、
とどのつまりは生きているのだということが確立されているでしょうか。

 イエス・キリストは永遠に「ある」方であり、いらっしゃる方です。
それは、わたしたちがそうではないということを言い表しています。
わたしたちはこの世の者であり、過ぎ去って行く者です。
 ただ永遠にいます主イエス・キリストを信じる時、わたしたちはイエス様と共にある者とされ、
「わたしはある」という方によって、「ある」者とされるのです。

 わたしたちは自分と人とを見比べては、「あの人はいいなぁ」と羨んだり、妬んだりします。
あるいは、「あの人よりはましだ。」ということで誇りを持ったりします。
それは全て虚しいことであり、罪に他なりません。
なぜならば、このようなことは、わたしたちが、「わたしはある」という方を信じて生きているのではなくて、
羨ましかったり、妬んだり、あわれに思ったりする人が「ある」と思っている証拠だからです。
「わたしはある」と言われたその方のおっしゃること、その方の生き方に目を向けないからです。

28:そこで、イエスは言われた。
 「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、
 また、わたしが自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。


 神の子イエス様ですら、「自分勝手には何もしない」と、おっしゃっています。
なのにわたしたちはあれこれと理由をつけて、いかに自分勝手に生きているでしょうか。
神が与えられた使命をわたしたちは知っているでしょうか。
その使命を尋ねたこともないのに、勝手に自分の願望を神の御心だとしているのがわたしたちの現実です。
この現実にわたしたちは恐れおののくべきではないでしょうか。

 「わたしはある」という方が、わたしたちの中で本当に「ある」方となるとき、
わたしたちは一人で一生懸命に労苦するのではなくて、その方と共に語らいながら楽しくことをなすのです。

31:イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。
 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
32:あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」


「真理はあなた方を自由にする」とは、わたしの欠けや欠点が見えるようになるということでもあります。
つまり、他人の欠けや欠点が見えなくなるということです。
そして他人の存在を喜ぶことができるようになるということです。
 暗闇では、わたしは正しいと思っています。自分自身が見えないからです。
しかし、光の中で、わたしはわたしの真の姿が見えてきます。
それは醜い愚かな姿ですが、神はこのわたしを愛していることを、この光そのものによって知ります。
神は、このわたしの愚かさと醜さをよしとしていらっしゃるのです。
 神は天地万物を創造されて、それをはなはだよいものとご覧になったからです。
自らの愚かさの中で嘆き、醜さに悲しむ中で、わたしたちは神の知恵と素晴らしさを体験するのです。
ですから、わたしたちは愚かで、醜くて構いません。
自分が愚かで、醜くあってはいけないのだと思うので人は自殺をするのです。

 わたしたちは愚かで、惨めで、醜くていいのです。死んではなりません。
この愚かで惨めで醜いわたしたちの人生に、
神がその栄光を現してくださるのをわたしたちは待ち望んで生きるのです。
 わたしたちのこの希望は虚しいものではありません。主は確かに復活されたのです。
わたしたちの希望は必ず主によって実現されます。
そして、愚かさと醜さと惨めさという、わたしたちの欠けた部分を、
神はご自身の栄光によって素晴らしいものへと変えてくださいます。
そのとき、わたしたちの賢さと美しさ誇りは何の意味もありません。
ただ「わたしはある」ということを信じた信仰が、わたしたちを滅びから救い出して下さいます。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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