
水戸中央教会 説教 2007年6月10日
「与えられたチャンスを生かす」
ルカによる福音書14章15〜24節
15:食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、
「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。
16:そこで、イエスは言われた。
「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、
17:宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、
『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。
18:すると皆、次々に断った。
最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。
どうか、失礼させてください』と言った。
19:ほかの人は、
『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。
どうか、失礼させてください』と言った。
20:また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。
21:僕は帰って、このことを主人に報告した。
すると、家の主人は怒って、僕に言った。
『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、
目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
22:やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、
まだ席があります』と言うと、
23:主人は言った。『通りや小道に出て行き、
無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。
24:言っておくが、あの招かれた人たちの中で、
わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」
神の国についてのイエス様のたとえ話が、わたしたちに今日与えられた聖書の言葉です。
ある人が大宴会を開こうとして大勢の人を招きました。
この「ある人」というのは、言うまでもなく、神様のことがたとえられています。
宴会の時刻になったので、僕を送り、
「どうぞ、いらして下さい。」と丁重に招待客を迎えに行かせました。
すると、招待客たちは皆、次々とこれを断ってしまいました。
聖書にあるとおり、一人は畑を買い、他の人は牛を買ったので、
それを見に行く必要があると理由を述べます。
妻を迎えたばかりなので行くことができないという人もいました。
僕が帰って、このことを主人に報告しますと、主人は怒って、
「街へ出ていって、貧しい人や体の不自由な人々を連れてきなさい。」と命じます。
そして、宴会は招かれていなかった人々で一杯になったということです。
最初に言いましたとおり、大宴会を開こうとした「ある人」とは神様のことで、
大宴会は「神の国」「天の国」を表しています。
「神の国」に入ることができるのは、招かれた人ではなくて、
招かれていない人々であったということです。
招かれたのに理由をつけて断った人々は、愚かだとわたしたちは、思います。
そして、自分は、このように愚かではなくて、富などのこの世のものに惑わされることなく、
こうして日曜日は教会に出席し、神の招きに応えていると思います。
日曜日の礼拝は確かに、神様の招きに対する応答であり、
わたしたちはこの世の事柄から離れてここに集って、神様に感謝と賛美を捧げています。
しかし、わたしたちの心の中で、神様が第一番の優先順位になっているでしょうか。
まずこの世の生活があって、
余裕があれば信仰のために時間を使うということがほとんどではないでしょうか。
わたし自身も自分一人のための、祈りの時間を作るということは、
非常に難しいことを改めて思わされました。
確かに毎日、聖書を読み、祈りますけれど、それらは礼拝や祈祷会などの準備であって、
純粋な祈りの時間ではありません。
また自分の考えが、まず神様と共にあることを第一としているかというと、
全然、そうではないという現実を目の当たりにします。
牧師として神と教会に仕えるという立場にありますが、
このような職業の中にも名誉欲や金銭欲やその他の欲望が入り込み、
神がないがしろにされてしまっていることがほとんどです。
最近は以前よりは多少マシで、
自分の中にもそのような悪が入り込んでいることを認めることができるようになってきました。
以前は、それらの悪いことは皆、他の牧師のしていることで、わたしは批判さえしていればよかったのです。
「ある人が盛大な宴会を開きました。」
この「ある人」という言い方は大変、巧妙な表現であると思います。
「ある王様」とか「ある大臣」「ある大金持ち」とはなっていないからです。
わたしたちも、招待主が天皇陛下とか総理大臣などということだったら、
「畑を買ったから」とか、「牛を買ったから」、「妻を迎えたばかりですから」
というような理由で招待を断ったりしないはずです。
もう万難を排して、招待に応じるのは明らかです。
また「主なる神が、盛大な宴会を開こうとした」と、あったならば、
招待客たちが次々と断るというようなことはなかったではないかと思います。
しかし、先ほども言いましたように、わたしたちの現実を見ますと、
事態は全く逆であることが分かります。
わたしたちは信仰がありませんので、
実のところ「神様から招かれた」ということならば、
「それは何時行ってもいい。」と思っているのです。
神がいるとも思っていませんので、自分の財産を殖やすことの方が重要なのです。
「畑を買う」「牛を10頭買う」というのは、
当時の経済価値から見て大変な金額のことであったと想像できます。
今日でも土地を買うというようなことは、
一般の市民にとってそんなに気安くできることではありません。
「妻を迎える」ということも人生の幸福を決定する大変重要な要素です。
