
水戸中央教会 説教 2007年5月20日
「キリストの昇天」
マタイによる福音書28章16−20節
16:さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
17:そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
18:イエスは、近寄って来て言われた。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
19:だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(パブテスマ)を授け、
20:あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
十字架につけられて殺されたイエス・キリストは、三日目に復活し、
弟子たちにご自身の復活の姿を示されました。
マタイによる福音書28章16〜20節は、
復活したイエス様が弟子たちに与えた最後の言葉となっています。
20:18 イエスは、近寄って来て言われた。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
「あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と、イエス様は命じています。
これはいわゆるキリスト教を伝える、伝道のことを言っています。
イエス様が、このように命じていらっしゃるということは、
つまり、わたしたちは、放っておいたら、伝道など何もしないという現実を前提としています。
わたしたちはクリスチャンとなると自然に伝道をするようになるならば、
イエス様は命じる必要はなかったでしょう。
一頃、「伝道などする必要はない」とか、
「伝道というのは教会が自分たちの勢力の自己拡大を目指すもので、
自分たちの利益のためにするものだから、すべきではなく。
もっと他者と隣人を愛することが大切なのだ。」
というようなことが言われました。特に日本基督教団ではこの傾向が強く、
伝道というと敵視さえされるような状況がありました。
しかし、このことは「伝道、伝道」と言うばかりで、
実際に他者に対する愛や思いやりがないがしろにされるような状況が当時あり、
これに対する批判であって、伝道そのものが否定されたことは決してありません。
そこでは伝道の仕方、方法が問題だったのです。
「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と、イエス様はおっしゃっています。
これは大変に誤解をし易い言葉です。
わたしたちは、すべての民をイエス様の弟子にするのではなく、
わたしたち自身の弟子にしようとしてしまうからです。
歴史を振り返り、また現代社会を見ても、そのような例は枚挙にいとまがありません。
「行って、すべての民をあなた方の奴隷にしなさい」
というようにイエス様の御言葉は誤解されてきました。
ヨーロッパの大航海時代や、近現代の植民地で起こった、
侵略と略奪の事実やアメリカ合衆国の黒人差別なども、
わたしたちがこのような誤解をいかに起こしやすいかということの証明です。
また多くのカルト的なおぞましい、信者を食い物にしている新興宗教もそうです。
もはや名前を挙げるまでもないでしょう。
わたしは、「だから過去のキリスト教会は間違っていた。」とか、
「アメリカの教会は黒人差別をするような教会だから、ダメな教会だ。教会ではない。」
などと言おうとしているのではありません。
わたしはイエス・キリストの正しさと愛を今一度、はっきりと見いだしたいのです。
人間というのは不思議なもので、あまり物事がよく分からない内は批判的です。
それは理解してゆく一つの過程なのでしょう。
そして、理解が進んできますと、批判ばかりではなくて、
いい面、素晴らしい点を評価ができるようになってきます。
人の欠点を見いだすのは簡単ですが、長所を見いだすのは、なかなか熟練を必要とします。
このことは、わたしたちの日本基督教団という、
ちっぽけなわずかに70年に満たないような、
短い歴史しかない教会についても同様のことを言うことができます。
日本のプロテスタント教会は長くて100年少々の歴史しかありません。
日本基督教団は、その成立から偶像礼拝に他ならない天皇崇拝を取り入れ、
戦争に協力し、近隣諸国に対して犯された犯罪行為の片棒を担ぎました。
しかし、だからと言って、この日本基督教団に属した、
すべてのクリスチャンが忌み嫌うべき極悪人であったのかというと、
全くそうではありません。
困難な時代の中で一生懸命に信仰を守り続けようと努力した人々がほとんどだったのです。
日本では、一般社会ですら大変に有名になっているAmazing
graceという讃美歌があります。
色々なコマーシャルにもバック・ミュージックで使われるほどで、
わたしたちクリスチャンにとっては不思議なくらいですが、
この歌は、もと奴隷船の船長が、回心して伝道者となって作詞されたものです。
つまり、奴隷貿易に関わることが、良いことではないという前提が、
この讃美歌の背景にはあるのです。
ですから、あのヨーロッパの植民地時代や十字軍のような時代にも、
イエス・キリストを信じて誠実に生きたクリスチャンは数え切れないほどいるはずなのです。
それが見えないわたしたちがむしろ問題なのではないでしょうか。
先週、わたしたちは多くのインドネシア人のクリスチャンの方々と素晴らしい合同礼拝を持ちました。
彼らがおかれている労働環境や生活環境は決して褒められたものではありません。
しかし、このことに対してわたしたちは見て見ぬふりをしています。
どうしようもないというのがわたしたちの実際です。
わたしたちはまだ見て見ぬふりができるだけ、幸せと言うことができるのかも知れません。
