
土浦教会 説教 2007年10月7日
「神の御前に立つ」
ルカによる福音書17章1−10節
1:イエスは弟子たちに言われた。
「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
2:そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、
首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
3:あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。
そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
4:一日に七回あなたに対して罪を犯しても、
七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
5:使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
6:主は言われた。
「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、
この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
7:あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、
その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
8:むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。
お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
9:命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
10:あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、
『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
先日、学生時代の友人の一人と話をする機会がありました。
お互いの職場の話になり、利益関係にない友人ですと、気兼ねなく話ができるということもあって、
「牧師同士でもなかなか葛藤がある。教会の中でもそうだ。」というようなことを言いました。
そうすると学校の教師をしている彼は、別にわたしが詳しく説明するまでもなく、
「ああ、いるいる権力志向の人だろう。なんでもやりたがって困るんだ。」と、
わたしの直面している問題をズバリと言い当てました。
「敵を愛しなさい」ということを教える牧師という立場にわたしはありますが、
実際、敵対してしまうような事態に陥りますと、
この「敵を愛しなさい」という言葉がいかに難しいことかと思います。
ドイツに学んでいましたときに、同じ神学部の友人が教えてくれた冗談があります。
「道路標識と牧師の共通点はナーンだ?」
その答えは、「牧師も道路標識も共に道を示すが、一緒に行かない。」というものです。
こんなことを言いますと不謹慎だと思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、
わたしはその友人の普段の生活態度や行動を思い起こしますと、
道を示すだけで一緒に行かない牧師ではなく、
人々と共にたとえ困難な中にあっても和やかに牧会をされているだろうと思います。
1:イエスは弟子たちに言われた。
「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
2:そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、
首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
3:あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。
そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
この「つまずき」という言葉は、あまり聞き慣れない言葉で、わたしも理解に苦しむ言葉の一つです。
説教の中でギリシャ語を持ち出すのはあまり好きではないのですが、
わたしもよく分かっていないという事を、皆さんに知っておいて頂くということで、少々説明させて頂きます。
「つまずき」という言葉には「スカンダロン」という言葉が用いられています。
英語のスキャンダルの語源だろうなぁと思います。
意味としては「罠」、「罪(不信仰、背教、堕落)への誘惑」、
「不快(憤り、反対)を引き起こすもの」ということが挙げられています。
文脈からしますと「罪を犯すこと」というようなことでしょうか。
「罪を犯すことはさけられない。だが人に罪を犯させる者は不幸だ」、
あるいは「罪への誘惑はさけられない。だが人を罪へ誘惑する者は不幸だ」
というような意味に最初の部分はなると考えられます。
正直に申しますと、なかなか今のわたしにとっては難しい言葉です。
あまり自分の心の中を見回して見ても思い当たらないからです。
「人を罪へと誘惑したようなことは、自分には、ないはずだ。」と、思ってしまいます。
しかし、このような状況が一番、危険なのです。
イエス様ご自身も、ここで「あなた方も気をつけなさい。」とおっしゃって注意を喚起しています。
詩編19編13節には
「知らずに犯した過ち、隠れた罪から、どうかわたしを清めてください」
という祈りがあります。
この「知らずに犯した過ち、隠れた罪」というのが、今のわたしにとっては、
人を罪に誘惑すること、人をつまずかせることなのでしょう。
3:あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。
そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
4:一日に七回あなたに対して罪を犯しても、
七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
ここにもなかなか難しいことが言われています。
普段、やっているようでやっていないことではないでしょうか。
赦すということが難しいのは当たり前ですが、
「兄弟が罪を犯したら、戒めなさい」という事はなかなか難しいことです。
自分より目下の人ならば、戒めるということは比較的容易ですが、
同等とか目上になりますと、戒めると言うことはなかなか困難です。
この頃は下手に戒めたりしますと、殺されてしまうようなこともあります。
それで、丁寧な言葉で注意を喚起しても、
「ウルセッヨ!」なんて返事が返ってくると逆切れしてしまいます。
先日も水戸駅の切符の自動販売機で、30才後半から40才くらいの、
