
土浦教会 説教 2007年12月2日
「救い主が来られる」
ヨハネによる福音書7章25〜31節
25:さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。
「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。
26:あんなに公然と話しているのに、何も言われない。
議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。
27:しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。
メシアが来られるときは、どこからこられるのか、だれも知らないはずだ。」
28:すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。
「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。
わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、
あなたたちはその方を知らない。
29:わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、
その方がわたしをお遣わしになったのである。」
30:人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。
イエスの時はまだ来ていなかったからである。
31:しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、
「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。
聖書は素晴らしい人間の記録ではありません。
そうではなくて、人間の罪の記録です。
旧約聖書は、いかに人間が神から離れ、罪を犯し続けてきたかという歴史がつづられています。
新約聖書は、いかに人間が神の子イエス・キリストを拒み続けたかという事実を記録しています。
ヨハネによる福音書のテーマは、
「はじめに言葉があった。」で始まる冒頭部にあります。
本日、わたしたちに与えられた7章25〜31節は、
この冒頭部の
「1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
という言葉が背景になっています。
25:さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。
「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。
26:あんなに公然と話しているのに、何も言われない。
議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。
27:しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。
メシアが来られるときは、どこからこられるのか、だれも知らないはずだ。」
安息日に、病の人を奇跡によって癒したことによって、
イエス様はすでに、ファリサイ派の人々やユダヤの指導的な人々から敵視されていました。
またヨハネ福音書では、イエス様がエルサレム神殿に集まっていた両替人や商人を追い出してしまったことが、
初めの方(2章13節)に記録されており、エルサレム神殿の祭司たちとも、
相当の対立が当初からあったことが想像されます。
しかし、彼らはイエス様が次々と起こす奇跡による素晴らしい救いの御業と、
その教えの正しさのゆえに、手が出せずにいました。
もし、このような素晴らしい救いの業を行うイエスを捕らえ、殺してしまうようなことをすれば、
一般の大衆がそれを許さないという雰囲気があったからです。
このような状況の中でエルサレムの人々は、イエスがメシアであることを否定する根拠を挙げて、
イエスを排撃しようとします。
ヨハネ福音書によりますとイエスの出身地はガリラヤであるとされていたようです。
そして両親が誰であるかも彼らには分かっていました。
しかし、メシアは神から直接遣わされる訳ですから、
どこかに出身地があるはずがないというのがその非難の根拠でした。
どんなに素晴らしい奇跡の業を体験しようと、イエスの教えが素晴らしいと聞こうとも、
彼らはイエス様の素晴らしさを認め、神を賛美しようとはしませんでした。
なんだかんだと屁理屈をつけてイエス様をおとしめようと彼らはしたのです。
先日、竜ヶ崎教会で茨城地区の役員研修会が開かれました。
テーマは茨城県の伝道でした。
講師の先生は統計に基づいて、茨城県の伝道の展開状況を他地域と比較しながら教えてくださいました。
茨城県は他の地域に比べますと人口あたりの教会数が少ないということでした。
日本での伝道は難しいということがよく言われます。それは、本当だと思いますが、
その難しさというのは、別に今に始まった訳ではなく、
イエス様がこの世にいらした時もすでにそうであったことが分かります。
イエス様の素晴らしい業と教えに人々は群がりますが、
だからといって全ての人々が回心してイエス様を信じたのではなく、根強い抵抗勢力があり、
