水戸中央教会 説教         2007年12月30日

「神が人となった」

ヨハネによる福音書1章14〜18節

 14:言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。
  それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
15:ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。
 「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』
 とわたしが言ったのは、この方のことである。」
16:わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
17:律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
18:いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 神が人となって、わたしたちのもとに来て下さったというのが、キリスト教信仰の中心です。
それがイエス・キリストです。
 聖書の中には4つの福音書がありますが、イエス・キリストは神の子であるという視点を欠く福音書はありません。
 マタイ福音書は、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という言葉で始まりますが、
その直後にイエス・キリストの誕生について記されており、
それは処女マリアが聖霊によって神の子を身ごもって産んだのがイエス・キリストであると言われています。
 マルコ福音書は、イエスの誕生についての記録はありませんが、
冒頭に「神の子、イエス・キリストの福音の初め」という一言で、イエスが神の子であることを断言しています。 
 ルカ福音書には、イエス・キリストが処女マリアから生まれたという誕生の次第が記されています。
 ヨハネ福音書は、「言葉が肉となった」という非常に象徴的な表現でイエス・キリストが神の子であることを伝えています。
とある大変、信仰深い人が、様々な修行を経て、神の子のような特別な能力を身につけたということではありません。
 あるいはイエス・キリストは実は出生不明のマリアと、異邦人との不倫の子だったのではないか、
という憶測がよくまことしやかに言われます。日本で出版されている立派な出版社の本などには、
よくこのようなことが「本当の歴史的事実はそういうことだったのだ」という具合に書かれています。
しかし、まさにそのような憶測を否定するために、
福音書はイエス・キリストは神の子であるとわたしたちに伝えようとしているのです。

 イエス・キリストについての記録は聖書以外に歴史的資料がありません。
そして、その聖書はイエスという方が神の子、キリストだという確信に基づいて、
その確信を他の人々に伝えようとして書かれたものです。
 ですから、その意図に反した読み方をしてもあまり意味がありません。
この聖書を分析して、「イエス・キリストは神の子ではない」ということを証明するのはかなり無理がある行為です。
「イエス・キリストは神の子だ」という視点から、それが何を意味するのかと考えることが聖書を読んでゆく本来の姿勢です。

 イエス様はご自身のことを直接、
「わたしはキリストである」とか、「わたしは神の子だ」とおっしゃったことはないことは、
近現代の聖書学が明らかにしています。
ここから、わたしたちは、
「そうだ、やっぱりイエス様は、本当はキリストでも神の子でもないのに、
後のイエス様を尊敬した人々が彼を神の子に仕立て上げたのだ」
と考えがちですが、これは丁度、正しい人や良いが自分のことを、
「わたしは正しい人だ」とか「わたしは良い人ですよ。」と宣伝をしないのと同じです。
 ですから、イエス様が、自分を「キリストである」とか、
「神の子である」と言わなかったのはまさにイエス様が正真正銘の神の子であり、
キリストであることの証明です。
 にせ宗教の教祖は自分のことをキリストだとか神の子だと喧伝しますし
、自分を神だとかキリストだとか言い出す人は精神に異常をきたした場合によく見られる現象です。

 また、そうしますと、イエス様が自分のことを「人の子」というように言っていることもよく分かります。
神とは善の善なる者、正しい者の中の正しい者ですから、
「自分は神の子だ」ということは、自分で自分のことを正しい者の中の正しい者と言っているようなことですから、
正しい人はそのようなことを恥じるでしょう。
 神の子であるという大前提のもとにイエス様はご自身を「人の子」として表現しているのです。

 なぜイエス様が神の子と呼ばれるようになったのかという原因は、
イエス様が生前おっしゃっていた言葉の中にあります。
 それは、イエス様が神のことを語るとき、「わたしの父」という表現を用いていたからです。
これは本日の聖書の箇所の中にも見られます。

18:いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 復活という出来事によって、イエス様の語っていた言葉の真実が明らかになりました。
「十字架にかけられて殺され、三日目に復活するであろう」という言葉の通りにイエス様が復活され、
このことによって他のイエス様の言葉の真実性も証明されることになります。
 イエス様は十字架に掛けられる以前から神様のことを父と呼んでいましたので、
「イエス様は本当に神の子なのだ。」ということになります。
 母はマリアで、父は神なる主であることもイエス様の言葉の真実性によるものと考えられます。
また実際にそのように起こったのでしょう。
 マリアは聖霊によって身ごもりますが、このことはわたしたちが、
イエス・キリストを信じる信仰によって神の子とされる真実を保証する出来事となります。
 イエス・キリストにおいては生物学的な連鎖が断ち切られていますから、
聖霊によって、信仰によってわたしたちが新しく生まれるということが起こることを保証しています。
そして、わたしたちが復活に与り、神の子とされることを指し示しています。