そう考えますと、この神様の招待を断った人々は皆、この世の目で見るならば、
幸福な人々であったということができます。
土地を買うことができ、財産をこれからどんどん殖やすことができ、
恵まれた家庭生活の中に暮らしている人々が神の招きを断ったのです。
幸福という言葉の意味が、ここに問われているのではないでしょうか。
そして、世の多くの人々が求める幸福は、
わたしたちを神様から引き離してしまうと言うことが言われているのではないでしょうか。
14:17 宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、
『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。
「もう用意ができましたから、おいでください。」と招待主は僕を送って言わせています。
これに対して、応える言葉は、「ありがとうございます。お待ちしていました。」です。
わたしたちの生きる基本的な態度として「待つ」という姿勢があるでしょうか。
神の国を待ち望んで生活しているという気持ちがわたしたちの生活を支配しているでしょうか。
わたしたちは待ってなどいないのです。
では何をしているかというと、神を待たせているのです。
そして、自分の用事に一生懸命になっているのがわたしたちの現実です。
もちろんそれは、日々の生活をおろそかにして、
何もしないでボーっとしていればいいというのではありません。
わたしたちの日々の生活は待ち続けるためにあるのです。
「神を待ち望む」ここにこそわたしたちの人生の中心があります。
わたしがどれほど、素晴らしい人になったのか、どんなに素晴らしい行いと愛の業を行ったのか、
どんなに人々から尊敬され、賞賛を集めたかということが問題ではありません。
ところが、わたしたちはこのようなことを人生の目的にしてしまいます。
そして、自分や他人の人生を評価するという愚かなことを行います。
ですから、わたしたちの間に争いが絶えず、人間関係の軋轢が生じるのです。
「神を待ち望む」ということがわたしたちの人生の中心に据えられているならば、
このような自分の行いや業績を誇ったり、人の行いを妬んだりということはないはずです。
なぜならば、わたしたちの誇りは、わたしたちを宴会に招いて下さる神様その方であるからです。
人の行いや業績や富を羨んだり妬んだりすることはありません。
なぜならば、そのようなものは神様が宴会に招いて下さるかどうかということに関係ないからです。
14:21 僕は帰って、このことを主人に報告した。
すると、家の主人は怒って、僕に言った。
『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、
目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
貧しいこと、体の不自由なこと、これらは人生の不幸であるとわたしたちは普通思ってしまいます。
神様から見放されたことだとわたしたちは思ってしまいます。
しかし、この世の不幸が、神の国に招かれ、そしてその招きを受け入れるチャンスとなると言われています。
不幸というのはありがたいものなのです。
何の悲しみもない人生など、それは薄っぺらな生きた意味のない人生なのではないでしょうか。
イザヤ
53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
イエス様は悲しみの人であると預言者イザヤは預言しています。
生まれたばかりの赤ちゃんが病の中で苦しみながら、
なすすべもなく死んでゆくということにわたしたちが直面することがあります。
「神様は一体、どこにいらっしゃるのか。なんてむごいことを神様はなさるのか。」
と、わたしたちは思います。
しかし、神様にとって、その赤ちゃんの小さな命も、
100才まで生きた人の命も同じ価値があるのであり、
全く同じように神様の愛は注がれているのではないでしょうか。
「不幸というのはありがたいものだ」というのは、なかなか言うことに勇気がいる言葉です。
自分自身、こう言っていて、「そんなにありがたいなら、不幸にしてあげよう。」と、神様が言ったら、
「どうもありがとうございます。御心のままになさってください。」とは、決して言えません。
「我に艱難を与えて下さい。」と、ある有名な武将が祈ったという故事がありますが、
それは、決して、「刀が握れなくなってしまうように右手を切り落として下さい。」
というような意味ではありませんでした。
「もっと立派な武将になれるための訓練を与えて下さい。」という程度のことでした。
神様の現実と真実をわたしたちは受け入れることができないのです。
神様はこのわたしたちの弱さをご存じで、それを責めたりはいたしません。
主は、主の祈りの中でこう祈りなさいと教えて下さいました。
「我らを試みにあわせず、悪より救い出し給え」
神の真実に直面するとき、わたしたちはわたしたちの弱さを、
お許しくださいと祈らざるを得ないのではないでしょうか。
神は、わたしたちを苦しみの中から救い出して下さる方です。
わたしたちに襲いかかるあらゆる不幸から、最終的に決定的に救い出し、
永遠の命に神はわたしたちを与らせてくださる方です。
わたしたちは弱いですが、わたしたちの神は強いのです。
そして、この神に打ち勝つものは何もありません。死さえも、神に勝つことはできません。
主イエス・キリストは確かに死者の中から復活されました。
わたしたちを襲う不幸も、その不幸がわたしたちの上に勝利をするということは決してありません。
なぜならば、わたしたちは確かに復活に与るからです。
預言者ダニエルは、かつて偶像礼拝を王に強要されたとき、次のように語りました。
3:17 わたしたちのお仕えする神は、
その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。
3:18 そうでなくとも、御承知ください。
わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。
わたしたちの死を通しても命を通してもただわたしたちの神の御名が崇められますように。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988