
水戸中央教会 説教 2007年10月14日
「神の国はあなたがたの間にある」
ルカによる福音書17章20〜37節
20:ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。
「神の国は、見える形では来ない。
21:『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
22:それから、イエスは弟子たちに言われた。
「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。
しかし、見ることはできないだろう。
23:『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。
また、その人人の後を追いかけてもいけない。
24:稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。
25:しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。
26:ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。
27:ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、
洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。
28:ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、
買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、
29:ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。
30:人の子が現れる日にも、同じことが起こる。
31:その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、
それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。
32:ロトの妻のことを思い出しなさい。
33:自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。
34:言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。
35:二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」+
37:そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。
「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」
「神の国はいつ来るのか。」と、ファリサイ派の人々はイエス様に問いました。
この問いは、イエス様が神から来た方であるならば、
神の国がいつ来るか知っているはずだという考えに基づいています。
イエス様の伝道の内容は、
「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
というものでした。
ですから、「神の国が近づいたというのなら一体それはいつ来るのか?
」という問いは必然的なものであり、
また「神の国がいつ来るのか答えられないならば、このイエスという男はインチキだ。」
とファリサイ派の人々は考えた訳です。
そして、イエス様の時代から今日に至るほぼ2000年の歴史は、
ファリサイ派の人々の考えの過ちを証明し、イエス様の言葉の正しさを証明し続けてきました。
今も、そしてこれからもこのことはそうであり続けるでしょう。
この2000年の間に、キリストを名乗る人々は無数に現れ、この世の中がいつ破局に達し、
神の国がやって来るということを人々に訴えて、惑わせた人々、
今も惑わしている人々は数限りなくあるからです。
20:ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。
「神の国は、見える形では来ない。
21:『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
22:それから、イエスは弟子たちに言われた。
「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。
しかし、見ることはできないだろう。
23:『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。
また、その人人の後を追いかけてもいけない。
エホバの証人や統一協会などは、この
「出ていってはならない。追いかけてはならない」
とイエス様が命じられた人々の一例です。
5年後、10年後、20年後に世界は終わるなどと言い続け、
その終わりの時が過ぎてしまうと、神の恵みだとか、信者の祈りの不足だとか、
適当な理由をつけて、しばらくするとまた終わりの時はいつだとか言い出して、
何も知らない人々をだまし続けて今日に至っています。
そして、また騙され続ける人々がいるのは驚くばかりです。
これは、騙される人が悪いというのではなくて、わたしたちの誰もが不信仰であるからです。
わたしたちは、みな誰もが、「神の国は近づいた」というイエス様の言葉を聞くと、
「近づいたとは、どこにあるのか、いつ来るのか?」と、問うからです。
この「神の国は近づいた」という言葉において問われているのは、わたしたち自身であって、
わたしたちが神の国を問うのではありません。
「悔い改めて、福音を信じなさい」と、命令されているのは、わたしたちであって、
神の国が「悔い改めて、福音を信じなさい」と命じられているのではないからです。
24:稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。
25:しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。
「神の国は、いついつに来る」とか、「ここに地上の天国を造る」などと言って人々を騙し、
惑わし続けている新興宗教の恥知らずな教祖たちは苦しみを身に引き受け、
時代の人々から排斥されるのではなく、この世の富と虚栄を集めています。
これらの人々に対してイエス様は十字架につけられて殺される道を歩まれました。
悪いことや犯罪を犯したからではありません。病を癒し、死人を蘇らせるほどの奇跡を起こし、
人々を助け、救いの言葉によって人々を真理へと教え導きながら、苦難の道を自ら選択されました。
そして、イエス様が十字架で死なれ、復活されて天に昇って後、
イエス様は再びこの世にいらっしゃいます。
そのときは、一瞬のうちに世界中の人々が、
その再臨を見ることができるような形で現れると言われています。
ですから、韓国でメシアが生まれたとか、
アメリカのどこかの町にメシアが現れたというようなことはないと、イエス様はおっしゃいました。
