
水戸中央教会 説教 2007年10月28日
「闇は光に勝たなかった」
ヨハネによる福音書1章1〜14節
1:初めに言があった。言は神と共にあった。言葉は神であった。
2:この言は、初めに神と共にあった。
3:万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
4:言に内に命があった。命は人間を照らす光であった。
5:光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
6:神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
7:彼は証しをするために来た。光について証しをするため、
また、ずべての人が彼によって信じるようになるためである。
8:彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
9:その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
10:言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
11:言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
12:しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
13:この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、
神によって生まれたのである。
14:言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。
それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
福音書の冒頭には、イエス・キリストがまずどのような方なのかということがまず語られます。
マタイ福音書では「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」となっていて、
イエス・キリストが約束されたメシア、救世主として定められた時に、
この世に来て下さったことが、あの長い系図を通して証明されています。
マルコ福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という一言で、
イエス様が神の子であるということが宣言されています。
ルカ福音書では、イエス・キリストの誕生の出来事を記録することによって、
イエス様が神から生まれた方であり、主なるメシアであることが天使の口を通して明らかにされています。
ヨハネ福音書も同様にこの「初めに言があった。言は神であった」という表現によって、
イエス・キリストがどのような方であるかをより根元的に理解しようとしています。
「初めに言があった」というヨハネのこの象徴的な言葉は、
「初めに神は天地を創造された」という聖書全体の冒頭の言葉と重なっています。
物には名前があります。
机や椅子、天井や空、月、星、太陽、海山川、動物や人間、これら全てにそれぞれの名が与えられています。
それは言葉です。
そしてまた、出来事や意志や考えも言葉によって表現されます。
人間は言葉によって、全てを理解し、共有しています。
この全ての言葉を包括する概念として、言葉という言葉が全てを包括する概念です。
全ては無だとか空であると仏教系の思想は言いますけれども、その空も無も言葉です。
そのような意味での言葉が、この「初めに言があった」ということです。
この初めの言は神とともにありました。
なぜならば、創世記を見ますと、神は「光あれ」と言を発して、光がこの世に造られているからです。
しかし、この世の最初に神と言がまず存在していたのではありません。
なぜならば、全ては神によってできたのであり、神はわたしたちの理解をはるかに超えた方ですから、
わたしたちは初めに言と神とがまずあったと言いますと、
あたかもわたしたちの知性が神と言を別々に認識していることになります。
すると、わたしたちの知性の方が神よりも優れていることになりますので、
「言は神であった」と直ちに言われなければならないのです。
イエス・キリストは、この初めにあった言であると言われています。
このことを通してイエス・キリストが神の子であること、
人となった神であり、わたしたちの主であることが言われています。
聖書の真理において、神は全てを創造された、創造者です。
その創造者である神が、創られたものである人間になるということは、あり得ないことです。
あまり完全な例ではありませんが、たとえば人間は命は造り出すことができませんけれども、
机や椅子を造ることができます。
だからといって机や椅子に人間がなるとすればそれはおかしな話です。
同様に、永遠で、命を超えた方が、死に行く神に造られた人間になるということはあり得ないことなのです。
日本の神道などでは、「人間は死ねば、みな神になる」と自慢げに言いますが、
聖書は非常に謙遜であり、謙虚であって、人間は生きてる時はもちろん、
死んでも決して神になれるような存在ではないことを知っています。
この世に生きているのはほんの一瞬であり、
この地球と比較してもほんのケシ粒にも比べられない存在であり、この宇宙という中であれば、
