土浦教会 説教           2008年1月6日

「神の子羊」

ヨハネによる福音書1章29〜34節

 29:その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。
30:『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。
 わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
31:わたしはこの方を知らなかった。
 しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼(バプテスマ)を授けに来た。」
32:そしてヨハネは証しした。
 「わたしは”霊”が鳩のように天から降って、この方のとどまるのを見た.。
33:私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼(パブテスマ)を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、
 『"霊"が降って、ある人にとどまるのを見たら、
 その人が、聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人である』とわたしに言われた。
34:わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 洗礼者ヨハネは、聖書の中で謎の人物といってもいいほどです。
彼がどのような人物であったかは、聖書においてほんのわずかしか触れられていません。
ただ聖書以外の歴史資料によりますと、この洗礼者ヨハネを中心とした宗教運動は広範な広がりを持っており、
イエス・キリストの弟子集団よりも当時、はるかに大きなものであったことがうかがわれるということです。
その証拠にイエスの活動については聖書以外の歴史資料は皆無に等しいのですが、
洗礼者ヨハネについては記録が残されているということが言われます。
 マタイやルカの福音書にもそれを裏付ける記述があります。

マタイ11:11
「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。
しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

 イエス様をしてこのように言わしめた洗礼者ヨハネという方は、なぜそのように偉大な人物であったのでしょうか。
 それは彼が水の洗礼を授けたことにあります。この水の洗礼とは罪の悔い改めを意味するものでした。
 悔い改めのためにはまず、罪の告白が必要不可欠です。
 自分自身の罪を認識し、告白するということは大変に難しいことです。
わたしたちは、他人の罪を発見し、告発することには非常に長けていますが、それがいざ、自分となると盲目状態です。
自分自身に罪があるとはわたしたちは普通考えません。

 神の民であるイスラエル民族は、神から与えられた律法を持っていました。
この律法に従って生きることは、より正しく生きることを意味します。
より忠実に律法を守ることによって、彼らは自分たちがより聖なる者とされると考えたのは自然のことです。
 律法を守る自分たちは正しい人々であり、
そして律法を持っているということが、異民族に対する自分たちの誇りとなっていったでありましょう。
「わたしたちは神の律法を知っており、これを守ろうと努力しているが、
異邦人たちは欲望のままに生きている愚かな人々だ。」
という具合に考えたに違いありません。

 これに対して洗礼者ヨハネは、
「愚かなのは異邦人ではなく、愚かなのはわたしたち神の民であり、
また神の律法を知らずに罪を犯す生活から悔い改めなければならないのは異邦人ではなく、
わたしたち神の律法を知る者たちこそが悔い改めなければならない。」
と、主張したと考えられます。
悔い改めて、罪を清める洗礼を受けるように洗礼者ヨハネは民に呼ばわったのです。
これが洗礼者ヨハネの天才的な宗教性とも言うべき点です。
これをなしえたのは、まさに彼が神からその任務を託されたからです。

 この自らの罪を認めることが非常に難しいことであることを、
わたしたちはヨーロッパやアメリカのようなキリスト教国の人々よりも身近に知っています。
なぜならわたしたちの国でキリスト教を伝道しようとするとき、その大きな障害となるのが、
この「罪」という言葉だからです。
 「キリスト教は人間を罪人だ、罪人だというが、わたしはそんな悪いことをした覚え絵はない。
いつも正しくあろうとしてきた。それは多少はずるいことはしたかも知れないが、
それは誰でもしていることで、そんなことを気にしていたらノイローゼになってしまう。」
というような意見に出会うことはわたしたちにとってまれではありません。

