土浦教会 説教       2007年11月4日

永眠者記念礼拝

ヨハネによる福音書11章17〜27節

 
17:さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
18:ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
19:マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
20:マルタが、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
21:マルタはイエスに言った。
 「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
22:しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、
 わたしは今でも承知しています。」
23:イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
24:マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
25:イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
26:生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
27:マルタは言った。
 「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 今日は聖徒の日、永眠者記念礼拝です。
 私たちは、今日、感謝するためにここに集いました。
神様がこの地上で語り始めた永遠の御言葉に感謝するために、
そしてその御言葉を聞いて感謝をもって生涯を歩んだ人々と共に、
生きることができたことへの感謝を神に表すために今日、私たちは教会に集いました。
 私たちはただ単に懐かしく過去を思い起こし、
追憶に浸るために集まっているのではありません。
 私たちは、今は天に召された兄弟姉妹を通して、
私たち自身の未来を確認するために集まっています。
それはただ死をもって終わってしまうこの世の命ではなくて、
イエス・キリストがご自身の命を捧げてくださって、
信じる私たちに与えられた永遠の命という揺るぎない未来です。死さえも過ぎ去るのです。
 私たちのこの世の命は死によって過ぎ去りますが、
神の大いなる御力の前では、その死さえも過ぎ去るのです。
なぜならば神こそが命を作り出し、与えてくださる方だからです。
 私たちはまだ永遠の命に与っていません。
またイエス・キリストがおっしゃった神の国をまだ見ていません。
私たちは待ち望んでいます。私たちは永遠の命の与えられる時を待ち望んでいます。
神の国がこの地上にやってくるのを待ち望んでいます。
そして、待ち望んでいるのは、私たちだけではありません。
この今は死によって眠っている私たちの兄弟姉妹もまた、その眠りの中で、
神の国を待ち望み、永遠の命を待ち望み、復活の時を待ち望んでいるのです。
神を待ち望む者たちとして、私たちの眠りについている兄弟姉妹も私たち自身も生きているのです。

17:さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
18:ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
19:マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。

 イエスが大変に愛しておられたラザロが死にました。彼は病死しました。
その姉妹マリアとマルタは、兄弟ラザロの病が大変重くなったとき、
イエスのもとへ使いを送り、危篤状態のラザロの様子を知らせました。
 彼女たちはイエスが直ちに来てラザロを癒し、
死の病から救いだして下さることを期待していました。
 しかし、それは叶いませんでした。ラザロは死にました。
そして既に四日も経ってからイエスはようやくラザロの村ベタニヤへ到着します。
全ては手遅れであるかのように思われました。
 死はわたしたちにとって取り返しのつかない厳然たる事実であり、出来事です。
マルタとマリアは悲しみの中にあります。
多くのユダヤ人が兄弟ラザロのことで慰めに来ていたという状況は、
今日もわたしたちが葬儀の場で遭遇する状況です。死はわたしたち人間にとって冷たい現実です。
死はわたしたちをこの世から無情に引き離します。死んでしまえば全てが終わりです。
どんな善人もどんな悪人も例外なく死んでゆきます。
豊かな財産を築いた者も貧しい者も、
医療の力によって多少20年や30年余分に生きることが出来るかも知れませんが、
全ての人は死に、結局のところこの世で勝ち得た富も名誉も地位も持っていくことはできません。

 日本の仏教などでは戒名が与えられ、信士(シンジ)とか居士とか階級が与えられます。
神道などにも死後の階級があるようです。
 これらは人間の造りだした空しい慰めであり、幻想に過ぎません。
それはこの世に対する人間の見栄と虚栄の産物です。
 この世において、死んでも自分の地位や名誉にこだわるので、
わたしたちはこのような嘘を作り出すのです。
それはこの世への未練に過ぎません。それは空しい慰めです。

20:マルタが、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
21:マルタはイエスに言った。
 「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
22:しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、
 わたしは今でも承知しています。」

 マルタはイエスが来られたことを聞いて、迎えに行きます。
それは、丁度、葬儀で偉い人がいらした場合に喪主が出迎えに行くような状況です。
 最も尊敬する人生の師イエス様がいらして下さったと聞いてマルタは、
人間的な常識と礼儀として、そしてまた誠実さをもってイエスを出迎えに行きました。

 マルタはわたしたち自身です。あのマリアがイエスを信じたような信仰を、
わたしたちは大抵の場合は持ち合わせません。
マルタの言葉は、尊敬する師であるイエス様に対する敬意を表しています。
 
