
水戸中央教会 説教 2007年7月15日
「罪人の救い」
ルカによる福音書7章36〜50節
36:さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、
イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
37:この町には一人の罪深い女がいた。
イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、
香油の入った石膏の壷を持って来て、
38:後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、
自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
39:イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、
「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、
どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
40:そこで、イエスがその人に向かって、
「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、
シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
41:イエスはお話しになった。
「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。
一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
42:二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。
二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
43:シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。
イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
44:そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。
「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、
あなたは足を洗う水もくれなかったが、
この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
45:あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、
わたしの足に接吻してやまなかった。
46:あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
47:だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、
わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
48:そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
49:同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。
50:イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
1.はじめに
「キリスト教は『人間は皆、罪人だ。』というけれど、わたしはなにも悪いことはしていない。」
と、よく言われます。
「自分はこれこれしかじか出来る限りよいことをしている。なぜ、わたしが罪人なのか。」、
「人間、皆、罪人なら善いことを行うことは意味がないのか。
そんなことを言っていると人間は進歩をしない。」などと考えます。
今日は、この罪の問題について聖書を通して少し考えてみたいと思います。
2.ルカ福音書7章36〜50節の概略
ファリサイ派の人の家に食事にイエスが招かれました。
ファリサイ派とは、当時のユダヤ教の代表的な宗派で、
神の律法を正確に守ることを志していた人々です。
正義と信念の人々であり、周囲の人々からも尊敬を集めていました。
礼儀正しい、謹厳実直な人々といってもよいでしょう。
ファリサイ派の人のところでイエス様が食事をしていることを聞いて、
一人の罪深い女がやって来て、後ろからイエスの足下に近寄り泣きながらその足を涙でぬらし、
自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻をして香油を塗りました。
当時の正式の食事というのは、横になって腹這いで食べるというマナーでしたから、
後ろから近づいてきた罪深い女をイエスは事前に全く見ることが出来なかったわけです。
また、普通は食事の前にお客さんの足をその家の召使いが水で洗うのが習慣でしたので、
この罪深い女がしたことは、涙で足を洗ったり、高価な香油を塗ったりと異常なことではありましたが、
現代のわたしたちが思うほど異常なことではありません。
ちゃんとしたお客様に対するもてなしであった訳です。
家の主人であるファリサイ派の人は、イエス様の向かいかどこかにいたのでしょう。
罪深い女が何をしているか、はっきり分かる位置にいたと考えられます。
「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」
とこれを見て、ファリサイ派の人は、思いました。
つまり、本当の預言者ならば、後ろを振り向いて見るまでもなく、
その女が召使いではなく、罪深い女であると分かる神様からの力があるはずだと思った訳です。
「そんな無茶苦茶な」と、わたしたちは思うかも知れませんが、
すでにこれ以前、奇跡によってあまたの人々を癒したり、
死人さえよみがえらせているイエス様なのですから、
