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土浦教会 説教               2007年7月1日

「わたしたちの人生の目的:和解」

ルカによる福音書17章11−19節 

11:イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
12:ある村に入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
13:声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
14:イエスはらい病を患っている人たちを見て、
 「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
15:その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
16:そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
17:そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
18:この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
19:それから、イエスはその人に言われた。
 「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」


 先週、わたしは日曜日の説教をしながら、礼拝の中で思いました。
「人生の目的は和解にある。和解こそ、わたしたちが目指す人生の目的なのだと。」
 わたしはクリスチャンとして洗礼を受けて、ようやく26年ほどになります。
そんなに長い教会生活ではありませんが、それでも短い訳でもないと思います。
 この間を振り返りますと、結構、色々な教会内の争いや対立を経験してきました。
自分が対立する当事者であることもありましたし、
第三者的な傍観者であったこともあります。

 普通、「教会には対立や争いがあってはならない。教会は争うところではない。」
と、みんな思っています。そして、教会の中で争いが起こると、眉をひそめます。
そして、多くの人々が教会を去ってゆきます。
そして、争いが起こると教会はその生命を失ってしまうかのように思います。

 しかし、そうではないのではないかとわたしは思ったのです。
丁度、花が育つように、種から芽が出て、葉を広げ、花が咲き、
花が枯れて実を結ぶように、わたしたちの教会もあるのではないかと思ったのです。

 福音の種が蒔かれて、教会が成長し、イエス・キリストを中心とした共同体が形成されます。
教会がイエス・キリストを中心として一致し、仲良くしている間というのは、
丁度、花が咲き誇っているような状態です。
 そこには、丁度、咲く花の蜜を求めて虫が飛んでくるように、人々が集まります。
そのように仲良くしている教会に、争いの嵐が吹きすさぶ時が来ます。
それは、あってはならないことが起こっているのではなくて、
起こるべき必然なのではないでしょうか。
丁度、時が来て花が散ってしまうように、教会に争いが起こるのではないでしょうか。

 そして、この争いの中で重要なのは、この争いを通して、
和解がなされるかどうかということなのです。
この和解こそが信仰の実であり、わたしたちの人生の目的ではないでしょうか。
なぜならば、イエス・キリストを信じるということは、和解を信じるということだからです。
 そして、信仰がなければ、和解しようとすることは起こりえないからです。
イエス・キリストによって罪を赦されたわたしたちは同じように、
わたしたちに悪を行う者を赦すことへと召されているからです。
 信仰がなければ、わたしたちはそれぞれの正義を主張して、
対立したままでありつづけ、袂を分かち、せいぜい
「どちらが正しいかは神様が決めてくださる」
と、うそぶくのがいいところです。
 普通は、それぞれの正義を主張して、争い、相手を屈服させたり、追い出そうとします。
和解などしません。
 何か、政治的、経済的などの、この世的な意味で争っている状態は、損であると認識がありますと、
停戦をいたしますが、それは憎しみあう相手が互いに赦しを請うという和解ではありません。

 イエス・キリストは、神と人との間に和解をもたらすために人となって、
この世に来て下さいました。
 そして、十字架に架けられて死に三日目に復活されて、その和解の業を完成されました。
 わたしたちはクリスチャンとして、イエス・キリストの和解の恵みにあずかって生き、
イエス・キリストに従う者です。
 ですから、和解はわたしたちクリスチャンの人生の目的でもあります。

 わたしたちの人生の目的はこの世で、わたしたちがどんなに素晴らしい、
いわゆる業績を残すことではありません。
 どんな発見や発明をしたとか、会社や社会でどれだけ出世をしたとか、
地位や名誉や富を得るということが、わたしたちの人生の目的ではありません。
 それらは、すべて神の国と義を求める時に添えて与えられるものです。
 この世の地位や名誉や富をもって、わたしたちは人前で誇ることはできるかも知れませんが、
神の前に誇ることはできません。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加
えて与えられる。」
           
(マタイ6:33)