イエス様を十字架の死に追いやるのです。
このイエスを認めようとしない反対勢力を、わたしたちは愚かな人々と思いがちです。
ファリサイ派の人々やサドカイ派の人々、当時の祭司や宗教的指導者を、
悪の権化のように思ってしまいます。
そしてあたかも彼らを自分自身とは対局にある人々のように見なしています。
たとえば、教会内で対立が起きますと、お互いがお互いを
「あの人々はファリサイ派的だ。」とか
「彼は律法主義的だ。もっとイエス・キリストは自由の福音を伝えようとしたのだ。」
と罵り合うのが常です。
しかし、信仰の成長の過程には、このファリサイ派の人々やサドカイ派の人々、
そしてここに挙げられている、エルサレムからの人々のような、イエス様に反対し否定する愚かな人々の中に、
自分自身を見いだすことが大変重要です。
「あの人」又は「彼ら」、あるいは「あなた」が、
イエスに反対し、イエスの権威をあれやこれやと屁理屈をつけて否定していると批判することではなくて、
イエスに反対し、イエスの権威に難癖をつけているのはわたし自身だと思えることが大切なのです。
人の罪ではなく、自分の罪が見えるようになることが救われた者の特質です。
イエス・キリストの光が心の中に差し込んで、自分の心が神の明るい光で照らし出されるとき、
わたしたちは初めて、自分の心の醜さを知ります。それまでは、わたしたちの心は真っ暗闇ですから、
自分の心が醜いものだとは全く気が付きません。ですから、わたしたちは平然と人の批判をすることが出来ます。
けれども自分の心の醜さに気が付いたとき、わたしたちは人と神に対し謝り、和解を求めるのです。
28:すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。
「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。
わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、
あなたたちはその方を知らない。
29:わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、
その方がわたしをお遣わしになったのである。」
わたしたちは神を知りません。ですから、わたしたちは自分自身を省みることなく、他人の批判が出来るのです。
もし、わたしたちが神を知っているならば、自分の醜さと愚かさに愕然として、
他人の批判などするゆとりはないでしょう。
わたしたちは真実を知りません。ですから自分の考えや思いが真実であると思っています。
わたしたちは神を知りません。ですから唯一まことの神から来た神の子、
イエス・キリストですら批判することが出来ます。そして平然と批判をし続けるのです。
だからといって、わたしたちが何でも無批判に信じ受け入れなければならないというのではありません。
真実であるかどうかを確かめることは、大切なことです。聖書は、真実を確かめるように勧めています。
ここに一つの問いが起こります。それは、わたしたちが真実を確かめようとしているかどうかということです。
そしてわたしたちが確かめなければならないのは、イエス・キリストを信じて生き、
そしてそのイエス・キリストを信じる生涯が本当に真実なものであるかどうかではないでしょうか。
ここで、イエス様がメシアであることを否定しようとするエルサレムの人々に対して、
イエス様は、「大声で答えた」とありますが、その答えた答えの内容は、
非常に不明瞭な霧がかかったような表現です。
「イエスよ、あなたはメシアではない。」
とする言葉に対して、
「いや、わたしこそメシアだ。神の子だ。なぜならばわたしの父はヨセフだが、この父はダビデの子孫だ。
ナザレの出身だが、実はメシアが生まれるはずのベツレヘムで生まれたのだ・・・・」
というように答えるのが普通ではないでしょうか。
ところがここには、そのような弁明や釈明は一切ありません。そして父なる神という言葉さえありません。
近代の聖書研究が明らかにしたことは、イエス様がおっしゃった言葉の中に直接、
ご自身を「メシア」、「キリスト」、つまり「世の救い主」と言った箇所は一つもないということでした。
このことから、生前のイエス様、ナザレという町の出身者であるイエス様、ナザレのイエスは、
自分のことをメシアだとは考えていなかったという学説が現在、非常に有力です。
「イエスはメシアとしての自覚はなかったが、後の教会の信仰によってメシア、つまりキリストとされた」
と20世紀以降の人文科学的キリスト教は考えてきました。
しかし、この考えは、わたしたちの身の回りと信仰に照らしたとき、過ちであることが分かります。
日本には新興宗教が満ち満ちています。キリスト教を装ったようなニセ宗教の教祖は、
自らを再臨のメシアと自称しています。
サリン事件を起こした死刑囚の麻原彰晃、本名、松本千津夫は、オウム真理教の教祖として、
自分自身を「最終解脱者」「救世主」と称しました。
このような例は日本に限ったことばかりではなく、
カルト宗教の巣窟ともなっている合衆国でも同様でありまして、
カルト宗教の脱会カウンセラーとして有名なスティーブン・ハッサンも、
多くのカルト宗教の教祖が自分をメシアとか最終解脱者とか自称していると書いています。
