水戸中央教会 説教         2007年6月24日

「神は見捨てない」

ルカによる福音書15章1−10節

 
1:徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
2:すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、
 「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
3:そこで、イエスは次のたとえを話された。
4:「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、
 その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、
 見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
5:そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
6:家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、
 『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
7:言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、
 悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 8:「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、
 その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、
 見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
9:そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、
 『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
10:言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

 「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。」
今日に至るまで歴史の中で、この聖書に伝えられている事実が、
キリスト教会のあり方を腐敗から守ってきました。
 徴税人は、当時、ローマの支配下にあったイスラエルの国で、
大帝国ローマの権威をかさにきて、同胞から法外な税金を搾り取り、
大部分を自分のものとしていた人々です。
同じイスラエル民族の同胞として許せない人々でした。

 罪人とは神の律法に反した人々であり、
その罪の中には殺人や盗みなどということもありますが、
偶像礼拝やその他、イスラエル共同体の神の民としての秩序を乱す人々です。
 彼らは共に神の民の交わりから排除されていました。
 徴税人や罪人を排除することが、神の律法の正義を守ることだと、
律法学者やファリサイ派の人々などの宗教的指導者たちは信じていました。
強い者が勝ち残ってゆくように、神の律法をより正しく守る者が神に喜ばれる者であり、
守らない者は罰を受けるというのは当然だと彼らは考えていました。
わたしたちもそう思います。

 律法学者やファリサイ派の人々は、この世的な利益を犠牲にして、
神の律法を守ろうとしていたのです。それは素晴らしいことだったのではないでしょうか。
わたしたちもクリスチャンとして神の御心に適うような生き方をしたいと願っています。
そのような中でわたしたちは敬虔なクリスチャンとして信仰が強ばってしまい、
悪い意味で頑固になってしまいます。
 その頑固さをうち砕くのが、イエス様が徴税人や罪人という当時、
切り捨てられてしまった人々との交わりの回復を喜ばれたという事実です。
この事実によって、キリスト教会は長い歴史の中で、
強ばって頑なになってしまった信仰がうち破られ、新たな聖霊の命を吹き込まれてきました。

 西ヨーロッパのキリスト教世界において、
最もキリストに近い人物と言われるアッシジのフランチェスコは、
その回心の時、当時やはり差別され、社会の隅に押しやられていたハンセン氏病患者を抱きしめて、
口づけをしたと伝えられています。
 キリスト教が広まり、多くの人々が信者となり、国の支配的な宗教となってゆく過程で、
教会は世俗の政治団体と同じように権力と富によって動かされるようになってゆきます。
このような世俗化の波から教会を救い出したは、
常に、この社会から切り捨てられ、疎んじられている人々と共に生きようとする運動でした。
そして、切り捨てようとするわたしたちの人間の思いが、
キリスト教信仰を空洞化させてきたのです。
 実にキリスト教会2000年の歴史は、
信仰の空洞化の歴史であったと言っても過言ではないかも知れません。
そしてだからこそ、わたしたちはイエス・キリストその方に2000年経った今も立ち返る必要があるのです。

 この罪人や徴税人を教え、またほかの箇所で、
イエス様は、障碍者やハンセン氏病の患者などを手で触れて癒していますが、
わたしたちは、このイエス様の為されたことを2000年に亘って無視し続けてきました。
今も無視し続けているのではないでしょうか。
 「信仰は非科学的だ、聖書は現代科学の進歩した現在では無力であり、無用のものだ。」
という声が世間一般にはあります。そしてそのような思いはわたしたちの中にもあります。
 しかし、果たしてそうでしょうか。
 ある意味では、科学の発達した現代になってようやく、
イエス様のなさったことの正しさが理解されていることもあるのではないでしょうか。
 ハンセン氏病は非常に感染力が低く、石鹸一つあれば防げる病だということが分かったのは、つい最近です。
そして、日本政府は、ほんの数年前にわたしたちの国で行われていた、
ハンセン氏病患者に対する謝罪を致しました。
 しかし、施設は今も山奥や離れ島などにあり社会から隔離されています。
わたしたち人間が、真剣に聖書の言葉に聞き、イエス様に倣っていたら、
ハンセン氏病患者の施設を地域社会から隔離されたところに建てたでしょうか。
 また障害を持った人々は社会の端に追いやられています。
しかし、イエス様はそのような方々と積極的な交わりを持ち、癒されました。

 不思議だと思わせられるのは、イエス様のもとに徴税人や罪人という、
本来的に神の教えや言葉とは関係ないはずの、神の恵みからもっとも遠いはずの人々が、
イエス様の話を聞こうとして近寄ってきたということです。
 まず、第一にわたしが思いますのは、イエス様のお人柄です。
それはお話をされた内容にもよると思うのですけれど、正しくないことを行い、
人々を裏切って自分だけ儲かればいいというような、
エゴの塊のような人々がイエス様の話を聞こうという気になったということです。
 ある意味、「神などいるものか!」と、うそぶいて好き勝手なことをしている人々が、
イエス様のお話を聞こうと寄ってきたのです。
 イエス様には、好き勝手なことをしているような人々が、
自分から聞いてみたいと思うような何かをもっていらしたに違いありません。
 イエス様が本当に解放されて正しい意味で自由な方だったからではないでしょうか。
好き勝手なことをしている自分とは較べものにならない自由と喜びをもって、
イエス様が生きていらしたことが、そこにはあるのではないかと、わたしは思います。
 このイエス様に対して、わたしの説教も含めて、一般的に教会の牧師の説教は、
社会の中でつまはじきにされているような人々に訴える力がありません。