 「これらのもの」とは、この世においてわたしたちが欲しいと思っているものです。
この世の富や力や名誉や地位というものは、添えて与えられるものであって、
求めるものではないし、人生の目的ではないということを、
聖書は明確にわたしたちに教えています。

 しかし、わたしたちはいかに、
この「これらのみな加えて与えられるもの」を求めるために一生懸命になっています。
そして、この「これらのみな加えて与えられるもの」を失ってしまうと、
あたかも自分の人生は生きる意味がないかのように思い込んでしまうのです。
 そして、極端な場合は、それらを失うと自殺してしまいます。
会社が倒産したり、何かとんでもない過ちを会社で犯してしまったといっては自殺に追い込まれる人々が、
日本には何万人といます。
 その自殺の多くは、この世の加えて与えられるものを巡る問題です。
 
 わたしたちが求めるべきは、神に感謝する心、敵を赦す心です。
このような心を与えられることこそ、わたしたちの人生の目的なのですが、
わたしたちは、心の問題などどうでもいいと思っています。
 この本末転倒こそが罪なのです。
わたしたちの信仰さえもこの罪の中にどっぷりと浸かっています。

 わたしたちは、自分の心を変えたり、
心を成長させることになど何の関心も持っていないというのが真実です。

天にまします 我らの父よ
願わくは 御名を あがめさせ給え
御国を来らせ給え
御心の天になるごとく 地にもなさせ給え
我らの日用の糧を今日も与え給え
我らに罪を犯す者を 我らが赦すごとく 
我らの罪をも赦し給え
我らを試みにあわせず 悪より救い出し給え
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン

 この主の祈りをわたしたちは礼拝の中で必ず祈りますし、
毎日、祈る方も少なくないでしょう。
 そして、よく祈るならば、段々に分かってくることは、
わたしたちはこの主の祈りの願いを祈るたびに願っているといいながら、
本当の自分はそんなことを何も願っていないということです。

 神様の名が崇められるよりも、自分が尊重されるかどうかがわたしたちの最大の関心事です。
神の国などよりも、わたしの支配が強まることが大問題です。
 社会の中の出世や富の獲得は、神の支配が強まることではなくて、
わたしの支配力が増し加えられるためです。
 せいぜい、わたしたちは自分の支配力が増し加えられるために、
神の国の力が強くなりますようにと思っているような理解です。

 「御心が天になるごとく、地にもなさせ給え」というように祈るのも、
多くの場合は自分が不当な目に遭っているときに、
不当な目に遭わせている相手が神の力によって屈服するようにというような祈りになっています。

 「我らに罪を犯す者を 我らが赦すごとく 我らの罪をも赦し給え」と祈りますが、
現実は、「わたしには罪はありません。どうかわたしに罪を犯した者に天罰を与えて下さい。」
というように思っています。

 「敵を愛する」とか、「対立している相手と和解する」などということは、
実際に敵を持ったり、実生活の中で対立したりしますと、いかに不可能なことかがよく分かります。
 なにもそんなに珍しい問題ではなく、これはありふれた問題なのです。
嫁姑や離婚などという形で、いつの時代もどこにでもあります。
 もう相手がそこにいると分かるだけで嫌悪感が沸いてきて、どうしようもなくなります。
 教会の中で対立が生じた場合でも事態は全く同じで、
相手がそこにいるということをわたしたちは受け入れることができません。

 「人間は結局、変わりませんから、敵を愛するとか和解なんていうことは無理です。
それは、偽善ではないでしょうか。」
というような発言を聞くことがしばしばあります。
 そしてまた、それは深く人生を洞察した言葉のように響きます。
「三つ子の魂、百まで」ということわざもあるほどです。
 しかし、そうではありません。人は変わることができるのです。
「人間は結局、変わらない。」という人は、
単に自分が変わる必要を認めていないというだけのことであり、
変わらなければならないという差し迫った理由が無いというだけのことなのです。
 それは、「わたしは変わる必要はない。悪いのは向こうの方だ。」という高慢の徴なのです。