普通ならば関わることも全くなく過ごしてしまうことができるからです。
「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」
と、イエス様はわたしたちに命じていらっしゃいます。
しかし、わたしたちもまた、かつての植民地での出来事や新興宗教のように、
隣人をキリストの弟子にするのではなく、自分自身の弟子にしようとしていることが度々です。
弟子ならば、まだいいでしょうが、それはほとんど奴隷と同義語です。
わたしのような牧師という立場は、この過ちを最も犯しやすいと思います。
実際、そのようなことは頻繁にわたしの心の中に起こります。
自覚しているならば、それはまだいい方で、無自覚に過ちを犯しているということが、
このような場合、ほとんどです。それは、みなさんでも同じだと思います。
ですから、わたしたちは祈り求めるべきなのです。
「すべての民をイエス様の弟子にするために働くことができますように」
と祈り求めるべきことなのです。
「どうか、いつも自分の奴隷を増やそうとする、愚かなよこしまな思いからわたしをお救い下さい。」
と祈るべきなのです。
ですから主イエス様は、わたしたちに祈りを教えてくださいました。
イエス様は、わたしたちに主の祈りを教えてくださいました。
天にまします 我らの父よ
願わくは 御名を あがめさせ給え
御国を来らせ給え 御心の天になるごとく 地にもなさせ給え
我らの日用の糧を今日も与え給え
我らに罪を犯す者を 我らが赦すごとく 我らの罪をも赦し給え
我らを試みにあわせず 悪より救い出し給え
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり アーメン
父なる神様ではなく、わたしたちは、
そのことを為すわたしたち自身が誉め称えられることを望みます。
神の国ではなく、自分の王国、たとえそれがどんなにちっぽけなものであったとしても、
わたしたちは、自分の王国を求め続けます。
働いている人ならば、その職業上での成功でしょうか。
また家庭にいる場合は、子どもやその他の家族に対して自分が支配者であることを求めます。
「わたしが支配者なんて、そんなことはない。」
と、考えるかも知れませんが、誰かが自分に対して不当なことをしたとき、
それが、案外些細なことであっても、わたしたちは赦せないことがあるのではないでしょうか。
その怒りと赦せないという気持ちは、
わたしたちが支配者になろうとしている心の存在を明らかにします。
神の前に自分の至らなさを知っているならば、
わたしたちはそのような怒りを持たないはずだからです。
「我らに罪を犯す者を 我らが赦すごとく 我らの罪をも赦し給え」
という祈りの大切さがここに明らかになります。
この祈りはわたしたちの心を測る物差しなのです。
ですから、「あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と言う、
イエス様のご命令は、わたしたちにとって祈ることなくして、実行できる命令ではありません。
祈らないから、わたしたちは伝道ができないのであり、
祈らないから、伝道が難しいと思うのです。
祈らずして、伝道を行おうとすることは、
スキーを履かずにスキーをしようとするようなものです。
伝道は、何か人を上手に誘導して、知らない内に信じ込ませるというようなテクニックではありません。
そうではなくて、わたし自身が、イエス・キリストを信じて、実際に御言葉に従って生きることです。
「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」
と、イエス様はおっしゃっています。
わたしの人格の素晴らしさと善行そして能力に人々が感嘆して、
他の人がクリスチャンになるのではありません。
そうではなくて父なる神と子なるイエス・キリスト、
そして聖霊の力にその人自身が満たされて、イエス・キリストを告白して洗礼を受けるのです。
「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」
と、主イエス様はおっしゃっています。
まず、わたしたちは何が命じられていたかを知る必要があります。
そのために、キリスト教会は、礼拝の中で聖書を読み、イエス様の言葉を思い起こすのです。
そして、日々、わたしたちは聖書の言葉に触れ、イエス様の言葉に従って生活をしようとするのです。
「すべて守る」ということが言われています。
「すべて」とは、わたしたちがイエス様のご命令をすべて暗記して、教えるということではありません。
法律の条文を伝えるのが、わたしたちクリスチャンの人生の目的ではありません。
それはプレゼントの包み紙や箱だけを渡すようなものです。中身が肝心です。
中身がなければプレゼントは意味がありません。
それはイエス様がご自身の御言葉の通りに生きてくださったように、
わたしたちも、イエス様の御言葉を実行するということです。
人を批判する正しさではなく、人々の賞賛を求めて迎合するのではありません。
わたしたちはイエス様がわたしたちを愛して下さったように、愛する愛を求めます。
愛する者は、イエス様がそうであったように、正しいがために人々に批判され、
あしざまに言われるのです。
わたしたちはたった一人の道を歩まねばならないことがあるのです。
いや、むしろわたしたちが真実に生きるならば、
わたしたちは、この世の目には、批判され、孤独と孤立の中に追い込まれるのです。
ですから、イエス様はおっしゃいました。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
この言葉によって、このイエス様の言葉に導かれて、
わたしたちは、孤独と孤立を乗り越え、人生の最終目的に到達することができるのです。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988