
水戸中央教会 説教 2007年6月17日
「絶望の中の希望」
ルカによる福音書8章40〜56節
40:イエスが帰って来られると、群集は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。
41:そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。
彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。
42:十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。
イエスがそこに行かれる途中、群集が周りに押し寄せて来た。
43:ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、
だれからも治してもらえない女がいた。
44:この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。
45:イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。
人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、
「先生、群集があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。
46:しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。
47:女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、
触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。
48:イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
49:イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。
「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」
50:イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。
「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」
51:イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、
それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。
52:人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。
「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」
53:人々は娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。
54:イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。
55:すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。
56:娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。
病で死んでしまった会堂長ヤイロの娘を、イエス様が生き返らせた奇跡と、
12年出血の止まらない女性がイエス様を信じて癒された奇跡とが、
本日、わたしたちに与えられた聖書の御言葉です。
この奇跡の記録を読まれてみなさんはどのように思われたでしょうか。
あるいは何を考えられるでしょうか。
わたしは、イエス様と自分の生き方の違いというものを改めて知った気がしています。
わたしは牧師で、教会の管理運営に携わっています。
そしてイエス様の福音を伝えることが伝道者としての使命です。
またクリスチャンとして、イエス様に従う者として、従いたいと願っています。
イエス様に従って生きているつもりですが、
この聖書の御言葉を読むとき、そうではない自分を見いだします。
教会や教団という組織の中で、人間関係の中に生きていると、
段々、イエス様が見えなくなって来るように今回、わたしは感じました。
あまり具体的なことは、語ることができませんが、
わたしはイエス様のことを語りながら、
全然違う世界と価値観の中に今なおいるということを思わされたのです。
イエス様は、ここで世の救い主として、神の力によって12年も病んでいた女性を癒し、
死んでしまった12才の子どもを生き返らせています。
わたしにはそのような力はありません。
せいぜい頼まれれば、病院についていったりするくらいで、
わたしを通して病の癒しが起こるというようなことはありません。
医者は薬や手術など、様々な技術を用いますが、
イエス様はそのご自身の力によって完全に病を癒し、死人をも蘇らせる方です。
医学は死者を蘇生させることはできません。
もちろん神はわたしを憐れんでくださっているので、
そのような力を与えられていないとわたしは思います。
もしそんな力が与えられれば、
わたしは高慢になり取り返しのつかない過ちを犯して、
神の恵みから完全に追放されてしまうでしょう。
わたしたちは自らをキリストのように思い込む罠の前にいつも立たされています。
神様がこの罠を仕掛けているのではなくて、自分でそこに落ち込んでしまうのです。
メシアニック・シンドロームと心理学などでは言われますが、
これは自分をいつもメシア、つまり救い主の立場において、
他人を助けることによって自分の存在感を確認しているような人々のことを言います。
このメシアニック・シンドロームと呼ばれる人々は、
自分自身の存在の価値について全く自信がないので、
人を助け、感謝をされることによって、自分自身の存在を確認します。
それは支配欲の裏返しなのです。
自分を頼りとして、助けを求めてくる人々に対しては、大変親切にします。
しかし、その助けを求めてきた人が、自己主張をするようになると、
受け入れられなくなります。もう敵対してしまうのです。
自分に助けを求めて、感謝をしている間は大変にいい人なのですが、
相手が自分と同等、あるいはそれ以上の力を持っているとなると排除しようとします。
排除どころか大変攻撃的になってきます。
助けられた人は自分のいわば子分になるならば良いのですが、
そうでない場合は、なんだかんだと難癖をつけて、追い出してしまうのです。
また権力に対しては大変、従順なのがこのメシニック・シンドロームのタイプの特徴でもあります。
なぜならばこの症状の人々は権力を求めるからです。
支配者になりたいので、支配者と見なす人には従順なのです。
このメシアニック・シンドロームに取り憑かれると、
わたしたちは、自分の為すわずかばかりの人助けでもって、
あたかも自分はキリストであるかのようなとんでもない錯覚に陥ります。
しかし、実際はキリストとは全く違うのです。
よく人助けに一生懸命で、本来的に責任を委ねられていることがおろそかになっている人を、
身の回りに見ると思います。
その中に、このメシニック・シンドロームのタイプが当てはまる人は、
