土浦教会 説教       2007年8月5日

「神に仕える」

ルカによる福音書10章25〜42節

 25:すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。
 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
26:イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
27:彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、
 あなたの神である主を愛しなさい』とあります。」
28:イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
29:しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
30::イエスはお答えになった。
 「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。
 追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
31:ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
32:同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
33:ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
34:近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
35:そして、宿屋の主人に渡して言った。
 『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
36:さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
37:律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」
 そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 38:一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。
  すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
39:彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
40:マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、
 そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、
 何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
41:主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
42:しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 本日わたしたちに与えられている聖書の御言葉は、いわゆる「善いサマリア人」のたとえです。
種まきのたとえと並んで、わたしたちクリスチャンにとって、
最も善く知られているイエス様のたとえ話であり、同時に非常に大きな影響を与えてきました。
そして今も、与え続けています。
 アフガニスタンで今捕らえられている韓国のセムムル教会の兄弟姉妹も、
このイエス様の言葉に従おうとしている人々です。
マザー・テレサの活動も同様ですし、日本国内でもホームレスの人々への支援活動など、
いわゆるクリスチャンの病院や、その他社会福祉活動の全てが、
この善いサマリア人のたとえに依っていると言っても過言ではありません。

25:すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。
 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」


 わたし自身も、何度か、この箇所についての説教を致しました。
そして、心に留まったのは、この律法の専門家の言葉です。
「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるか」
と、偽善的な理由とはいえ、この律法の専門家は問いかけています。
 わたしは自分自身のここ最近の生活を振り返って見ました。
そして、ここ最近ばかりでなく、昔から、自分はあまり永遠の命を受け継ぐことを考えたことがなかった、
ということを改めて思いました。
 もちろん、永遠の命を受け継ぐということの大切さを、日常的に説教してきた訳ですが、
日々の生活の中で起こってくる必要や、出来事の中で永遠の命に対する思いが、
それを見失わせてしまっているような気がしました。

 わたしは牧師として、保護された立場にありますから、
比較的容易に、この善いサマリア人のたとえで勧められていることをする機会があります。
 たまにですけれどもホームレスの人が牧師館に訪ねて来ることがあります。
教会のある方が準備してくださったカップラーメンを渡して、大抵は勘弁してもらっています。
自分では、何かいっぱしのことをしているように思っていましたが、
このサマリア人のたとえを見ると自分とはずいぶん違うのだということに、改めて気が付きました。

 このサマリア人は、倒れている人のために相当の出費をしていますが、
自分は、別に出費などしていません。
もっぱら「金銀はわたしにはない」というペトロの路線なのですが、
でもペトロが言ったように
「金銀はわたしにはない、イエス・キリストの御名によって歩きなさい。」
と言うことは到底できません。
 先週は、3回ほど忘れた頃にやって来てラーメンを持って行った方が、
仕事を紹介して欲しいということで教会にいらっしゃいました。
知り合いに電話をする程度で、サマリア人のたとえから考えるならば、
その知り合いのところまで車で連れて行くのがいいのだろうと思ったのですが、
それは致しませんでした。
「時間もあるし、たぶん、それくらいのことはできるだろう」と思ったのですが、
そうする必要もないような気がして、致しませんでした。

 この律法の専門家が、
「どうしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
と言ったのは、おそらく、イエス様が福音宣教の中で、
永遠の命についてお話になっていたこともあるでしょう。
彼自身は、永遠の命について、関心もなかったと考えられます。

29:しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。

 彼は、「隣人とはどのような条件を満たす人なのか。」と、イエス様に尋ねた訳です。
これに対して、イエス様は、
「誰があなたの隣人かと言うことではなくて、あなたが隣人となるかどうかが問題なのだ。」
と、答えられています。

 今回、日本基督教団の指定箇所は、次のマルタとマリアのところも含んでいます。
普通は、この箇所は「善いサマリア人のたとえ」と「マルタとマリア」で、別々に説教が行われますが、
今回はこれが一緒にされています。
 その意図は、「善いサマリア人のたとえ」だけですと、いわゆる行動主義に陥ってしまって、
単なる「慈善活動をしていれば、それでいいのだ」と思い込んでしまうことを避けるためです。
つまり、
「クリスチャンというのは、何かいつも困っている人を助けるのがクリスチャン」と思ったり、
あるいは何か人助けをすることによって、
「自分はこんなによいことをして、神様のおっしゃるとおりにしています。」
と、自分を正当化する過ちに陥り易いからです。
そして、自分を正当化すると直ちに人間は、まさに隣人を裁きにかかるからです。