このようなニセ宗教の教祖は、自分で自分のことをメシアだと言ったからメシアだったのでしょうか。
そうではありません。彼らはメシアではありませんし、メシアとしての自覚もありません。
彼らはメシアと自称することによって人々を騙そうという意識はありますが、
真のメシアとして命を捧げたりは致しません。
このニセ宗教の教祖たちと本当のメシアであるイエス・キリストとを比較するとき、
イエス様の言葉の真実が明らかになります。
つまり、本当のメシアは自らをメシアとは言わないということです。
ですから、イエス様ご自身の言葉の中に、メシアと自称したことが一回もないというのは、
驚き怪しむことではなくて、イエス様が本当にご自身をメシアとして自覚され、
メシアとして行動された証拠です。わたしたちがイエス様こそ本当のメシアと信じてよい根拠です。
考えていただきたいのですが、たとえば、善人、良い人というものは、
「自分は、良い人である」と自分で言わなければ、善人ではないということは決してありません。
良い人というのは、自分で自分のことを良いとか言わないものです。
「わたしは良い人間ですよ」と宣伝するのは詐欺師であり、偽善者です。
イエス様はこのヨハネ福音書の中で確かに、
「わたしは道であり、真理である」とおっしゃっていますけれど、
これはイエス様が捕らえられて、十字架につけられてしまう直前です。
そして、しかも、その時ですら「わたしはメシアである」とはご自分でおっしゃっていません。
マタイ16章では、ペトロが「あなたこそメシアです。」
と告白しますが、イエス様はそれを秘密にするように厳しく命じます。
イエス様は、わたしたちの身の回りのニセ宗教の詐欺教祖とは、全く違います。
イエス様は詐欺師ではないことがここに証明されています。
良い人や正しい人は、自分で「自分が良い人である」とか、
「自分は正しい人だ」と、言ったからといって良い人、正しい人となるのではありません。
そうではなくて、良いことを行い、正しいことを行って良い人、善人、正しい人、
義人とされるのです。
同じようにメシアもメシアとして救いの業を行った者がメシア、キリストなのです。
自分がキリストだと名乗ったから、キリストなのではありません。
十字架と復活の業によってイエスは確かにわたしたちの救い主、キリストなのです。
イエス様のお答えになった言葉の中には神様という言葉もでてきません。
「わたしを遣わした方は真実で、わたしはその方を知っている。」
とおっしゃっています。
「神がこのようにおっしゃった」
というウソをわたしたちはいかに沢山聞いてきたことでしょうか。
わたしの妻の英美子牧師も今より多少、若かったときには、ある神学生から
「神様が、あなたと結婚するようにわたしにおっしゃいました。」
と告白されたことがあるそうです。
「ちょっと、変わった方だなぁ」と思いますが、わたしたちが神様を持ち出して、
ウソをつくことの典型的な例です。
30:人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。
イエスの時はまだ来ていなかったからである。
イエス様が神様とか自分はメシアだとか言わなかったのは、
「神を冒涜する者だ」という嫌疑をかけられて捕らえられるのを防ぐためではありませんでした。
その言葉のゆえに捕らえられても当然であったのです。
なぜならばイエス様の言葉は十分に挑発的であるからです。
「あなた方はその方を知らない」
などというのは、直接関係のない、わたしたちにさえ尊大に聞こえるのではないでしょうか。
ただ時がまだ来ていなかったと聖書は説明しています。
31:しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、
「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。
イエス様はご自身で、「自分はメシアである」とも「神の子」とも決しておっしゃいませんでした。
しかし、真のメシアとしてそして神の子として行動されました。
当時の王や大祭司や律法学者などのこの世の権威に対してイエス様は恐れることなくこと語られました。
そのゆえにこの世の地位や権力はイエス様には決して与えられず、
この世の権威者と対立することになりました。
イエス様は、メシアであるとは決して自称しませんでしたが、
群衆の中には大勢信じる者が現れて
「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」
と、言ったと聖書は証ししています。
この御言葉の真実は、それから2000年経った、エルサレムから遠く離れた、
ほとんど地球の裏側といっても言いような日本でも有効です。
この御言葉は、この日本に数え切れないほど現れては消えてゆく救世主を自称し、
自らを偉大なものであるかのように言いふらすニセ宗教の教祖たちを批判しています。
そして、大して善人でも正しい人でもないくせに、
ひとたび、自分のプライドを傷つけられると逆上してしまうわたしたちの偽善性を追求し、
明らかにしています。
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, Tokyo 1987,1988