
水戸中央教会 説教 2007年9月9日
「イエス・キリストの弟子」
ルカによる福音書14章25〜35節
25:大勢の群集が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
26:「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、
父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、
これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
27:自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、
だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
28:あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、
造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
29:そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、
30:『あの人は立て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。
31:また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、
二万の兵を率いて進軍して来る敵を、
自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。
32:もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。
33:だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、
あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
34:「確かに塩は良いものだ。
だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。
35:畑にも肥料にも、役立たず、外に捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」
本日の聖書の箇所の冒頭で
25:大勢の群集が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
と、あります。
「振り向いて言われた」ということが非常に印象的に記録されています。
イエス様は、すでに多くの病人や死人さえも奇跡によって癒し、
よみがえらせていましたから、大勢の群衆が集まり付き従ったのは想像に難くありません。
彼らは自分の望みを満足させ、
自分の利益を求めるためにイエス様のところにやって来ました。
彼らの中には好奇心からイエス様のもとへ来ている人々も沢山いたでしょう。
イエス様は、何も語ることなく、ただ自分は為すべきことを為せばよいというように、
群衆が付き従うままにしておかれたのではなく、振り向いて群衆に語りかけられました。
漫然とイエス様に従っていても意味がないことを教えてくださったのではないでしょうか。
26:「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、
父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、
これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
家族は、わたしたち人間にとって最も大切なものです。
「わたしは家族の幸せのために生きている。それが人生の目的だ。」
という人は沢山います。
また特に部族や家というものが今の日本社会とは、
較べものにならないほど大きな役割を果たしていた時代においては、
それは絶対的なものであったと考えられます。
イエス・キリストの弟子となることは、神の子となることを意味します。
そして、ここにはこの家族や自分の命よりも、
さらに大切なものがあることが暗示されています。それは永遠の命です。
わたしたちの心の中には、
「自分の家族や自分の命よりも大切なものとして福音を考えているだろうか?」、
「自分は果たしてイエス・キリストの弟子だろうか?」
という疑問があるかも知れません。
わたしたちは実際のところ、どこかの修道院に入ってしまって、社会との交渉を断ち、
祈りに専念するような生活をしている訳ではありません。
家族を大切にし、自分の命を大切にしています。
しかし、だからわたしたちはイエス様の弟子ではないということではありません。
昨日のニュースで日本ハムのヒルマン監督が、家族のために本国に帰国するため、
監督を今期限りで辞任するというニュースがありました。
このヒルマン監督はクリスチャンとしても有名な方で、立派な証をされています。
福音宣伝キャンペーンとして行われたパワー・フォー・リビングのチラシには、
彼の写真と言葉が採用されているほどです。
彼はクリスチャンだからこそ、家族の必要に答えて、
仕事をなげうって帰国しようとしているのではないでしょうか。
わたしたちの身の回りを見ますと、家族は大切だと言いますが、
自分の仕事や名誉のために家族が犠牲になっている現実が至る所にあります。
そして、そのことがあたかも素晴らしいことであるかのように賞賛される傾向があります。
イエス様の言葉は一見、厳しい戒律のように見え、
そしてそれは非人間的なことを要求しているように思えますが、そうではありません。
わたしたちに人間を愛する愛を与え、家族を大切にし、自分自身を大切にする心を育てる言葉です。
イエス・キリストから呼ばれる時を、今か今かと待ち受ける思いが、
今共にある家族を大切にし、今を生きている自分自身を大切にするようにさせるのです。
家族よりも、自分の命よりも、イエス・キリストのことを大切にして従ってゆくということは、
日本の封建時代のように、主君への忠誠のために家族を殺し、