30::イエスはお答えになった。
 「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。
 追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。


 この追いはぎというのは、本当に天才的なたとえであると思います。
わたしたちが自分を正当化して、他人を批判するのは、まさにこの追いはぎと同じ行為ではないでしょうか。 

 70年代の学生運動が吹き荒れた時代、学生たちは正義を主張して、
体制派と彼らが見なす人々の服をはぎ取り、殴りつけ、
半殺しにしたまま立ち去るようなことを行ったと言うこともできましょう。
 あるいは、学生たちが、服をはぎ取られ、殴られ、半殺しにされたということもあった訳です。
わたしたちは追いはぎ同士の醜い争いを繰り広げているような有り様ではないでしょうか。

31:ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
32:同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。


 永遠の命を受け継ぐ者は、神殿で神に仕える祭司やレビ人でもないと言うことが言われています。
神に仕えるという立場が、必ずしも永遠の命に一番近いように思いがちですが、
そうではないということをイエス様は明らかにされました。

33:ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
34:近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。


 サマリア人は、「あわれに思う」心があります。
この「あわれに思う心」をわたしたちは大切にしているでしょうか。
 わたしたちが成長していく過程で、このあわれに思う心は、
非常にないがしろにされていく傾向があります。

 人間は、あのエデンの園で、善悪を知る木の実を食べて罪を犯します。
 善悪を知ると言うことは、一見いいことのように思えるのですが、
善悪をわきまえるようになると、人間には、このあわれに思う心がかすんでしまうのです。
 聖書の教えはですから、この善悪の判断を人間するという大きな過ちを明確にしています。
善悪の判断は神のみがすることであり、人は決して裁く立場にはないとするのが聖書の教えです。
 あわれに思う心、それは愛に他なりません。

 この善いサマリア人は、イエス様ご自身のようでもあります。
神は、わたしたちが倒れているとき、わたしたちを憐れんで、助け起こして下さいました。
傷ついているわたしたちを宿まで運び、滞在と治療の費用まで負担して下さいました。
 しかし、わたしたちの心は頑なで、このようにまでして助けてくれたサマリア人を、
まさにサマリア人であるからという理由で、これを殺してしまったのではないでしょうか。
 イエス様は、まさに神の子であったのに、
ご自身を神の子としたということが神への冒涜とされて十字架につけられ、殺されました。

 わたしたちが何のために善い業を行い、人を助けようとするのかが、
問われているのではないでしょうか。
 先のアフガニスタンで捕らえられ、殺されようとしている、
韓国のセムルル教会の兄弟姉妹も同じだとわたしは思うのですが、
わたしたちは人々から感謝をされるために人助けをし、善い業を行うのではありません。
 イエス・キリストがわたしたちにそのようにして下さったからするのです。
そして、神への感謝として善い業を行い、少しでも人助けになるようなことを致しますと、
案外、その助けた当の本人から、わたしたちがあしざまに言われ、批判されることが起こるものです。
「そんなの馬鹿馬鹿しい」と、わたしたちは思ってしまいますが、
この相手から非難され批判されるときこそが、大切なのではないでしょうか。
 その時、わたしたちは大きな神への成長を体験することが出来るからです。
わたしたちが助けたにもかかわらず、その人がわたしたちに向き直って時、
それは、わたしたちが「こんなことならば、助けるのではなかった」と思い、
後悔するときではなくて、それは喜びの時ではないでしょうか。
 わたしたちはその時、まさにホンのわずかばかりではありますが、
イエス様の十字架を負うことを赦されたからからです。
それはわたしたちの霊的な成長が実を結びつつある時だからです。

 ですから、わたしたちは倦まずたゆまず、
主がわたしたちにして下さった愛の業を為してゆくことができるのです。
 世にあっては決して報いられない業に携わることを喜ぶことができるのです。
なぜならばその時、わたしたちは復活に与ることが出来るという確かさを与えられるからです。
 人の批判に心を奪われてはなりません。
そうではなくてマリアのようにイエス・キリストに熱心に聞き続けるということが大切なのです。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教