
土浦教会 代務説教 2007年5月6日
互いに愛し合いなさい
ヨハネによる福音書15章12〜17節
12:わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
13:友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
14:わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。
僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。
父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
16:あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。
あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、
また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、
わたしがあなたがたを任命したのである。
17:互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。
この言葉は、わたしたちクリスチャンの掟であり、
わたしたちの主イエス・キリストの命令であると言われています。
つまり、わたしたちは本来的に愛し合うことができないという現実があるのです。
もし、イエス様から言われなくても自然に人が人を愛することができるならば、
イエス様は、わたしたちに「互いに愛し合いなさい」ということを命令する必要はなかったでしょう。
「互いに愛し合いなさい」とイエス様はおっしゃいました。
しかし、わたしたちは、わたしたちが互いに愛し合うのではなく、
争い、憎み合うということを教会生活の現実の中で体験します。
教会の中ばかりでなく、家庭や職場や地域社会の中においても、
わたしたちクリスチャンが、互いに愛し合うことをせず、憎み合い、争うという現実を知っています。
それはわたしたち個人が関わっている小さな社会ばかりでなく、国際社会においてすら同様です。
「互いに愛し合いなさい」とは、裁きの言葉ではありません。
しかし、非常にしばしばこの言葉は裁きの言葉として、
自分ではなく他者の責任を追及する言葉として用いられます。
たとえば、教会の中に何か問題が起こってきて、争うということが起きます。
そのような状況を見て、わたしたちは案外簡単に
「あの教会は、互いに愛し愛さないというイエスの掟に従うことのできないダメな教会だ。」
と言ってしまいます。そして、その教会を去ってゆくということが往々にしてあります。
またそれは、個人や家庭やその他のグループについても起こりうることです。
しかし、「互いに愛し合いなさい」という言葉は、
この言葉を聞く者、語る者すべてに与えられている命令であって、
わたしたちがこの言葉によって人々や教会を裁き、見捨てる理由ではありません。
そうではなくて、このイエス様の言葉によって、
争い合い、憎み合っている教会のただ中に、わたしたちが留まり続ける根拠なのです。
「キリスト教は、『すべての人を愛する』とか偉そうなことを言っているが、
この世の中、キリスト教国同士だって争いをするし、キリスト教なんて意味がないんじゃないか。」
というようなことは、みなさんも聞いたことがあるのではないでしょうか。
新興宗教などは、このあたりの事情を利用して、
「ご覧なさい、キリスト教国同士で戦争が絶えないじゃないですか。
だからキリスト教ではダメなんですよ。でも本当に人類はみな兄弟です。
新しい○○教の教えに従えば、本当の平和が世界に実現されます。」
などと言います。
彼らは、キリスト教を批判することによって自分たちの正当性を訴えますが、
自分たちがそれでは争わないのかというと、単に自己批判はしないというだけのことです。
わたしたちの日本基督教団の中でも争いは起きますし、憎み合うこともあります。
牧師同士がののしり合うということも珍しいことではありません。
牧師と教会員、教会員同士でぶつかることも日常茶飯事です。
土浦教会や水戸中央教会、個々の教会の中でも争いは起こります。
「互いに愛し合うはずの教会で、なぜこんなことが起きるのか」
などとわたしたちは思いますが、
それはわたしたちが身の程知らずで思い上がっているだけのことです。
愛するということは、そんな簡単なことではないからです。
人間にとって愛するということは大変に困難なことなのです。
もちろん人が人を愛することは自然なことです。誰にでも備えられている能力の一つです。
親は自分の子を愛する。それは比較的、当たり前のことです。
だからといって、人間は誰でも愛せるかというと、そうでは全くありません。
自分の言うことを聞いてくれる人、
自分の立身出世などの利益になる人を大切にしてあたかも愛するようにすることはありますが、
一度、その人が自分の利益を妨害する人、奪う人となれば、直接争うことはないとしても、