 自分に罪がある。つまり自分に悪の責任があるということをわたしたち人間は認めようとしません。
わたしたちは悪の責任を常に自分以外の者へなすりつけ、
非常にしばしば神になすりつけて平然としている現実を知っています。
つまりわたしたちは神によって裁かれるべき者であるにも関わらず、わたしたちは神をも裁く者になっています。
 つまり、自分が神の上に立っているのです。
わたしたちはイエス・キリストの大いなる御業と教会の働きによって信仰を与えられ、
自らの罪を告白することが、幾ばくか出来る者へと変えられましたが、
もし、福音を伝える人々の助けがなければ、決して自ら罪を告白して、悔い改める者とはならなかったのではないでしょうか。
 少なくともわたしは自分自身を振り返るとき、このことが真実であることを証明する一人であると言うことができます。
 教会の働きを通じて、わたしは聖書に触れ、今から思えばあるかなきか分からないような信仰によって、
洗礼を受け、教会の交わりに入れられて、生活を続ける中で、
わたしはようやく、ぼんやりとですが、自分に罪があるということが分かってきたからです。

 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と洗礼者ヨハネはイエス様が自分の方へやってくるのを見て言ったと、
聖書は伝えています。
 いかに洗礼者ヨハネが自らの罪を徹底的に告白し、謙遜な心を持っていたことかとわたしは思います。
 普通、このようなことを言うことは不可能であるということを、
わたしは自分の25年ほどの信仰生活を通して知りました。
 普通はイエス様のことを「世の罪を取り除く神の子羊だ」と認めるのではなくて、
自分が神の子羊になろうとしてしまうのではないでしょうか。

 ファリサイ派の人々や律法学者などの言動を聖書から聞くとき、
わたしは、
「この人々はなんとよこしまで、愚かな人々なのだろう。
わたしだったら、イエス様をこんな仕方で陥れるようなことはしない。」
と、考えていました。自分自身のよこしまさと愚かさが見えていなかったと今、わたしは思います。
 ファリサイ派や律法学者と同じ心が自分の中にあることに気がつくのに、
わたしは大変な時間を必要としました。
そして、それに気がつくまで、わたしの心は、
あたかも自分がイエス様の立場にあるかのような思いに捕らえられていました。
それはわたしの心の中の傲慢がわずかながら理解できた、わたしの貴重な体験です。

「御子は我ら罪人の救いのために人と成り、十字架にかかり、
ひとたび己をまったき犠牲として神にささげ、我らの贖いとなりたまえり」
と、わたしたちの日本基督教団信仰告白の中にありますけれど、この言葉を日常的に唱えていたにもかかわらず、
自分が罪人であるということが分かってきたのは最近のことです。
といいますか、信仰の歩みは常に、
「いかに自分は聖書の言葉の真実を信じていなかったのだろう」
ということの連続でした。そして、それはこれからもそうであろうと思います。

30:『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。
 わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。


 このヨハネの言葉もすごい言葉であると、わたしは思います。
後から来た者は、この世では先にいたものに対して遠慮しなければなりません。
自分の後から来る者がすぐれていれば、わたしはその人に道を譲ったりは致しません。
そうではなくて必ず妨害して、そのすぐれた者が世に出ないように画策します。
 ヘロデ王は、まさにそのようなわたしたちの心の象徴です。
イエス・キリストの誕生を東方から来た学者たちから聞いた時、ヘロデ王は驚き、とまどいました。
そしてイエス・キリストを亡き者にしようとして、
イエスと同年代の子供を手当たり次第に虐殺したとマタイ福音書は伝えます。
なんと暴虐で残虐な王だろうと長くわたしは人ごとのように思っていましたが、
このような心が自分の中にも確かにあることに気がつくようになったのは極最近です。
 わたしには幸いにしてヘロデ王のような権力がありませんから、
罪もない子供殺したりする、残虐な行為をしなくて済んでいますが、
心の中で「あいつ殺したろか」という思いに突発的に襲われることは案外頻繁にあります。
そのような心が本質的に恒常的にわたしの心の中にあると認めることができるようになったのは、
イエス・キリストを信じる信仰のお陰です。
 そして、今、思うのですが、そのような怒りやねたみがわたしの心を覆うとき、
わたしは、それをそのまま放置しておくことが普通でありました。
本当は、
「このような悪しき思いをわたしの中からぬぐい去って下さい。」
と祈るべきなのだろうわたしは思っています。
 しかし、過去のそのような状況を振り返ると、果たして、今度、そのような状況になったとき、
「この悪しき思いを自分の中からぬぐって下さい。」と、祈るかどうかは大変に疑問です。