1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

 わたしたちの信仰は、この人となった神に対する信仰であり、この人となった神こそがイエス・キリストであるとする信仰です。

14:言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。
  それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。


 この福音書の言葉は、わたしたちへの招きの言葉であり、イエス・キリストを信じて生きる人生への招待です。
神の栄光を仰ぎ見ることへとわたしたちは招かれています。
 わたしたちは神の栄光を見ようとしているでしょうか?
わたしたちの人生を豊かにし、人間として生きることの目的は神の栄光を仰ぎ見ることです。
そのように生きるようにと聖書はわたしたちを招いています。
 しかし、わたしたちは神の栄光を見るのではなく、自分が少しでも讃えられることを望み、
わたしが栄光を受けようとしてあくせくしています。
 自分の親類縁者知り合いにいわゆる社会的知名度の高い人がいれば、何となく誇りに思ってしまうものです。
神の栄光ではなく、自分の栄光のためにわたしたちは生きています。
 神の栄光を見ようとするとき、わたしたちの間にある隔てはなくなります。
わたしたちはわたしたちの間で、誰それはどのような人で、
生まれや家柄や財産や社会的地位などを見比べて生きていますが、神の栄光を見るということは、
そのようにわたしたち自身を見ないということです。
 神の栄光を見ようとして生きるとき、わたしたちは真の自由を味わいます。
わたしたちの人生の意味が満たされるのを感じます。
 自分の栄光のために生きようとするとき、わたしたちは決して満たされることがありません。
いつも人のものを欲しがる子供のような状態になってしまいます。
いつも不満があり、他人や環境に問題があると思いこんでいます。
そして自分自身を振り返って見ることができません。
 自分の栄光のために生きる人の特徴は、わたしがどのように他人に思われるかを気にすることです。
そして、人間はほんの石をも傷つけることのない人間の言葉によって傷つきます。
自分の栄光を人の間に求めているからです。神の栄光を求めて生きていないからです。

 大きな問いがわたしたちに今日向けられています。
 この一年の最後の日曜日、わたしたちはこの一年を神の栄光を求めるために生きてきたでしょうか?
そもそも神の栄光、神の恵みと真理を求めてわたしたちは生きたことがあるでしょうか? 
わたしたちはそのような恵みと真理を知らないのです。
 わたしたちは虚栄と過ぎ去りゆく空しいこの世の評判に振り回されて生きています。わたしたちの心は闇の中にあります。
 神の栄光を仰ぎ見て生きるために、富や地位や名誉は必要ありません。健康である必要もありません。
わたしたちは嘆き悲しむ必要があるのです。
神の栄光を仰ぎ見て生きようとしないわたしたちの強情な心を嘆き悲しむ必要があるのです。
神の栄光を見ることがなかった人生とはそれほどに空しいものであり、それは生きなかったことと同じであり、
存在しなかったことと同じなのです。

 わたしたちはよく、生まれたばかりの子供が病で死んだりしますと、
「なぜ、神様はこんな罪のない赤ん坊にむごいことをするのか?」と、思います。
それは悲しいことです。しかし、もしわたしたちが神を知らずに死ぬならば、
この生まれてまもなく死んでしまう赤ん坊と同じ人生を生きたことになるのです。
わたしたちのすべてが無に帰するからです。
 せっかく何十年も生きたのに、生まれないのと同じ生き方をしたというのであれば、
生まれてまもなく死んでしまう赤ん坊のほうが幸せであり、罪が確かにないのです。
 神の栄光を見ること、それはわたしたちの人生をかけがえのない唯一の素晴らしいものとする決定的なことです。
 イエス・キリストを信じることは、この神の栄光と真理のために生きることを意味しています。

 この世で何をしたか、しなかったか、何を食べたか食べなかったかということが問題ではありません。
イエス・キリストを信じて、神の恵みに与ろうとしたかしなかったかが問題なのです。
あなたが誉められようがけなされようが関係ありません。
あなたがイエス・キリストを信じて、神の栄光を見たかどうかがあなたの人生を価値あるものにする唯一のことです。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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