水戸中央教会 説教         2007年10月21日

「失われた者を探す神」

ルカによる福音書19章11〜27節

11:人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。
 エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。
12:イエスは言われた。
 「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国かへ旅立つことになった。
13:そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、
 『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。
14:しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、
 『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。
15:さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来さ
 どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。
16:最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。
17:主人は言った。
 『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配を授けよう。』
18:二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。
19:主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。
20:また、ほかの者が来て言った。
 『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。
21:あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』
22:主人は言った。
 『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、
  蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。
23:ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。
 そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』
24:そして、そばに立って人々に言った。
 『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』
25:僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、
26:主人は言った。
 『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、
  持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。
27:ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、
 ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」

 先週、たまたま県立図書館に行く機会がありました。
宗教の棚を見ていますと、「なぜ善人が苦しむのか」という表題の本が目に留まり、パラパラと覗いて見ました。
著者は仏教系の方のようでしたが、ヨブ記についてまず触れられていて、それから仏教での考え方が述べられていました。
 結論は宗教の説くところは、この善人がなぜ苦しむのか、
悪人がなぜ栄えるのかを超えたところにあるというようなことでした。
 本を書棚に戻しながら、「なぜ善人が苦しむのか」というこの本の題名となっている問いが、
そもそもおかしいのではないかと思いました。「善人は苦しむのだ、悪人は苦しみはしない」と、思ったからです。
悪人は苦しむことを嫌って、自分の思いのままに生きますが、
善人は自分の思いを離れて正しいことを行おうとするのですから、
必然的に善であるということは、この世において苦しみをもたらすはずではないでしょうか。
わたしたちの主イエス・キリストもこの世において快楽の道ではなく、十字架の苦悩の道を選び取られました。

11:人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。
 エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。

 イエス様と弟子たちの一行は、いよいよエルサレムへ向かっていました。
それはイスラエルの救い主であるメシアが、エルサレムへ行って、王として王座に就き、
このイスラエルをローマの支配から解放し、神の国の支配が始まることだと人々は思っていたからです。

12:イエスは言われた。
 「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国かへ旅立つことになった。
13:そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、
 『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。

 この立派な家柄の人とは神の御子であるイエス様ご自身のことが言われています。
遠い国へ旅立つとは、十字架の死によってこの世を去ることを意味しています。
十人の僕とはイエス・キリストの弟子を意味しています。一人ずつ一ムナのお金が手渡されます。
これは単純に換算しますと大体1万円弱、当時の貨幣価値と現在の貨幣価値とを考慮に入れると10万円くらいと言われます。
 この渡される1ムナというお金が何を意味するかは色々と当てはめることができると思います。
イエス様が十字架に架かって死に三日目に復活して天に昇られました。
これによって、わたしたちに与えられたものです。それは主イエス・キリストへの信仰であり、罪の赦しです。
わたしは罪の赦しがここには一番合うと思います。
『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』という商売の内容とは、
罪の赦しを与えられたわたしたちが、他人がわたしたちに犯す罪を赦すということです。

14:しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、
 『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。
19:14 しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。

 王になろうとする立派な家柄の人を憎んでいた国民とは、イエス様を憎んだイスラエルの人々であり、
イエス・キリストを信じないこの世の人々全てを意味します。
それは「十字架につけろ」というイエス様が裁かれたと時の群衆の叫びです。

15:さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来さ
 どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。

 十字架につけられて殺され、復活して天に昇られたイエス様は再び、
この地上に戻ってこられてこの世を支配すると約束されました。
 王の位を得て帰って来るとは、イエス様が再びこの地上に戻って来られて、この世を裁かれるその時です。
その時、わたしたちはイエス様から与えられた信仰によってどのように生きたかが問われます。
罪の赦しを与えられたわたしたちは、どれほど他人がわたしたちに為した罪を赦すことが出来たかということが問われるのです。

16:最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。
17:主人は言った。
 『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配を授けよう。』
18:二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。
19:主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。