ファリサイ派のこの家の主人がそう考えてもおかしくはありません。
それどころか、イエス様はファリサイ派の主人の予想を上回る能力を発揮します。
イエス様はこの女が誰であるかを知っているばかりか、
ファリサイ派の主人の考えをも見抜いてしまわれました。
イエス様はたとえ話を家の主人シモンします。
「ある金貸しから二人の人が金を借りていた。一人は500万円、もう一人は50万円。
二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。
二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
シモンは答えます。「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います。」
イエスは、「その通りだ。」とおっしゃいました。
そして、ファリサイ派の主人よりも、この罪深い女の方がより多くの罪を赦されて、
多くイエスを愛しているとおっしゃり、女に「あなたの罪は赦された。」と、宣言されました。
この二人の金を借りた人のたとえでは、500万円の借金があるのは罪深い女であり、
50万円の借金があるのはファリサイ派のこの家の主人です。
イエス様のところへ来るということは、その罪が赦されるということです。
そして、その罪が赦されるのは、主イエス・キリストに対して、
どのような奉仕をしたのかということであると言われています。
3.ファリサイ派の人の信仰と自分自身
44:そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。
「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、
あなたは足を洗う水もくれなかったが、
この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
45:あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、
わたしの足に接吻してやまなかった。
46:あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
47:だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、
わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
ファリサイ派の人とは自ら正しくあろうとした人々です。
このような人々は自らの正しさが認められることに価値を見いだします。
褒められることを喜びます。
人間誰でもそうですが、「褒められたい。認められたい。」という思いを持っています。
この思いが人間を善い行いへと駆り立てるのですが、神が人となってこの世にいらしたとき、
その神の恵みをいただき損なってしまうことがあると言われています。
このファリサイ派の主人はイエスを家に迎えておきながら、客に対して当然為すべき、礼儀を怠りました。
ここには、わたしたちの姿が明らかにされているように思います。それはまさにわたし自身の姿でもあります。
「足を洗う水もくれなかった」というのはお客様に対する奉仕ですから、それは礼拝にあたります。
教会はわたしたちにとって奉仕の場となっているでしょうか、奉仕される場になっていないでしょうか。
これは牧師であるわたしが一番陥りやすい過ちであるとも思います。
また神様に対して、わたしたちは奉仕をするという態度があるでしょうか。
「困った時の神頼み」という言葉があります。
つまり、ここでは神様はわたしたちが困ったときに助けてくれる方であって、
普段は神様のことを気にもかけないということです。
わたしたちは自分の人生を神様に対する奉仕として位置づけているでしょうか。
「接吻の挨拶もしない」とは、「神に対して祈らない」ということではないでしょうか。
罪の女は「接吻して止まなかった」といわれています。
聖書には「絶えず祈りなさい。」という言葉があります。
神の前に跪く、神を畏れるということがわたしたちの生活の中にどれほどあるでしょうか。
「頭にオリーブ油を塗らなかった」こと、これは捧げものと理解されますので、
「献金はしない」あるいは「献金をケチる」ということです。
わたしも結婚をしてから、英美子師が家計の管理をしているので、
わりと献金が出来るようになりましたが、それ以前は非常にいい加減でした。
「金で愛が計れるのか。馬鹿馬鹿しい。」と言う非難の声が聞こえてきそうですが、
わたしたち大切なことにはお金を惜しまないのは事実です。
たとえば、親は子ども愛します。子どもの教育のために日本では莫大な出費がなされます。
子どもに対して「お父さんやお母さんはお前のことを本当に愛しているんだよ。」と言うばかりで、
子どものために何の費用もかけないとしたら、子どもは愛されているとは思わないでしょう。
そのようなことを親が言うのは、本当に自分たちに金がないという状況で、
無理をしてでも子どもための費用を捻出するのが普通の親です。
これが子が親に対する場合でも同じでしょう。
子どもが、出来る状況にありながら、親に対してなんの面倒も見ないとすれば、
それは正しいことではありません。
そして、そのような場合に必要な経費を惜しむということはあり得ません。
わたしは牧師ではありますが、この箇所を読みながら思うのは、
「自分は、そう大したクリスチャンではない。」ということです。
4.罪の自覚がない自分自身の現実
わたしは、大きな罪を犯したという自覚がありません。
そして、イエス様の前に悔いくずおれて涙を流したという経験のある方は、
見回したところやっぱりほとんどいらっしゃいません。
悔し涙を流したとか、涙を飲んだことは案外ありますが、
悔い改めの涙というのは牧師であるわたし自身、まだ記憶にありません。
わたしたちの多く、いや全てといって過言ではないと思いますが、
皆もともと基本的に品行方正な優等生です。
悪いといっても、高校時代に、クラスメートをトイレに連れ込んで、
カツアゲをしたなんていうことはありません。
ですから、わたしたちは人々から褒められることはあってもけなされたり、