「このたび兄弟のラザロは死にました。
あなたがいらして下さっていたら、ラザロは死ななかったでしょう。
残念なことですが今となってはどうしようもありません。
だからといって、わたしたちがあなたに対して、
不信の念を持っているということは決してありません。
あなたの素晴らしい奇跡を起こす力は、本当だと信じています。
どうぞこれからもよろしくお願いします。」

というような意味でマルタの言葉は理解されます。マルタは死に飲み込まれてしまっています。
マルタにとってはラザロの死は取り返しのつかない事実です。
全てが手遅れであり、どうしようもないのです。

 イエスはマルタに対して、「あなたの兄弟は復活する」と言いますが、彼女は答えます。
「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」
 マルタの知っていることと信じていることはわたしたちと全く同じです。
わたしたちもまたマルタと同じように
「終わりの日の復活の時に復活することは信じている」と言うことができます。
 そのこと自体は正しいのですが、この信仰は、わたしたちが何の根拠もなく、
賽の河原や輪廻転生の生まれ変わりや天国や地獄を信じるのと変わりがありません。

 宗教が提供する世界観、死生観を受け容れるように、
わたしたちはキリスト教的世界観として終わりの日の復活を信じています。
 しかし、わたしたちの信仰の対象は、
この宗教的世界観や価値観を受け容れて信じているのではありません。
わたしたちの信仰の対象はイエス・キリストその方にだけあるのです。
ですから、イエス様は彼女に答えて語ります。

25:イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
26:生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 これに対するマルタの答え、
「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
は、わたしたちの信仰と全く同じです。マルタの答えに何の過ちもないようにわたしたちには思われます。
 しかし、マルタは自分自身の答えにイエス様が満足されていないことを悟りました。
ですから彼女は28節に示されていますように、家に帰ってから、姉妹のマリアを呼んで、
「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちをするのです。
自分では理解しがたい何物かが語られていることを彼女は悟ったのです。

 マルタは、イエス様を確かに世に来られるはずの神の子、メシアとして信じていました。
それは、わたしたちが信仰告白の文章を唱えるように信じていたのです。
 一つの真理、原理原則を理解したり、信じ受け容れたりするように、
マルタは、一つの教えとしてイエスがメシアであることを信じていました。
 このことは32節のマリアの態度に明確にされています。

マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。

 つまりマルタはイエスを見るなり足もとにひれ伏すことがなかったのです。
それはイエスが傲慢で自分の地位や力を認めないものに対しては冷淡だということではありません。
 問われているのはわたしたちの言葉とその自分の言葉に対するわたしたち自身の態度です。
「イエス様はメシアである。生ける神の子である」
と告白しながら、その当の本人を目の前にしながら、マルタはひれ伏しませんでした。
 マリアはしかし、ひれ伏しました。この違いはどこにあるのでしょうか。
 マリアは、イエス・キリスト以外に救いはないことを信じ、
イエス・キリストその人に直接頼り、お願いしたことにあるのではないでしょうか。
悲しみも悩みもそのまま、主イエス・キリストに取り繕うことなく、
ぶつけたことにその違いがあるのではないでしょうか。 

 マルタは模範的な女性です。彼女は全てに気を配り、落ち度がありません。
しかし、そのことによってマルタは立派な女性となってしまうのです。
気丈な立派な女性として神の栄光の前に立ちはだかってしまうのです。

 皆さんもご存じのように、この後、イエス様はラザロを死者の中から復活させ、
御自身に死者を復活させる力があることを示されました。
イエス・キリストの前にはもはや死は存在しないことを示して下さいました。
もちろん、この後、ラザロは死んでいます。
そして、その後のクリスチャンも全て死にましたし、わたしたちも死ぬでありましょう。
なぜならば、それはこの世にわたしたちが生きているからです。
この世に生きているわたしたちは必ず死にます。なぜならばこの世は永遠ではなく必ず終わるからです。

 イエス様は永遠なる神のもとから、この過ぎ去る世にいらして、
その過ぎ去る命が過ぎ去らないことを示して下さいました。
 イエス・キリストにおいて、わたしたちは永遠に生きているのです。
イエス・キリストを信じる信仰のおいて、わたしたちは確かに永遠に生きているのです。
それは、わたしたちがこの世で生きていることよりも確かなことです。
この世は過ぎ去りますが、イエス・キリストを信じる信仰は過ぎ去らないからです。

25:イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
26:生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 このイエス様の御言葉が語っているように、主イエスを信じる私たちは、
今この世にいない者もいる私たちも共に生きているのです。
 この世の目では、私たちは死と生によって分かたれているように見えます。
しかし、神の目には、私たち生きている者も死んだ者も共に生きているのです。
なぜならば神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だからです。