愛するなどということはあっという間に消え去ってしまいます。
「覆水盆に還らず」などと言うのはある意味、愛というのは簡単に消え去ってしまい、
そして再び、その人を赦して愛するということは不可能だということを言っていることわざです。
礼儀作法というのは、いわばこの難しい、一度壊れてしまえば、
修復することのできない人間関係を継続するために生み出された人間の知恵です。
わたしは牧師ですが、茨城地区や関東教区の牧師の交わりの中で、
意見を異にして衝突するということは度々あります。
一度、ぶつかってしまうと、
その人に対して、普通の気持ちで接することができなくなることを実際に経験することがあります。
しかし、わたしたちの主イエス・キリストはこんなわたしたちだからこそ
「互いに愛し合いなさい」と命じて下さったのです。
そして、この「互いに愛し合いなさい」というイエス様の言葉は、
S会長の「人類みな兄弟」というただのかけ声とは違うのです。
イエス様はこのご自身の言葉を命をかけて生きて下さいました。
主は十字架にかけられる道をご自身で歩まれたのです。
何か人に傷つけられるような事態になったとき、
わたしたちは自らが十字架の道を行くのではなくて、
その傷つけた人を十字架につけようとします。
わたしも衝突した人はなるべくつき合わないようにしようと思いますし、距離を置きます。
しかし、そのようなわたしたちに主は「互いに愛し合いなさい」と命じていらっしゃるのです。
愛するということは大変困難なことであることをこの時、わたしは知ります。
トラブルがあって憎んでいる相手を愛するということはできることではありません。
しかし、このことこそ、本当にわたしたちが求めるべきことなのです。
この世にあって求めるべきことは、
わたしたちが人生の中で様々に衝突し争う人を、
どのようにして愛することができるかということなのです。
この世の人生において、最も意味あること、唯一意味のあることは、
素晴らしい業績や能力、富など目に見えることではありません。
そうではなくて、わたしたちの心がどのようなものへと変えられていくかということにあります。
「あなた」という人格が、どのように成長していくかが問題なのです。
「神は霊である」と聖書は言います。
霊的な存在としてのわたしたちが、
どのように神に向かって伸びていくかどうかが、わたしたちの人生において唯一決定的なことです。
5月3日は憲法記念日でした。わたしもお誘いを受けて9条を守る会の系統の講演会に出席しました。
早稲田大学の水島朝穂先生が講師でした。
水島先生によると
「今の憲法は現実的ではないからといって、変える必要があるというのは間違いだ」
と言うことでした。
憲法は、いわば人間社会の目標を定めているものだから、
現実とずれがあって当然なのだそうです。わたしはなるほどなぁと思いました。
人権の尊重とか男女の平等とかも憲法にうたわれていますが、
この世の中には人権が尊重されていないことは沢山ありますし、
60年たった今でも男女は全然平等ではありません。
だからといって憲法は現実に即していないので変える。
人権の尊重はしなくてもよいとか、
男女は平等でなくてよいというように変える必要はありません。
聖書も似たようなところがあると思いました。
「殺すな」と十戒にはあります。
人間の歴史を振り返って、殺すことのなかった時代など決してありませんでした。
そして、これからも人間は人間を殺し続けるでしょう。
だからといって十戒の「殺すな」という戒めは意味がないのではありません。
現実に即して、聖書からこの言葉を取ってしまったり、
「殺すな」ではなくて「殺せ」に変えてしまおうとするならば、それは愚かなことです。
この殺し合う人間の世界で今も聖書は、
この「殺すな」というひと言によっても光を放ち続けているのではないでしょうか。
この「殺すな」という神こそ唯一真の神であることを証しし続けているのではないでしょうか。
現代日本社会は世界の中でも非常に安全な環境の中にありますから、
あまりピンと来ないかも知れません。
しかし、現在のアフリカのソマリアのような、
無政府状態で殺人が日常化されているような環境では、
聖書の神の言葉「殺すな」は大きな輝きを放っているはずです。
その言葉の意味の大切さが切実なものではないでしょうか。
「互いに愛し合いなさい」というイエス様のご命令も全く同様です。
わたしたちが争ってばかりいて、現実に即していないから、
わたしたちはこのイエス様の言葉を変えてしまって良い訳がありません。
また、わたしたちが従い得ないからといって、
このイエス様の言葉に力がないのではありません。
そうではなくて、この御言葉をさえ行い得ない、
わたしたちの無力さをわたしたちは告白し、
主に赦しと救いを求めることこそが、わたしたちの為すべきことなのです。
「互いに愛し合いなさい」というイエス様の言葉は、
わたしたちを高慢から救い出し、謙遜と悔い改めに導く命の言葉です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988