31:わたしはこの方を知らなかった。
 しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼(バプテスマ)を授けに来た。」


 わたしは牧師として、この洗礼者ヨハネの言葉は心して留めておかなければならないと思っています。
つまりイエス・キリストの福音を伝える者として、この教会の中にイエス・キリストが現れるように、
そのことを目的として奉仕することができているのかどうかということです。
 そして、わたし自身を振り返るならば、やはり、そうではない自分がいるということをわたしは言わざるを得ません。
 「この方を知らなかった」などと、わたしは言いません。
そうではなくて、あたかも自分はイエス・キリストを知っているかのように語り振る舞い、
「この方が現れるため」ではなくて、
「自分が少しでもいい牧師として認められる」ことを望んでいる自分自身を発見します。
 もし、このヨハネの言葉に触れることがなければ、
そのような思いが自分の中には確かにあるにもかかわらず、
気がつくことなく過ぎて来たとわたしは告白します。

 「この方を知らなかった」というヨハネの言葉は、
彼がイエス・キリストと本当に出会ったことを表現している言葉ではないでしょうか。
わたしたちがイエス・キリストに出会うとき、その救いに与る恵みを体験するとき、
わたしたちはいつもイエス・キリストを「」知らなかった方」であるかのように体験するからです。
「かくまで主を愛するは、今日、はじめの心地して」
と賛美歌にもあるとおりです。

32:そしてヨハネは証しした。
 「わたしは”霊”が鳩のように天から降って、この方のとどまるのを見た.。
33:私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼(パブテスマ)を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、
 『"霊"が降って、ある人にとどまるのを見たら、
 その人が、聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人である』とわたしに言われた。
34:わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」


 このヨハネの証の言葉には、主の言葉への彼の忠誠が表れています。
ヨハネは自分の感情や思いや考えによって、
イエス様が神の子、キリストであると証しているのではないことがここに言われています。
わたしたちは人を判断するとき、自分のことを受け容れてくれる人を善い人と思いがちです。
 また物事を判断するとき、自分に都合のよいことを正しいことであると思いがちです。
思いがちというよりも、そのようにしか判断していないのが現実といっても差し支えないのではないでしょうか。
ですから、ここには、わたしたちがなぜ聖書を学ぶのかという根拠が示されています。

 「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会のよるべき唯一の正典なり。
されば聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、まったき知識を我らにあたふる神の言にして、
信仰と生活との誤りなき規範なり」
とわたしたちは信仰を告白しますが、わたしたちのここ一番の判断は聖書の御言葉に従ってなされているでしょうか。

 2008年という新しい年を迎えました。この新しい年の中で、
わたしたちそれぞれが様々な決断と判断を迫られることが日常の中で起こってきます。
その判断と決断の根拠が神の言葉に基づいたものであるようにと祈ります。
 わたしたち一人一人に神様は、神様は生きる目的を与えて下さいました。
神様は洗礼者ヨハネに、神の子イエス・キリストを証する使命を与えられました。
同じようにわたしたちにも神の子イエス・キリストを証し、神に栄光を帰する使命が与えられています。

「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり。
教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い、
愛のわざに励みつつ、主の再び来たり給うを待ち望む」
と日本基督教団信仰告白は教えています。
 新年と言いますと、何かわたしたちは、
「さあ今年はどんな年になるだろうか?」あるいは「今年は何を目標としようか」ということに思いを巡らせます。
そのようなことも大切なことでしょう。
 しかし、わたしたちの根源の部分はそのような、わたしたちがどのようにしようとか、
何をしようというところにあるのではありません。
 そうではなくて、わたしたちが「主の再び来たり給うを待ち望む」ことにあります。
なにもしないでボッーとしていればいいのではありません。
それは、わたしたちが神様のために一生懸命に仕え、働くということを意味します。

 わたしたちは主が再び来て下さることを待ち望んでいるでしょうか?
自分の王国を少しでも広げるために一生懸命になっているのではないでしょうか?
主は決して、わたしの目の黒いうちはいらっしゃらないと、
タカをくくっているのがわたしたちの信仰生活ではないでしょうか。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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