水戸中央教会 説教           2007年12月9日

「旧約における神の言葉」

ヨハネによる福音書5章36節~47節

36:しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証がある。
 父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、
 つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。
37:また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。
 あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。
38:また、あなたっちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。
 父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。
39:あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。
 ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
40:それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
 41:わたしは、人からの誉れは受けない。
42:しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。
43:わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。
 もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。
44:互いに相手からの誉れは受けるのに、
 唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。
45:わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。
 あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。
46:あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。
 モーセは、わたしについて書いているからである。
47:しかし、モーセの書いたこと信じないのであれば、
 どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」


36:しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証がある。
 父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、
 つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。
37:また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。
 あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。

 ヨハネ福音書のモチーフは、人間は闇の中にいて、
そこにキリストが光をもたらしたということです。
 人間は神を知りません。そして、知ろうともしません。
 しかし、この人は神を知らず、知ろうともしないということは、
人間にとって自明のことではありません。
「人間は神を知らず、知ろうともしない」
という認識と洞察に到ることが大切です。

 信仰を与えられないならば、人は、神を知っていると思い込んでいます。
世の多くの人々は神を知っていると思っています。
 「もし、神様がいたら、なぜこんな悲惨なことが起こるのですか?」
というのは、神の存在を否定しようとする人々から、よく尋ねられることです。
そして、わたしたちもこのように尋ねられますと、
なにも答えられないということがよくあります。

 しかし、この質問には、神がどのような方かを知っているとするウソがあります。
「もし、神様がいたら」
という神様を知っていると思い込んでいますから、このような質問が出来るのです。
 この質問の中には、神様はこういう方だという思い込みが前提になっています。
知りもしないのに、神はこういう方だと言っているのがわたしたち人間の愚かな現実です。

 ですから、キリスト教の伝道は、
この知っていると思っている思い込みを突き崩すことにあります。
そして、
「わたしは神を知らない」
という信仰の認識を得るならば、それは信仰の大きな前進です。
信仰の道は、この「わたしは神を知らない」という告白によって深まってゆきます。

 この「神を知らない」ということを知る時、わたしたちは確かに神と出会っているからです。
 このように言いますと、
「聖書には神がどのような方であるかが書かれており、
使徒信条などでも毎日曜日、神がどのような方であるかを言っているではないか」
と、思います。しかし、それは、つまるところ、「神を知らない」ということを言っているのです。

「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」
と、先ほどもわたしたちはご一緒に告白しました。
それはつまり、わたしが天地の造り主でも、わたしが全能でもないことを言っているのです。
 ところがこの天地が自分の物であるかのように、わたしたちは考えています。
この天地を、わたしたちは知っています。
 わたしたちが知ることが出来るのは、この天地までです。
しかも、この天地ですら、ホンの極小さな地球の片隅しか知りません。
 わたしたちは幻想の中に生きることを止めて、現実に生きることを始めなければなりません。
それが信仰をもって生きるということです。

 全能の神を信じるということは、わたしの無能を認めることです。
そして、わたしたちは全能である必要はありません。
全能であろうと自分をがんじがらめにしているところから、
わたしたちは全能の神を信じるとき解放されます。
 なぜかおかしなことにわたしたちは全能であろうとしています。
「そんなことはない。」
と、誰もが思うでしょうが、そうなのです。
 なぜ、わたしたちは他人の欠点が見えるのでしょうか。
そして、他人への批判や不満がわたしたちの心の中にわき起こってくるのでしょうか。
それは、わたしたちが全能の神を信じていないからです。
人間が全能であると勘違いをしているからです。
 自分の欠点はなかなか分からないし、それは変えなくても良いと思ってしまうのに、
人の欠点は、改善されなければならないと思うのは、
わたしが全能でパーフェクトだと思い込んでいるからです。
思い込んでいるので、自分がパーフェクトであると思っていることに気が付きもしません。
ですから平気で
「わたしは大変、欠けの多い人間ですが」
などと言うことをぬかします。
 このようなことを言う人の他人への批判というのは、激烈なことが多く手を焼きます。
別に、この「わたしは大変、欠けの多い人間です」ということによって、
欠点だらけの自分のことを言っているのではなくて、
「欠けの多い人間だ」と言うことによって自分の完全性を主張しているのです。

38:また、あなたっちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。
 父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。
39:あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。
 ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
40:それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