また、この日本のどこかにメシアがいるということも決してないのです。
この真実を超える真実は今日に至るまで現れていません。
今もイエス様の言葉の真実は真実であり続けています。
エホバの証人はこれが何百年生き延びたとしても、決して正しい宗教とはなり得ませんし、
それらの教祖たちががメシアとして認められることは決してありません。
オウム真理教の麻原こと松本千津男死刑囚がメシアでないことは誰の目にも明らかなことです。
しかし、メシアなどいない。神などいない。わたしたちは好きなように生きればいいということにはなりません。
26:ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。
27:ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、
現れるメシアはニセモノばかりだから、
わたしたちは安心してこの世の生活を続ければいいというのではありません。
終わりの時は必ず来ます。神に逆らう人間全てが滅ぼされるときが必ず来ると、
イエス様は教えてくださいました。
これは、とりもなおさず、悔い改めて、神を信じて生きることは、
決して無益なことではないということが言われているのです。
長さ150メートル、幅と高さが15メートルという巨大な箱船を、
神の命令によってノアは建造しました。
邪悪と不法が満ちあふれた世の中で、彼と彼の家族は営々と神の御言葉に従って箱船を作り続けました。
わたしたちもまた何のもうけにも得にもならないことであっても、
神の御心に適うことであると信じて行い続けています。
あるいは、この世の目から見るならば損になるようなことであっても、
神に御心に適うならばと行っています。
その一つ一つが箱船の板を切りだして箱船を造ることに繋がっているではないでしょうか。
イエス・キリストを信じる信仰の故に、わたしたちは今日、この教会に集まって祈っています。
この日々の積み重ねがわたしたちにとっての箱船建設です。
28:ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、
買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、
29:ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。
「人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていた」とは、
唯一真の神を崇めようとはしなかったことを意味しています。
つまり彼らにとって神は、彼らが食べたり飲んだり、買ったり売ったり、
植えたり建てたりしたい欲望を叶えるような神を自ら造り出して拝んでいたことを指しています。
周りで誰も唯一真の神を信じず、イエス・キリストの救いを信じていないからといって、
わたしたちは信仰を捨ててしまってはなりません。
わたしたちの信仰には、わたしたちの人生の意味がかかっているのです。
イエス・キリストの救いに与ろうとしないこの世を神は滅ぼし尽くされます。
30:人の子が現れる日にも、同じことが起こる。
31:その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、
それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。
32:ロトの妻のことを思い出しなさい。
33:自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。
神の国で生きるために、財産は必要ありません。家に戻って身支度を整える必要はありません。
神を見上げてひたすら感謝と賛美を捧げるだけで十分であり、それらこそがなすべき唯一のことです。
神の御言葉に従えばよいのであり、それだけがなすべきことです。
ロトの妻は「振り向いてはならない」という神の言葉に従わず、後ろを振り返り、
塩の柱となったと聖書は記録しています。
自分の欲得を離れて、神の御心を求めることが大切です。
神の御心と自分の欲得は相反するものです。
34:言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。
35:二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」+
17:34 言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行か
れ、他の一人は残される。
神は正確にわたしたちの心の中にある信仰をご覧になり、
一人ずつ漏れることなく、御心に適った人々を救いに与らせて下さいます。
37:そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。
「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」
どこでそれが起こるのかはわたしたちが知る必要のない事柄です。
ことが起これば、分かることであって、事前にそれを知る必要はありません。
そして、肝心なことは、わたしたちにこの裁きがいつの日にか必ず臨むということです。
わたしたちが生きているか、死んだ後かは分かりません。
そして、「いついつに終末がやって来るとかどこに神の国が現れる」と、まことしやかに、
その日その時を知っているという者が人を欺く、詐欺師です。
しかし、イエス・キリストを信じる信仰は、わたしたちが死のうが生きてその再臨の時を迎えようが、
決して無にならないということであり、主の御心を求めて生きることが大切なのです。
わたしたちが生きていようが死んでいようが、わたしたちは救いに与ることができるのです。
「いつ終末がやって来るのか」、「神の国はどこに現れるのか」ということよりも重要なことは、
終末が来たとき、救いに与れるのかということであり、
神の国に入ることを許されるのかどうかということです。
イエス・キリストがベツレヘムで生まれることを、律法学者たちは聖書によって知っていました。
ヘロデもまた東の国から来た学者や律法学者によって知りました。
しかし、彼と律法学者は東の国から来た学者たちとは違って、
世の救い主を拝みに行くことをせず、逆にこれを殺してしまおうとしました。
知っていると言うことだけでは何の意味もないことが分かるのではないでしょうか。
「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」
わたしたちの救いは、イエス・キリストの十字架によって、
イエス・キリストの死によって確かに起こったのです。
わたしのなすあのことこのことが救いに繋がるのではありません。
わたしがなすのは悪ばかりです。
ただ主が、あの時ゴルゴタの丘でなして下さったあの出来事だけが、
わたしの命を決定する一大事なのです。
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, Tokyo 1987,1988