 そして、次に不思議なのは、イエス様が、話を聞きに来た徴税人や罪人を追い払ったり、
拒否したりしなかったということです。
むしろ、そのような人々を積極的に受け入れ、
食事も共にされるほどだったと聖書には記録されています。
 この聖書の記録を2000年経った今、読み聞いているわたしたちには、
それほど不思議なことのようには思えません。
 むしろ、「イエス様は何と素晴らしい、優しい、心の広い方だったのだろう。」と、思ってしまいます。
そして、イエス様を批判するファリサイ派の人々や律法学者を
「なんと心の狭い、人々だろう。神を愛するといいながら神の愛を知らない人々だ。」
と、思ったりします。
 しかし、わたしたち自身がファリサイ派の人々や律法学者たちと同じように、
「なんとわたしは心が狭く、神を愛するといいながら神の愛を知らないのだろう。」
と、思えることが大切です。なぜならば、そこにこそ悔い改めがあるからです。

 わたしたちが悔い改めるとき、たとえわたしたちが、
ファリサイ派の人々や律法学者たちと同じようなことをしてきたとしても、
イエス様はわたしたちを受け入れて赦して下さるからです。
 神の恵みにあずかる唯一の道は悔い改めて福音を信じることです。
 教会の中においても同じようなことは起こります。
人間は、悔い改めたとは言っても、自分をご覧になればお分かりになるとおり、
わがままですから、わがままが集まって争いになることは日常的に起こります。
「自分は、わがままだなぁ」という自覚がある場合はむしろいい方です。
大抵のクリスチャンは、模範的になればなるほど、わがままではありませんから困るのです。
「わたしは、わがままではありません。」と思う人々の間で起こる争いが、
最もたちが悪いのは火を見るより明らかです。そして一度、争ってしまいますと、
この争った相手を受け入れいるということは大変に困難なことです。
 このような人間関係の難しさをわたし自身経験することが度々あります。
つまり、わたしたちの教会もまた、
わたし自身もファリサイ派の人々や律法学者たちと同じように、
一度、自分たちが、
「あの人々は間違っている。」というレッテルを貼った人々を受け入れることは困難なのです。
 イエス様は神と人とを和解させるためにこの世に来て、ご自身の命を捧げて、
わたしたちのためにその和解の業を完成されました。
 わたしたちの人生の目的もまた、和解にあります。
イエス・キリストを信じて、神と和解すること、それは罪を告白することです。
そして、争ったあるいは、争っている相手と和解をすることは、
わたしたちがこの世に生きたかけがえのない印であり、宝なのです。

15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、
  その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、
  見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」

15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、
  その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、
  見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。」

 一匹の羊というのは、当時、それなりの財産です。一頭10万円以上でしょう。
お金などよりもある意味確実な財産であったということができるかも知れません。
 1ドラクメというのもやはりそれなりの価値です。
ものの本には労働者の一日分の賃金にあたるということです。
大体、日本の感覚ですと、一万円くらいでしょうか。十万円のへそくりがあって、
その内一万円が無くなってしまったとなったら、それは大変です。
 神の目から見た、公平さがここには言われています。
たとえ罪人であろうと徴税人のような裏切り者であろうと、
人は人として神の前に同じ価値を持っているということです。
 この神様の視点に立つことが、わたしたち人間には大変、難しいことです。
それは不可能なのかも知れません。
 この天地万物を創造し、人間を創造された神の目にとって、
人は皆、同じ価値を持っているのであり、この人はより価値があり、
あの人はより価値がないということはありません。
 ところが、わたしたちは勝手に自分たちで尺度をでっち上げて、
「わたしは、彼または彼女より、価値がある」
と、言い出すのです。
 また、神は悔い改めた罪人を喜ばれる方です。
「お前は、あれこれの過ちを犯したから、決して赦されない。勘当だ。」
と言う方ではないのです。
 わたしたちが正義を振り回すとき、わたしたちは決して隣人を赦しません。
そして、その隣人が徹底的に罰せられることを願います。
ここにこそわたしたちが悔い改めを必要とする機会があるのではないでしょうか。

15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、
 『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

 わたしたちは、最も素晴らしい人生の喜びを、喜ぶことなく過ごしているのではないでしょうか。
わたしたちの人生の中で、仲違いしていた人と和解をし、
それを喜んで、近隣の人を招いてお祝いをするというようなことがあるでしょうか。
 しかし、本当に祝い、喜ぶべきことはそのような和解であり、それを求めることが豊かな人生であり、
天に宝を積むということではないでしょうか。

 「求めなさい。そうすれば与えられる」と、イエス様は教えて下さいました。
何を求めるかが問われているのです。
 この和解を喜ぶ心をわたしたちに与えて下さい、とわたしたちは祈り求めるべきではないでしょうか。
そして、求めるならば、神様はきっと必ず、そのような心をわたしたちに与えて下さるのです。
 わたしたちは相手をうち負かし、勝利することばかりを望んでいます。
そして、その勝利によって、自分が何か偉い人であるかのような虚栄の中に飲み込まれてしまいます。
 しかし、そのような勝利は虚しく意味がありません。
その勝利はあまりに瞬時に過ぎゆくので、
わたしたちは新たな戦いと争いを次々と引き起こしてゆくだけなのです。
そして神から与えられた貴重な人生の時を無駄にしてしまうのです。
 人生の素晴らしさを味わうことなく、偽りの喜びによって、
本当になすべきことをなにもなさずに、人生を終えてしまうのではないでしょうか。

 わたしたちは神によって新しく創造されたものであり、この世のものではありません。
わたしたちがこの和解を喜び、和解を求める心を願うとき、
確かにわたしたちは、主イエス・キリストによって新しく創造されたものなのです。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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