罪人呼ばわりされることは、日常生活のなかでありませんし、
そんなことをされたら怒りで一杯になります。
「わたしはそんな悪いことはしていない。」と、主張することが出来るからです。
わたしたちの内に「わたしは神の前に大きな借金がある。」という思いがあるかというと、
そんな思いはありません。むしろ、「貯金をしている」という気持ちの方が強いです。
イエス・キリストはわたしたちの罪を赦すためにこの世に来て下さいました。
ここでは二人の金を借りた人について語られています。
500万円借りた人と、50万円を借りた人です。
ファリサイ派の人は、50万の借金を帳消しにしてもらったのですが、
真実なところ、本人にはこの借金の記憶がないのです。
わたしたちも同じように罪の自覚がありません。
むしろ、わたしたちは
「教会のために、これだけの奉仕をし、こんなに献金もしてきた。
礼拝だってほとんど休んだことはない。出来る限りのことをしている。」
と思わないでしょうか。
あるいは「50万円程度の借金なら返すは、金ならあるよ。」と思うかも知れません。
しかし、イエス様はおっしゃっています。「二人には返す金がなかった」そのように聖書にあります。
5.罪……与えられた命に対する感謝の欠如
わたしたちの命は神様から与えられた命です。
わたしたちはこの神様から与えられた命を、神様に感謝をするために用いて来たでしょうか。
「神社にお参りに行きました。仏様に感謝しました。」というのではないのです。
天と地を創造された唯一の神に感謝を捧げてきたでしょうか。
神社では山や川や海や動物などが神として崇められています。
しかし、それがわたしたちに命を与えたのではないことは普通に考えれば分かります。
また仏は人であってわたしを創造した神ではありません。
子どもに、「何かをもらったら、かならずお礼を言いなさい。」と、親は教えます。
当然、その時、下さった人に対してお礼を言わなければ、それはお礼を言ったことにはなりません。
わたしたちは命が与えられていることに、感謝などしたことがありません。
命は自分のものだと信じて疑わないからです。
しかし、自分で自分を造った人間は誰もいないにもかかわらず、
わたしたちはそれは自分のものだと主張してはばかりません。
そして、与えられている命を与えて下さった方への感謝をいたしません。
命を与えて下さった方を求めて感謝に行ったというお話も、
不思議なことにあまり聞かないのです。あってしかるべき昔話なのですが、
聞いたことがありません。実にこれが、わたしたち人間の原罪というものなのです。
つまり、わたしたちは与えられた命に対して、
それを感謝しようとして真剣に求めたことがないという証拠なのです。
昔話にはネズミの嫁入りというものがあります。
「鼠の親が強い者に憧れて太陽のところへ娘を嫁にやろうとするが、
太陽を隠してしまう雲のほうが強いという。
雲は自分を吹き飛ばす風のほうが強いといい、風はいくら吹いても動かない壁が強いといい、
壁は自分をかじって穴をあけてしまうネズミのほうが強いという。
けっきょくネズミのところへ嫁入りするという話。」
もし、わたしたちが真剣に与えられた命について感謝をしたいと思ったら、
この命を与えて下さった方を探し求めるという旅があってしかるべきではないでしょうか。
近所のお稲荷さんへ行って「わたしに命を与えて下さったのはあなたですか?」、
するとお稲荷さんは
「いや、わたしはキツネだ。お前と同じように命を与えられた者で、
命をお前に与えた神ではない。山の神に聞いてご覧。」
といいます。こうして、伊勢神宮や、山の神社やお寺に行って、聞いて回るのです。
「ご先祖様、あなたがわたしに命を与えて下さったのでしょうか。」
「わたしは確かにお前をこの世に産んで、育てたが、わたし自身もご先祖様から生まれ、育てられた。
ご先祖様のご先祖様の命がどこから来たのかはわたしは知らない。」
「わたしは仏であって、この世を超越した者だ。しかし、お前に命を与えたのはわたしではない。」
6.罪の意味と永遠の命
「二人には返す金がなかった」と聖書にあります。
このような場合のたとえで「お金」が意味しているのは命です。
わたしたちは神様の御心に反して使ってしまった命、時間をお返しすることは出来ません。
3分であっても、3秒であっても返すことはできないのです。
主イエス・キリストはこのわたしたちの神様への借金である罪を帳消しにして、
ゼロにしてくださいます。
3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
永遠の命とは、時を越えた命です。
つまり、そこではこの世の時間が通用しない世界ですから、そこでは時間はゼロなのです。
それは完全な命です。そこに完全な喜びがあります。
どんなに小さくともマイナスのままで残るならば、わたしたちは永遠の命に到ることはなく、死にます。
もし悔い改めることのない人間が死ななかったならば、それは永遠の地獄でしょう。
死があるので人間は多少は大人しそうな顔をしていますが、
死なないとなったら人間のわがままは留まるところがなくなってしまいます。
7.信仰による人生の素晴らしさ
50:イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
この後、この罪深い女がどのようになったのかは報告されていません。
イエス様についていった弟子の群れに加わったかもしれませんし、この町に留まったかも知れません。
いくらイエスが「あなたの罪はゆるされた」と言ったとしても、
世間の外の人々は、彼女を相変わらず罪深いことをした女として見続けたでしょう。
しかし、彼女は死を越えた永遠の世界への希望に満ちて生きたのではないでしょうか。
そして、「あなた方は世の光である。地の塩である」と、おっしゃったイエス様の言葉どおりに、
この世の希望の光、地の塩として多くの絶望の中にある人々に、
慰めと平安を与え続けて生きたのではないでしょうか。
そして彼女のことが今もこうして語り伝えられていることによって、
今もわたしたちの希望の光、地の塩となっているのです。
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