水戸中央教会 説教                     2007年7月22日

「福音伝道の奉仕」

ルカによる福音書8章1〜3節

1:すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音をつげ知らせながら、
 町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。
2:悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、
 すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、
3:ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。
 彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

 イエス様に悪霊を追い出して、病を癒していただいた何人かの婦人たちやそのほか多くの婦人たちが、
イエスと弟子たちに従っていたと、本日の聖書の箇所は報告しています。
 彼女たちは、自分たちの持ち物を出し合って、イエスとその弟子たちに奉仕をしており、
その理由は、病を癒して下さったイエス様に対する感謝にありました。

 先週の月曜日、大宮教会を会場に関東教区宣教綜合協議会が開かれました。
その場で埼玉県にある上尾合同教会・中国語礼拝部の李先生が証をしてくださいました。
 台湾で余命3ヶ月といわれた癌がイエス様に助けを求めて、
日本の病院で手術を受けて癒されたということでした。
 台湾と日本の医療技術の程度の差だけが、
彼女の結果に左右したばかりではないように思われました。
 彼女は、信仰によって一命を取り留め、伝道者として一心に奉仕をされています。
その熱意と感動が、会場にいた人々に豊かに伝わりました。

 わたしたちの日本基督教団系の教会ではあまり、
信仰による病の癒しということは語られませんが、そんなに珍しい話ではありません。
信仰によって癒されたという経験を持つ牧師の話を東北にいたときにもうかがったことがあります。
 そればかりでなく、イエス・キリストへの信仰によってわたしたちは、
病のただ中でも感謝を捧げることが出来ます。
むしろ、このことの方により重点が置かれています。
なぜならば、「信仰を持てば、病が癒される」という考えは、
「病気になるのは、信仰がないからだ。」と、
病の中にある隣人や信仰による兄弟姉妹を裁くことになり、
わたしたちの信仰において、これはあってはならないことだからです。

 このイエスに病を癒されて従った女性たちについての報告で、
まず言われなければならないことは、彼女たちがここに報告されているとおり、
病をイエス様によって癒されて感謝をもってイエス様とその弟子たちに仕えたということです。
 何が言いたいかと言いますと、彼女たちが忠実にある一定の期間、
イエス様や弟子たちに奉仕をしたので、癒されたのではないということです。
 イエス・キリストを何十年信じたから、病が癒されたのではありません。
12年、出血の止まらなかった女は、イエス様の衣の房に触れて直ちに癒されました。
生まれながら盲人であった人も、
イエス様の言葉に従って目に塗られた泥を洗うと見えるようになりました。
 手の萎えた人 足の萎えた人、不治の病として恐れられたハンセン氏病の患者も、
病をイエス様によって癒された人々は、全てイエス様によって直ちに癒されました。
決して、イエス様に大変な額の献金をして癒されたり、
長年、イエス様に仕えたから癒されたのではありません。
そして、病と共にいや病に先んじて「罪」をイエス様は赦されました。
 神に対する、償うことの出来ない人間の罪をイエス様は赦して下さるのです。

 ですから、イエス・キリストを信じるということは、救いに与ったと言うことなのです。
イエス・キリストを信じ、告白するということは、
わたしたちがすでに感謝すべき救いの内にあるということです。
 決して、まがい物の宗教やまがい物のキリスト教のように、
救われるために何百人の人に伝道しなければならないとか、
病が癒されるために祈祷料を収めなければならない、
無価値な本や宗教グッズを高額な値段で買わなければならないということではありません。
 このようなことはイエス・キリストの福音に敵対しています。
 その教団の中で試験を受けて段々偉くなっていくと、
救いもより確かになっていくとかいうようなことは、
イエス・キリストの福音によって立つキリスト教会にはあり得ないことです。
 国道50号を水戸インター方面に先日走っていましたら、
赤塚の付近に、ある新興宗教の立派な会館が建設途中で驚かされました。
いつの世もまがい物は沢山ありますが、
それを座して眺めているだけではいけないのではないでしょうか。
 新興宗教に走るような人々は大抵、真面目な人々で大きな人生の悩みを抱えた人が多いものです。
ですから、わたしたちはそのような困難の中にある人々が、
虚しい宗教の虜にされていく現代日本の状況を深く嘆き、責任を感じるべきではないでしょうか。