 イエス・キリストを信じ、歩み出すとき、わたしたちは自分自身の偽善性を知ります。
自分がいかに傲慢で、不遜であり、神を知ろうとしない人間であるかを知るようになります。
自分が全能であり、神であるかのように思って、人を批判していることを知るようになります。

 イエス・キリストは真実であり、わたしたちを教え導いて下さるからです。
イエス・キリストは人となった神だからです。
 この方に出会ったとき、わたしたちは自分の思い込みから解放される一歩を歩み出すのです。
 しかし、なぜかわたしたちにはこの一歩が大変に難しいのです。
 当時の聖書を知り抜いたようなユダヤ人たちにとっても、
この一歩を踏み出すことは困難でした。
それどころか、彼らはイエス・キリストに敵対し、主を十字架につけて殺してしまいました。
 神に従うということは人間にとってなかなか出来ないことです。
これほど簡単なことはないのですが、なぜか人はそれをしようとしません。
 日本でも伝道は一向に進みません。
イエス様ご自身がこの世に来られた時でも、色々な反対者があり、
福音伝道活動が順調に進んだ訳ではありません。
 イエス様の時代ですら、困難があったのですから、
日本で、イエス様とは比べようもないわたしたちのような者が、
伝道しようというのですから一向に進まなくても無理はありません。

41:わたしは、人からの誉れは受けない。
42:しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。
43:わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。
 もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。
44:互いに相手からの誉れは受けるのに、
 唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。

 わたしたちの心が神様へと向かわない理由がここに明らかにされています。
それは、わたしたちが人からの誉れを受けようとしているからです。
 何か有名になることをわたしたちは一つの大きな価値としています。
人から誉め称えられることをわたしたちは求めています。
ですから、わたしたちは神を求めようとはせず、神に従い、聞こうともしません。
 神を信じても、自分が有名になるわけでもなんでもありませんから、
人々は誰も耳を貸そうとはしません。
 神への愛は、わたしたちの内にありません。
確かに神への愛はわたしたちの内にありません。

 わたしたちにとって「いい人」の基準はなんでしょうか。
それは、わたしの考えを受け入れ、わたしを認めてくれる人ではないでしょうか。
 わたしにとって優しい人がいい人ではないでしょうか。
「いい牧師」というのも、同様で、
単に自分の考えを受け入れてくれる牧師が「いい牧師」となっていないでしょうか。

45:わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。
 あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。
46:あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。
 モーセは、わたしについて書いているからである。
47:しかし、モーセの書いたこと信じないのであれば、
 どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」

 神はわたしたちを愛し、そしてわたしたちを受け入れて下さっています。
しかし、わたしたちは、その愛に見向きもしません。
 神の愛に目を向けるならば、わたしたちの人生には大きな信じられないような変化が起こります。
全てが素晴らしく輝いてきます。
 わたしたちはもう不満を訴えたり、不足を訴えたりは致しません。
イエス様に訴え、祈るとき、全てが変わってゆきます。
 聖書を読み、祈ること、神様にイエス様のお名前によって祈ること、
これが人間の人生を決定的に変革してゆきます。
これが、そもそもわたしたち人間の人生の意味であり、生きたことの証です。

 わたしたちもそれぞれが人生の重荷を負っています。
その時、大切なことは、この人生の重荷が取り去られることではなくて、その中で祈ることです。
こんな悲惨な状態の中で祈ることができたということが大切なのです。
神に訴え、祈り続けることが、わたしたちの人生の目的です。
 イエス様は十字架に掛けられても、神に祈り、訴えられました。そして、人を憐れまれました。

 なのになぜ、わたしたちは少々他人が自分に対して不当なことをしたといっては怒るのでしょうか。
また不快に思うのでしょうか。
 わたしたちはイエス・キリストを信じる信仰によって神の子とされました。
わたしたちは人を呪うためにあるのではありません。
わたしたちに悪を行う者をも祝福し、神の恵みを祈るのがわたしたちです。
わたしたちの力によって悪を行う者を赦し、祝福することは不可能です。
そして、それは思いつきもしないことです。

 しかし、イエス・キリストを信じる信仰によって、
わたしたちはわたしたちに悪を行う人を赦し、祝福を求めることが出来るようになっていきます。
それは偽善ではありません。
神の力の働きであり、神がわたしたちを個人的に真に愛していることの証拠です。
 それはあなたの名が神に覚えられていることの確かな印です。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教