たぶんかなりいらっしゃるのではないでしょうか。
また自分自身がそうだと思う方もいらっしゃるでしょう。
自分で「そうかも知れない」「そうだな」と思えるならば、それはたぶん正常な方でしょう。
人間誰でも、そのような部分はあるからです。
そして、「そうだな」と思えるくらいならば、自分でそうならないように気をつけることができます。
「わたしは絶対にそんなことはない。」
というような方がやはり一番危ないと一般的に言えるのではないでしょうか。
このメシニック・シンドロームは、いわゆるクリスチャン病とでもいうべきものです。
クリスチャンが陥り易い過ちの一つですから、
わたしたちは特に自分の心を見張っていなければなりません。
人助けをすることだけがクリスチャンのすることではありません。
わたしたちは神のなして下さったよい業に対して喜びに満たされて、
感謝として、人助けやらよい業をなすのです。
良いことをしたことによって、人々から感謝され、その感謝を喜ぶのではないのです。
神への感謝から良い業をなすのであって、良い業をなしたことによって感謝を求めるのではないのです。
わたしたちはイエス・キリストの病の癒しの奇跡のような記録を聖書に見ますと、
「信じられない。」「こんなことが起こるはずがない。」
「非科学的で、聖書は信じるに足りない。迷信だ。」などと思ったりします。
「聖書にこんな箇所がなければ、もっと人々に信じやすいものだったのに。」
などと考えたりもするでしょう。
しかし、まさに信じられないような、この奇跡の記録によって、わたしたちは癒され、
神に立ち返ることができるのです。
誰でもが持ちやすいこのメシアニック・シンドロームから、わたしたちを解放するのは、
このイエス様の奇跡の記録そのものであるのです。
なぜならば、わたしたちは、このイエス様の奇跡を通して、
わたしたちの為す良き業というものが、
とるに足りないものであると知ることができるからです。
全財産を投げ出してホームレスや貧しい人を救ったとしても、
それをもって、わたしたちはイエス様よりもすごいことをしたと誇ることはできません。
「自分の体に触れただけで、病が癒された」と言える人がわたしたちの内にいるでしょうか。
いなくていいのです。たまにそのような人を聞きますが、
大抵は新興宗教のウソパッチ教祖で、単にそれで金儲けをしようというような輩です。
救い主が世にいらっしゃいました。
それは、とりもなおさず、わたしたちは世の救い主ではないということです。
わたしたちは同じ救い主、イエス・キリストに救っていただいた同じ兄弟姉妹であるということです。
わたしたちは、それぞれ与えられている使命によって様々な業を行いますが、
それはわたしたちの間に、
イエス・キリストに連なる兄弟姉妹、
という関係以上の上下関係を生み出すものでは決してありません。
わたしたちはイエス・キリストの福音のために働く協力関係に生きているのです。
12年間、出血の止まらなかった女性は、
イエス・キリストの服の房にでも触れれば癒されると信じて、それに触れ、癒されました。
イエス様はおっしゃっています。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
信仰が彼女を病から救いました。確かにそのようなことは今日も起こります。
日本基督教団のような、他の教派から見れば大変不信仰な教団においても、
そのようなことは起こります。
わたし自身、「医者から癌だといわれたが、祈ってその癌が消えた。」
と言っていた牧師先生から直接、お話を聞いたことがあります。
このようなことから、ある人々は、
「病気になるのは信仰が足りないからだ。」とか
「信仰すれば、医者に行く必要などない。薬など飲む必要はない。」
「輸血などもってのほかだ。」と主張します。
このような人々には注意をしなければなりません。
一見、信仰の論理から見ると正しいようですが、それは現実的ではないからです。
そのような人々の言葉に従って、病気を悪化させて、取り返しがつかなくなってしまったり、
命を落とした人々が現実にいるからです。
彼らは、これらの人々を「信仰がなかったからだ」と言うひと言で片づけてしまいますが、
それは正しいことではありません。
なぜならばイエス様は、現実に確かに病を癒されたからです。
むしろ、自分たちの信仰によって、その病にある人を癒せなかった責任を彼らはとる必要があるのです。
そして、「信仰のないわたしたちをお許し下さい」と彼らは祈り悔い改めるべきなのです。
イエス様の奇跡は、わたしたちの高慢と思い上がりをうち砕きます。
イエス様のようには、わたしたちは全然出来もしないし、及ぶ訳もないのに、
ちょっと人々の間で良いことをしたり、頼りにされたりすると、
自分はあたかもイエス様のようであるかに思い込むのが人間の愚かさです。
この愚かさがわたし自身の中に確かにあることを認めることが大切ではないでしょうか。
このことを認めることが、聖書の御言葉を受け入れることです。
決して「自分にはそのような愚かな思いはない」と思うことではありません。
なぜならば聖書にはこう書かれているからです。
最初の人間であるアダムとエバは、楽園でなに不自由なく暮らしていましたが、
「それを食べると神のようになれる」と言う蛇の誘惑の言葉にだまされて、
食べてはならない木の実を食べて、楽園を追放されました。
この誘惑に乗せられたと言うことは、わたしたち人間には、心の中に誰でも
「神のようになりたい」という思いがあったからです。
これが人類の罪と過ちの根源であると聖書は教えています。
わたしたちは神を崇めるのではなくて、神のように崇められたいと誰もが思っていると、
聖書は指摘しているのです。
この聖書の指摘を自分のこととして受け取るところから信仰は始まります。
そしてその罪を赦してくださいと祈ることがわたしたちの為すべきことです。
そして、その祈りは聞き届けられているのです。それがイエス・キリストです。
主は哲学者、宗教家として世に来ませんでした。
主はただこの世の真の救い主キリストとしてこの世にいらっしゃり、
その真実を示して下さいました。
主はご自身権威あるものとして語り、
そして力ある業によってその真実を明らかにしてくださったのです。
本日のように、人間にはまねのできない仕方で病を癒し、死人を蘇らせ、
そしてついにご自身が十字架にかけられて殺され、そして三日目に復活されたのです。
人間にはどれも決してできないことです。
このことによって、わたしたちは決して神になれることはできないことを明らかにしてくださいました。
そして、わたしたちが神になる必要はないのです。
なぜならば、この世界はそのままで素晴らしいからです。
ただわたしたちにできるのでは、神への感謝と賛美のみが許されています。
あなたの人生は、イエス・キリストを信じ、主として受け入れるとき、
そのままで素晴らしいものへと変えられるのです。
12年病に苦しみ続けた女がイエス・キリストを信じて、解放され、
新たな人生を歩みだしたように、
また12才の少女が死んで再び蘇ったように、
わたしたちを苦悩と悲しみから解放することができる方はイエス・キリスト、
この方ただ一人なのです。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988
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