無に等しい人間がいつの日にか神になるということは決してないと聖書はわたしたちに教えています。
「人間死ねば、みな神になる」などというのは、正気の沙汰ではないたわごとです。誇大妄想に過ぎません。
イエス・キリストはわたしたち信じるものたちにとって、生ける神の子であり、主なる神です。
十字架にかけられて殺されましたが、主は復活して天に昇り永遠なる方として今も生きていらっしゃる方です。
この不可能なことが起こったという現実を、
ヨハネ福音書は、天地創造の初めに神が言葉によって全てを無から造り出したことを引き合いに出し、
言が肉となったということによって、イエス・キリストの出来事を神の出来事して明らかにしているのです。
神の言葉が、わたしたちの世界に実体を造り出すように、
その言葉そのものが肉体をとって、この世にいらしゃったのです。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
ここには大きな喜びと感謝が表現されています。
イエス・キリストこそがあの永遠なる神の御言葉そのものであると告白されています。
それは、とりもなおさず、この福音書を記した記者自身が、
自分の生きる目的と意味を明確に知らされたことを意味します。
イエス・キリストは生ける神の言葉です。
この移り変わりゆく、時間と空間に制限された世界で語られた神の言葉です。
神は、わたしたち人間に語って下さいました。
神は、ほろびゆくこの世でどのように生きていったらいいのか全く分からず、
孤独の中に閉じこもっているわたしたち人間に語りかけて下さいました。
ただ死んで滅びてゆくだけのわたしたちを永遠なる神の国へ引き入れようとしてくださったのです。
「人生は一体何のためにあるのか?」と悩む人は幸いです。
なぜならば、その人はこのイエス・キリストの言葉に聞き理解しようとすることができるからです。
そして、本当の人生の意味を知って、豊かな喜びと平安に満ちた人生を生きることができるからです。
ですから悩まない人は不幸です。
自分の望みと願いのためにあなた方は生きていますが、
その望みと願いが叶ったその先が結局のところ無に帰してしまい、
あなたには死という滅びしかないことに目をつむってしまうからです。
生きる悲しみと不幸に出会った人々は幸いです。
なぜならばこの悲しみと不幸の中で、人は初めて神に問うことを始めるからです。
人はこの世の幸福と快楽を求めている限り、神を求めようとはしません。
人は名声と富を求めます。それは虚栄であって、わたしたちの心の目をくらましてしまう闇なのです。
わたしたちはこの闇を光と思っています。人々からの賞賛や賛美を光だと思っています。
しかし、それは闇なのです。この世の富や名声を求めれば求めるほど、
わたしたちは他人の悲しみや苦しみに鈍感になってゆくからです。
人は不幸に遭遇しなければ神を求めません。困難と苦悩に遭遇しなければ神を求めません。
どうしようもならなくなって人はようやく神に目を向けます。
ですから、不幸や困難、そして苦悩は、神があなたと共にいて下さり、神があなたを見捨てずにいて下さる証しです。
「言葉は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」と、あるとおりです。
言は、この世の栄光ではなく、神の栄光を現すからです。わたしたちは神がたたえられることを望んでいません。
わたしたちは、わたしたち自身がたたえられることを望みますが、神などはどうでもいいと思っているからです。
12:しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
13:この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、
神によって生まれたのである。
イエス・キリストを信じる信仰によって、わたしたちは神によって、
神から神に向かって生きる人生へと踏み出すことができるのです。
この世の滅び行く命ではなく、肉欲を満たすために動物のように生きるのではなく、
滅び行く人々の賞賛と名声を勝ち取るために生きるのではなく、
永遠から永遠へと神によって生きることができるのです。
「そんな道あるのか。」「なぜそんなことが起こったのか。」
「信じただけで与えられる神の子の資格などあるわけがない。」
「そんなたわいもない、愚かなこと。」
と、わたしたちは考えます。
全くその通りで、あるわけがなく、起こる訳がない、たわいもない愚かなことです。
14:言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。
それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
そのあるわけがなく、起こるわけがない、たわいもない愚かなことが起こったのです。
そして、聖書はそのあるわけがなく、起こるわけがない、たわいもない愚かなことが起こったということの証言です。
そのあるわけがなく、起こる訳のない、たわいもない愚かなことこそが神の独り子の栄光であり、
恵みと真理に満ちていたのです。
そして、この栄光と恵みと真理を知ったとき、わたしたちはこれまでいかに愚かであり、
あるべきことをないと思いこみ、虚栄に振り回されて、人生を無駄にしてきたかを思い知るのです。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988