切腹までも辞さないという日本の武士道とは違います。外見は似ていますが、全く異質のものです。
「日本には武士道を基本とするような道徳があるのだから、福音に聞く必要はない。」
ということはできません。
道を歩いていれば、どの道を歩いても目的地に着くという訳ではありません。
たとえどんなに一生懸命歩いたとしても、目的地へ行き着かない道をひたすら進んだのでは、
一生懸命歩くことは無意味です。
武士道の主君は人であり、この主君は、どのように立派な名君であったとしても、
人を裁いて殺すことはできますが、人を造り出し、命を与えることはできません。
殺さないようにすることはできますが、死んでゆく人に永遠の命を与えることはできません。
人間の主君は、自分自身の命さえどうすることもできません。死の前には無力です。
しかし、主イエス・キリストは復活し天に昇り、神の右に座しておられる方です。
この方のもとに永遠の命があります。そして、わたしたちはその喜びに与ることができるのです。
27:自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、
だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
この主イエス・キリストに従ってゆく人生にも重荷があります。
イエス・キリストに従うが故の困難があります。
それは、わたしたちの人生の課題であり、その困難と課題を避けようとしてはならないのです。
自分の身を守ろうとして、自分自身を失ってしまう危険があるのです。
その危険に陥らないように、イエス様はここで注意を与えて下さっています。
28:あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、
造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
29:そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、
30:『あの人は立て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。
塔とは、わたしたちの人生です。塔は空に向かってそそり立っているものです。
それは神へのあこがれを表しています。そして、この世に生きた意味を象徴します。
どんなにお金持ちになったとしても、どんなに高い地位についたとしても、
どんなに偉大な王となって世界に君臨したとしても、死んでしまえばお終いです。
「土台を築いただけで完成することはできなかった。」
という物笑いの対象なのです。
イエス・キリストに従い、自分の十字架を負って歩むことは、人生の完成を意味します。
この世の目には何も成し遂げていないように見えても、
イエス・キリストを信じて、全てを捨てて歩み抜くことは、
神の国に届く永遠の塔を完成したことです。
そこには大きな信じられないほど豊かな恵みがわたしたちを待ち受けています。
31:また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、
二万の兵を率いて進軍して来る敵を、
自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。
32:もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。
わたしたちはこの世にあって死と戦っています。
何とか死を免れようとわたしたちは様々な手だてを講じます。
しかし、これに打ち勝つことは決してできません。
イエス・キリストを信じることは、この死を免れ、永遠の命に到る勝利を意味します。
この世の人生はイエス・キリストを信じるために与えられた猶予期間です。
死んでしまっては、もはやイエス・キリストを信じることはできません。
生きている内にイエス・キリストを信じ、
これに従うことが、わたしたちの人生に意味を与え、喜びを与え、平安を与えます。
33:だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、
あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
わたしたちは神に属するものです。
わたしたちが所有するのではなくて、わたしたちは神に所有されているのです。
わたしたちには自分の持ち物はありません。それは全て神から管理を委託されているものです。
そのような観点から、わたしたちはもう一度自分の家族を自分の命を見直す必要があるのです。
わたしたちはこの神からの委託に十分に答えているでしょうか。
34:「確かに塩は良いものだ。
だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。
35:畑にも肥料にも、役立たず、外に捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」
わたしたちが神の僕として、神からの委託に誠実でないならば、
それは不忠実な僕として神の家から放り出されるでありましょう。
わたしたちはこの世において主人ではありません。
もし、奴隷が主人を差し置いて、主人のように振る舞い、
主人を奴隷のようにこき使おうとすれば、主人はその奴隷を追い出すでしょう。
来るべき世において神と共に支配する神の子です。
だからこそ、わたしたちはこの世において奉仕をすることができるのです。
なぜならばわたしたちの主イエス・キリストは紛れもなく神の子でありましたが、
この世の支配者とはならなかったからです。
わたしたちもこのイエス・キリストによってイエス様と同じ神の子とされています。
ですから、わたしたちもこの世において十字架の道を歩むのです。
十字架の道を歩めば神の子になれるというのではありません。
わたしたちはすでに神の子であり、イエス・キリストの弟子であるからこそ、
十字架の道を選びとり、間違いなく道を目的地に向かって進むことができるのです。
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, Tokyo 1987,1988