 「あなたの一ムナで十ムナもうけました」とは、イエス様から与えられた罪の赦しによって、
自分に罪を犯す人を十人赦したというような意味です。
 五ムナ儲けたとは、五人の人を赦したという意味です。
一人の人を赦すことさえなかなか難しいことですが、
人をイエス・キリストの故に赦すということは素晴らしいことなのです。
 ですから、その報酬は一万円を十万円、あるいは十万円を百万円程度にしたのでは考えられない、
十の町の支配権という大きなものとなっています。
 わたしたちに罪を犯す者を赦すということは極小さなことのように思います。
そんなことよりも何人の人に伝道したとか、立派な礼拝堂を建てたとか、
クリスチャンとしてこんな素晴らしい会社を設立したとか。この世的な意味でこんな仕事をした、
あんな仕事をしたということの方が素晴らしいことのように思えます。
 たとえば、わたしたちの教会でも皆さんに配らせていただきました、
パワー・フォー・リビングの宣伝に協力されている方々のように、
信仰によって生き方を変えられて一流のミュージシャンになったとか、
有名なプロ野球の監督として働いているとか、
素晴らしい実業家であるとか言うことの方がわたしたちの目には素晴らしいことのように思えます。
 しかし、そのようなことは人には誇ることができても、神の前には何の誇りにもならないことです。
人を赦すということは、そんなこと以上に最も大切な大きな価値があることです。
 あなたが憎んでいる兄弟姉妹を赦したとしても、それは誰の目にも留まりません。
それは心の中の出来事であって、誰もあなたの心をかいま見ることはできません。
 何人赦したところで、新聞にもテレビにも報道されません。
 しかし、神様がご覧になるのは、この誰にも見えないわたしたちの心なのです。
外見上は、丁寧な言葉使いや礼儀を守るということによって、
あたかも憎んでいる人を赦しているかのように振る舞うことはできます。
けれども心の中には憎しみが満ちているということが起こりえるのです。
 さて三番目の僕が主人に報告しに来ます。

20:また、ほかの者が来て言った。
 『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。
21:あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』
22:主人は言った。
 『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、
  蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。
23:ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。
 そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』

 この三番目の僕は、主人から頂いたお金をそのまま放って起きました。
彼は誰一人として赦さなかったのです。主人のことを厳しい方と表現しています。
それは取りも直さず自分自身が他人に対して厳しい裁きの目を持って接していたことを意味します。

21:あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』

 彼は、神がどのような方であるかを知っていました。
「預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方」
とは、無から天地を創造され、天地を裁かれる唯一の神を表現しています。
 敬虔なクリスチャンとして教会に休むことなく集い、酒・タバコはやらず、
礼儀正しく、社会的にも立派な地位を築き、人も羨むような家庭を持ちながら、
神の叱責を受けるということがあり得るのです。
 その人が自らに罪を犯す者を赦すことが出来なければ、
神はその全てを取り上げて他の赦しを行った人に与えてしまうのです。

23:ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。
 そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』


 この意味は、
「なぜ赦すことが出来ないならば、赦すことが出来ませんと祈らなかったのか。
神に赦しを請い求めなかったのか。人の前でも赦すことが出来ない自分の情けなさを告白しなかったのか。
そうすればわたしは少なくとも利息として、罪の告白という悔い改めの実を得ることができたのに」
ということです。
 このような人を赦さない、神から頂いた罪の赦しによって、
人を赦さない僕をわたしたちの間に見いだすことは容易です。
「ああ、あの人もそうだ」と、わたしたちの心の中には何人かの顔が浮かぶのではないでしょうか。
しかし、本質は、他人の心を物差しで測るようなことではなくて、
自分自身の心の中を見ることができるか否かです。
 心の中に赦すことの出来ない人、わたしの怒りの原因になっている人の顔を思い浮かべることができるならば、
それは幸いなことです。
 その人の顔を思い浮かべて祈りましょう。
「どうか、神様、わたしは弱く、小さな僕です。わたしはあの誰々を赦すことが出来ません。
助けてください。あなたの愛と平安でわたしを満たしてください。そして赦すことが出来るようにして下さい。」

26:主人は言った。
 『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、
  持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。
27:ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、

 ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」

 「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。」
という言葉は非常に残酷で無情のように響きます。しかし、それは当然の帰結です。
なぜならば、イエス・キリストを信じるとは罪の赦しを受け入れることです。
イエス・キリストを信じなかったということは、自分の罪は赦される必要はないと宣言した人々です。
ですから、彼らは自らの判断によって死を選んでしまっているのです。
 主はわたしたちの罪を赦すために十字架にかけられて死なれたのです。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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