ちょっとコワモテの感じの男性が、駅員の態度が悪いと構内に響き渡る声で怒鳴り散らしていました。
ちらりと通りすがりに聞いただけですけれど、彼が故障だと思って、呼び出しボタンを押したのですが、
駅員は「それは壊れていませんよ」という事を言った、その言い方が気に入らなかったということでした。
今の切符の自動販売機はなかなか複雑なのがあり、
タッチパネルを押してもよく注意していないと分からないことがあります。
わたしも、操作にとまどった経験を思い起こして、
「ああ、あれだな。」と思いながら知らん顔をして通り過ぎました。
「駅員さんも御苦労さん。」と思う反面、怒り狂っているその男性の気持もとてもよく分かる気がしました。
よっぽど、その男性と一緒になって
「そうだそうだ、壊れていないとか壊れているということじゃなくって、
この自動販売機の操作が複雑過ぎるということが問題なんだ。」
と言ってやろうかと思いましたが、言わずに過ぎました。
わたしたちは正義や自由、平和、平等というような大きなことは賛同し、
それを得るために戦ったりしますけれど、切符の自動販売機のような些細なことでも一旦怒ると、
相手が謝っても赦しを求めても赦すことができません。
一つには、わたしたちは我慢をしすぎているのではないでしょうか。
それはわたしたちが卑怯で臆病なので、
言うべきところで、言わずに自分の思いを飲み込んでしまうからではないでしょうか。
兄弟が自分に対して罪を犯しても、戒めずに、我慢してしまうのです。
そして、そのことが美徳だと勝手に自分で思いこんで、
「わたしがこんなに我慢してきたのに」という思いをためにためてしまうのではないでしょうか。
ですから、今日、イエス様が教えてくださっている教えを、
わたしたちはあたかも自分が行っているかのように思っていますが、
実は全く行っていないという事が起こるのです。
わたしはとある方と非常に険悪な仲になっているのですが、その経緯を振り返りますと、
その方が、わたしの目には不当と見えることを行ったときに、わたしはそのことを指摘しなかったのです。
「目上の人だし、そんなことを言うと、出しゃばっているように思われるし、
言わないで我慢しておく方が正しいことだ。」とあまりうまく表現できませんが、そんな風に考えたのです。
ちょっとした一言の勇気、疑問を正直に言う勇気、そしてそれを適切に表現する言葉、
つまり自分自身に対する思いやりと、自分があたかも立派な人であるかのような思いこみが、
ことを難しくしてしまったと思います。
5:使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
6:主は言われた。
「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、
この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
からし種一粒ほどの信仰があれば、このわたしたちには、
赦すことが不可能のような人やことも赦せるということがここに言われています。
わたしたちが一度、関係を損なって対立してしまった相手と和解をすることは、
桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』ということが現実になっても、
できないようなそんな不可能なことなのです。
人を赦せないということは、それはわたしが神の僕ではなく、わたしが神となり、
わたしがわたしの人生の主人となっている証明です。
そして、それはいかにわたしが不信仰であるかを明確にしています。
そして、この信仰がないということこそ、わたしたちの信仰にとって大切なことではないでしょうか。
人を赦すことは、非常に困難なことです。
それはある意味、そして本当の意味でわたしたちは死ななければならないのです。
わたしの思いが死んでしまわない限り、人を赦すことはできません。
ここに主イエス・キリストの十字架の死による贖いと、洗礼の意味があります。
洗礼において、わたしたちは一度、主にあって死んだのです。
そして新しい命をわたしたちは主から頂いたのです。それは信仰の真実の出来事です。
そして、わたしたちは神の僕とされました。主イエス・キリストを見上げ、主に従うとき、
わたしたちは必ずや赦すことができるようになります。
わたしも、なかなか赦せない思いがありますけれど、
この赦しへと一歩を踏み出そうという思いがわたしの中に現れてきます。
なぜならば、この赦しの向こうには、大きなご褒美があることをわたしは理解するからです。
神の子として永遠の命に与るということの意味と事実をわたしはぼんやりとながら、
心の中に体験し、その平安に与ることができるからです。
7:あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、
その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
8:むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。
お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
9:命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
10:あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、
『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』
という僕の言葉は、本質的に放蕩息子が父に告白した言葉と同じです。
「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう蒸すこと呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい。」
わたしたちは沢山の負いきれないストレスを抱えています。
そして、些細なちょっとしたことで怒り、怒りがわたしたちを支配してしまいます。
沢山の鎧を着て、自分を立派に見せようと四苦八苦しているからです。
わたしたちは疲れているのです。頑張ることを止めて主に祈りましょう。
「重荷を負って苦労している者は、わたしのもとに来なさい。わたしはあなた方を休ませてあげよう」
と、おっしゃったイエス様のもとに参りましょう。主が与えて下さった命です。
主が創造して下さったわたしたち一人一人です。
自分の薄っぺらなプライドに囚われずに、
もっとわたしたちは自分自身に自信を持つべきではないでしょうか。
自らの愚かさをさらけ出せる自分でありたいと願います。
しかし、そうは言っても赦すということは難しいことです。
それはわたしがまだ「取るに足りない僕」ではなく、
「立派で有能な僕」だと思い込んでいるからでしょう。
どうかこの高慢から神様がわたしを救い出して下さいますように。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988