水戸中央教会 説教            2007年12月16日

「先駆者・洗礼者ヨハネ」

ヨハネによる福音書1章19〜28節

 
19:さて、ヨハネの証しはこうである。
 エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、
 「あなたはどなたですか」と質問させたとき、
20:彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。
21:彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、
  ヨハネは、「違う」と言った。
  更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。
22:そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。
  わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」
23:ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
  「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
  『主の道をまっすぐにせよ』と。」
24:遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。
25:彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、
  なぜ、洗礼(パブテスマ)を授けるのですか」と言うと、
26:ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼(パブテスマ)を授けるが、
  あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。
27:その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
28:これは、ヨハネが洗礼(パブテスマ)を授けていたヨルダン川の向こう側、
  ベタニアでの出来事であった。

 イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスを来週迎えようとしています。
今はその準備期間であるアドベントです。
 クリスマスの準備というと、クリスマスカードを書いたり、
クリスマス・プレゼントをデパートで買い求めたり、
クリスマスの食事の準備をしたりすることであるかのように思ってしまいます。
また、そのようなことに多くの時間を割き、色々と頭を悩ませます。
 しかし、それは本来的なことではありません。
 洗礼者ヨハネは、イエス・キリストがいらっしゃる先駆けとして、この世に現れ活動しました。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
というのが、ヨハネの神から与えられた役割でした。

 洗礼者ヨハネの活動は人々に罪の悔い改めを迫り、罪の赦しの水の洗礼を授けました。
 ですから、イエス・キリストを迎える準備とは、罪の告白と悔い改めです。
このように言いますと、なんか陰気くさいように思われますが、
わたしたちの心の健康のためにそれは最も良いことです。
わたしたちの心が明るく朗らかに保たれるために罪の告白と悔い改めは必要なことです。

 罪を告白するということは、自分自身の人生を主体的に責任をもって生きるということです。
自分の人生を自分のものとしてしっかりと捉え直すということを意味しています。
 自分の罪を告白しないということは、他に責任を転嫁するということです。
つまり、なにか都合の悪いことが起こってくると、他人のせいにしたり、
社会や環境、自分の育った家庭や環境のせいにしたり致します。
人を羨んだり、劣等感や優越感を持ったりするのも自分の罪を告白しない、告白できないからです。
 虚栄心に対立するのが信仰であり、信仰が虚栄をうち砕きます。

 他人の悪口を言ったり批判するということは、
単に自分の正当性を主張しているだけのことですから、裏を返せば自分の罪を認めないことです。
このように他人の悪口や批判に自分の心が捕らわれてしまうならば、
わたしたちはそのことを神に祈らなければなりません。
 周りの人に他人の悪口や批判を訴えるならば、わたしたちの信仰はまっすぐではありません。

 ヨハネは、「わたしは『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫ぶ声だ」と言いました。
それは、わたしたちが神と共に神の御前に、神に向かって生きることを訴えたのです。
これが、イエス・キリストをお迎えする原点です。
 ところが、わたしたちはこの世にあって自分が人からどのように見え、
思われるかということを価値判断の物差しとしています。
 神からどのように思われるかよりも、人からどのように見えるかということの方が、
はるかにわたしたちに対して強制力があります。ここにもわたしたちの罪があります。

 そして、このような罪に気が付いてゆくことが、このアドベントの時期、より本質的なことです。
自らの罪、虚栄心、高慢に気が付いてゆくことは、わたしたちの人生を本当に実りある素晴らしいものにします。
 わたしたちの人生の目的は、神と共に生きることです。
イエス・キリストを信じ、その信仰に留まり続けることこそが、わたしたちの人生の意味です。
 誰が意地悪をしようが、他人がこの世の目で見れば自分より豊かであろうが関係ありません。
この世の困難を通して、わたしたちはキリストの苦難を思い、その恵みにあずかるのです。

19:さて、ヨハネの証しはこうである。
 エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、
 「あなたはどなたですか」と質問させたとき、
20:彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。
21:彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、
  ヨハネは、「違う」と言った。
  更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。

 洗礼者ヨハネは、わたしたちクリスチャンのお手本でもあると言われます。
彼は自分をメシアであるとは言いません。「わたしはメシアではない」と、きっぱりと否定しています。
 わたしたちクリスチャンの陥りやすい信仰の病にメシアニック・シンドロームというものがあります。
これは症状としては、常に自分をメシアのように、
お助けする立場におくことによって自分の価値を確かめるものです。
人を助けて、感謝をされることを最大の喜びとします。
「人を助けるのが喜びならばそれはいいことではないか」
と、思われるかも知れませんが、表面は謙遜で丁寧なようでも、
このような人々は大変に内面は高慢で、権力欲に満ちています。
自分が助ける相手が、自分の思うようにならないと不満です。
心の傷、あるいは劣等感を覆い隠すためにこのタイプの人々は、人助けをします。

 ヨハネは、わたしたちから見るならば、メシアであると名乗ってもよいほどの方でありましたけれど、
「自分はメシアではない」と、きっぱりと否定し、メシアのようなふりもしませんでした。
 それに引き替え、わたしたちはメシアであるはずがないのに、
メシアであるかのようなそぶりをしたり、そのように思われることを好むのです。
もちろんこの世界を救う救世主などとは考えませんが、自分の身の回りの人々の中で、
家庭で友人関係の中で、救世主の役割を果たしたがります。

26:ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼(パブテスマ)を授けるが、
  あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。
27:その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」

 わたしたちが何か他人に対して良いことをするとき、
わたしたちは、イエス・キリストに救われた恵みと感謝に満たされてそれをなしているでしょうか。
そして、
「イエス様がわたしになして下さったことに比べれば、わたしのしたことなど無に等しい」
と心から思えるだけの信仰があるでしょうか。
 助けることと引き替えに、わたしたちは無意識のうちに、
自分自身への尊敬や敬意を勝ち得ようとしていないでしょうか。
助けた人々からあしざまに言われると怒ったりしないでしょうか。
助けているのではなくて、単に尊敬を勝ち得るための商売をやっているだけではないでしょうか。
 このように自分自身を振り返ることは、自分自身を厳しく律する、厳格な生き方というものではありません。
そうではなくて、大いなる神を見上げて自由と平安の中に生きることです。
自分を愛するように隣り人を愛することです。

 アドベントの時、イエス・キリストの誕生を今年もお祝いするために、
わたしたちは自らの罪をよく振り返り、主に赦しを請い願いましょう。
 すでにクリスチャンとなって救われたのだから、
もはや罪について考える必要はないということはありません。
「罪とはイエス・キリストを信じない人々のことだ」
などと思ってはなりません。
 自分の罪を覚えることが出来るということこそがイエス・キリストの臨在の証です。
わたしたちの心の闇に確かにキリストの光が照り輝いているから、罪が理解されるのです。
そして、その時、わたしたちが自らの罪深さに、恐れおののくとき、
わたしたちの人生は、この闇の世にあって、
確かにクリスマスツリーのイルミネーションのように光り輝いているのです。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教