 人間の心は変わることができますし、
赦すことのできないような人も赦すことができるようになるのです。
 主イエス・キリストの力によって、聖霊の力によってわたしたちは赦すことができるようになるのです。
もし、できないならば、それはわたしたちが罪を告白するときなのです。
「信仰を与えてください。」と祈るときであって、
「わたしは変わる必要はない。」と言う時では決してありません。

 「求めよ、そうすれば与えられる。」と、イエス様はかつて弟子たちに教えてくださいました。
わたしたちが求めるべきは、和解のできる心です。
 仲違いをし、争った相手と、イエス・キリストへの信仰のために和解をすることが、
わたしたちの人生の目的です。
 そして、まさにイエス・キリストへの信仰の故に、わたしたちはたとえ敵対する相手であったとしても、
約束は約束として守り、誠実であり続けようとしているのではないでしょうか。

 なぜ、そのようなことがわたしたちに可能となっているのでしょうか。
それは、神は愛だからです。
 イエス・キリストにおいて神の愛の真実が示
されているから、わたしたちは不完全ながらも、
敵対する相手に対しても誠実であろうとすることができるのです。

 あなたの心を神の御心に従って作り上げること、完成することが人間の本当の人生の目的です。
 あなたの不安定で、いい加減な心の赴くまま、
望むままにあなたの人生を形作ろうとすることではありません。

 あなたの人生の目的は何でしょうか?
結婚して幸せな生活を送ること、出世、努めている会社への貢献、
あるいは社会への貢献、子供の教育、家族を守ることなどをあなたは、
人生の目的と思っているかも知れません。
 しかし、そうではないのです。あなたの人生の目的は、
あなた自身の心を神の御心に適った心に育て上げることなのです。

 10人のハンセン氏病の患者が、イエス様に癒しを求めました。
彼らはイエスの言葉に従って、祭司のところへ行く途中で、その病を癒されました。
 癒された10人の内、一人だけがイエスのもとへ大声で神を賛美しながら戻ってきました。
 なぜ、他の9人はイエスのもとへ感謝するために戻ってこなかったのでしょうか。
他の9人は、わたしたちと同じように人生の目的があったのです。
 彼らは自分たちのやりたいこと、したいことがあったのです。
お金を儲けたり、幸せな家庭を築いたり、仕事をして出世をしたり、色々な望みがあったのです。
ですから、彼らは戻ってくることはありませんでした。感謝をしている場合では無かったのです。
病気が治ったのなら、やりたいと思っていたこと、
しなければならないことが山のようにあったのです。

5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 どんなことにも感謝しなさい。
 これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 

      
(第一テサロニケ5:16−18)

 神に感謝することの大切さが教えられています。
神に感謝することによって、わたしたちは与えられた人生を正しく用いることができるからです。
 感謝をしないということは、つまり、その人は自分の命は自分のものであって与えられたものとは、
思っていないからです。
 自分のものですから、感謝をする必要は無いのです。

 重い皮膚病は、肉体の病ですが、わたしたちの教会にも病があり、
わたしたちの人間関係にも病があります。教会内の争いや人間関係の争いがその病です。
 和解がこの争いという病の癒しです。
和解は、起こるべきではない争いが無くなったという、ゼロの状態ではありません。
和解をするということ、敵対していた人を赦すということ、
それはマイナスがゼロになっただけということではありません。
 赦しと和解が起こって、それから肝心の愛に満ちた人間関係が構築されていく出発点に過ぎない、
と言うのではありません。
 そうではなくて、争いを通してなお、赦しと和解が起こるとき、
それは、あなたの魂が実を結んだと言うことなのです。
 そして、赦しと和解は、あなたの人生は生きた意味があったということなのです。
決して敗北や勝利の放棄ではありません。
 なぜならば、赦しと和解とは、相手の人生を認めることだからです。
 つまり、相手の人生を認めるとき、わたしたちの人生もまた認められるからです。

 わたしたちに赦しと和解の御業をもたらす、
主イエス・キリストに栄光が限りなくありますように。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教