 私たちのあやふやでおぼろげな記憶の中に、この兄弟姉妹が生きているというのではありません。
私たちの変わりやすく、狭い心の中に生きているというのではないのです。
この兄弟姉妹と私たちは共に神の前に生きているのです。
この兄弟姉妹と私たちは同じ神を信じているからです。

 私たちはイエス・キリストによって同じ神を信じる者とされた者たちです。
この世に生きていいようが死んでいようが、
彼らも私たちも、神を待ち望む者には何の違いもないのです。
神の前に私たちは同じように立たされているのです。

 彼らは確かに私たちと共にいるのです。なぜならば神様は私たちと共にいてくださるからです。
 私たちは死者の霊を慰めるためにここにいるのではありません。
私たちは彼らと共に祈るためにここにいるのです。
神の御国が一刻も早く来るように共に祈るためにここにいるのです。
 私たちがこの世の命から解放され、
彼らがこの世の死から解放されるために私たちは神の国を待ち望み、祈るのです。
 私たちは来るべき未来への備えをしなければなりません。
この世の死をもって全てが無に帰してしまうこの世のためではなく、
来るべき神の御国のための備えをするために私たちは生きているのであり、
そのために私たちは死ぬのです。

 永遠の命は、死んでしまったら与えられないものではありません。
死んだものを復活させる力です。
 イエス・キリストによって切り開かれた未来に向かって私たちは共に歩み続けましょう。
この未来に向かってアブラハムもまた旅立ち、眠りについています。
そして彼もまた私たちと共に眠りの中にあって神の御国を待ち望んでいるのです。

 キリスト教会は2000年に亘ってこの歩みを続けてきました。
私たちもその旅する人々の一行に加わっているのです。
 イエス・キリストを信じることは旅立ちを意味します。
確かな約束された素晴らしい未来への旅立ちを意味します。その未来は確実にやってくるのです。
神の約束通りアブラハムの子孫が空の星のようになっているように、
イエス様が教えてくださった神の国は必ずやってくるのです。
そして私たちはそこにたどり着くことができるのです。
 イエス・キリストを信じる私たちは、神の御国にたどり着くのですが、
私たちはそのことを意識して生きているでしょうか。
あたかも神の御国に決してたどり着くまいと、
自分の王国をこの世に少しでも広げようとしていないでしょうか。
 神の御心が私たちに実現し、私たちが神の御心に従うことを求め、それを行っているでしょうか。
自分の望みに神を従わせようと無駄な努力を続けていないでしょうか。
神の栄光ではなく、自分の栄光が現れるように巧みな嘘を突き続けているのではないでしょうか。
私たちのこの世の生活が虚偽を偽りに満ちたものだという意識があるでしょうか。

 しかし、神は偽ることがありません。私たちは虚偽に満ちていますが、神は真実な方です。
イエス・キリストの復活において神様の真実さが明らかとなりました。
この真実さが明らかとなるために自ら十字架にかかられて死に復活されたのです。

 私たち一人一人もまた今は天に召されている兄弟姉妹も神の真実さの証人です。
私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、
それぞれがそれぞれの仕方においてより謙虚な者へと変えられてきました。
 私たちは偽る者ですが、神様の光によって私たちは真実な者へと変えられているのです。
その歩みはつたないかもしれませんし、人と比べるならば、劣っているかも知れません。
しかし、歩んでいる方向は同じなのです。
イエス・キリストによって私たちの全てはすでに変えられているのです。

 平安の内を私たちは歩むのです。
イエス・キリストを信じる信仰によって私たちは平安の内を歩んでいるのです。
復活されたイエス様が弟子たちに現れたとき「平安あれ」とおっしゃいました。
イエス・キリストを信じるということは、私たちが平安の源と共に生きいていることを意味しています。
私たちには平安が与えられているのです。私たちは救われているのです。

 私たちが平安の中にあるのと同じように、
世を去った兄弟姉妹もまたイエス・キリストの平安と救いの御業の中にあります。
病や様々なことで苦しんだ方もいらっしゃるでしょう。
死んでようやく平安になったと思うようなこともあるかも知れません。
しかし、イエス・キリストが与えてくださる平安と救いは、
その病や苦しみをも含んで包んでいてくださるのです。
 イエス・キリストを信じるならば、今日、今ここで私たちは救われます。
あなたが何かをしなければいけないのではないのです。
神様がしてくださったことを感謝するのです。
 ここに死者の霊を弔い、慰めなければ死者が浮かばれないというのではありません。
わたしたちが彼らのために何かをすることなどできはしません。
神様が全てをなしてくださるのです。
 世を去った兄弟姉妹と共に、神のなしてくださった御業のすばらしさを感謝するために、
私たちはここにいるのです。

私たちの生と死を越えて、永遠の命を与えられる全能の愛に満ちた神様の御名を褒め称えましょう。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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