 イエス・キリストの十字架の死と復活の御業によって、全ての人間の罪が赦されました。
わたしたちの罪もまた赦されているのです。
 イエス・キリストを信じ、告白して生きるとき、わたしたちは聖霊の助けによって、
わたしたちの人生は全く思いも寄らなかった素晴らしいものへと変えられてゆきます。
 わたしたちはこのことをもっと自信をもって人々に伝えてゆく責任があります。
このイエスによって癒されて、イエスとその一行の世話をしていた女性たちは、
単に奉仕をしていただけではなく、イエス・キリストの十字架と復活の業、
つまり全人類の救いの出来事の証人となりました。
 わたしたちもまた、わたしたち一人一人の人生において主が確かにわたしを救って下さり、
共にいて下さることの証人です。

 21世紀に日本において、福音を伝えることを妨害する何者がいるというのでしょうか。
江戸時代のようにクリスチャンであることが分かり次第、
捕らえられて殺されてしまうということはありません。
 明治のころのように「耶蘇に入るような者は勘当だ」と、言われるようなこともありません。
 戦前の昭和の時代のように天皇を拝むことを強制されることもありません。
今、わたしたちは自由にイエス・キリストを信じ、告白することができます。
そして何の妨害も抵抗も起こらないのです。

 福音伝道を妨げている唯一の障害は、わたしたちの心の中にあります。
わたしたちクリスチャンの心が福音が広がることを妨げているのです。
 すべての信号はわたしたちにとって青信号となっています。
社会的にも法律的にも政治的にもキリスト教会の福音宣教を妨げるものはなにもありません。
わたしたちはむしろ油断してしまったのではないでしょうか。
 福音を伝える障害がなくなってしまったら、もはや伝道しなくても、
人々には徐々に福音が伝わる、キリスト教は真理なのだから、
必ずこの日本にも根を張り、実を結ぶのは時間の問題だと思い込んでいたのではないでしょうか。
 今も心のどこかでそう思っているのではないでしょうか。
そして、その油断が争いと内部分裂を、わたしたちの日本基督教団と、
わたしたちの水戸中央教会に招いてしまったのではないでしょうか。

 わたしたちは青信号なのに渡ろうとしないのです。
伝道してもいい時代になったのに伝道しないのです。
なぜでしょうか。それはわたしたちの高慢のなせる業です。
 「イエス・キリストは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、
町や村を巡って旅を続けられた。」
と聖書は記しています。
 イエス様は福音を告げ知らせながらあちこちを歩き回り、ご苦労されたにもかかわらず、
わたしはそのようなことをしていません。
 政治活動と災害援助は出来るが、福音を語ることの出来ないというのが、
わたしの現状でもあります。
そして、その政治活動と災害援助をするといっても、
それが社会のいわゆる世論の支持を得る限りにおいてしているだけです。
そこには大きな落とし穴があります。
つまり、そこで、わたしたちは
「正しい人、立派な人、愛に満ちた人」として賞賛に与ってしまうということです。
自分が褒められることに利用しているだけということが起こりがちです。

 わたしたちの教団には、新聞が正しいと認めたことが、聖書に優先されるようなところがあります。
それには、様々なわたしたちの自己反省と事情がありますが、
本来的に神の言葉である聖書は新聞の意見よりも優先されるべきであることは明らかです。

 イエス・キリストを信じて生きるということの素晴らしさを、
わたしたちは今一度発見しなければなりません。
それはイエス・キリストを信じることを告白するために、
「馬鹿」と呼ばれ、「愚か者」と言われるところにあるのではないでしょうか。
単純に福音を伝えることに喜びを見いだすことではないでしょうか。

 今週末、わたしたちは韓国からの青年伝道グループをお迎えしますが、
この単純に福音を伝えようとするその真摯で誠実な姿を学ぶことが出来ればと願っています。
そして、わたしたちは夢をもってこの青年たちを受け入れたいと願います。
それは、わたしたちがアメリカや韓国から伝道のために恩恵を受けるだけではなく、
わたしたちの教会がいつの日かそのような若者を海外に送り出す日を夢見るということです。
この夢の実現の一歩としてわたしたちは韓国からの兄弟姉妹を受け入れたいと願います。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教