水戸中央教会 説教                     2007年4月29日

「命のパン」

ヨハネによる福音書6章34〜40節

 34:そこで、彼らが、
 「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
35:イエスは言われた。
 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、
  わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
36:しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。
37:父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。
 わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
38:わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、
 わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
39:わたしをお遣わしになった方の御心とは、
 わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
40:わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、
 わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」


 エホバの証人や統一協会、幸福の科学、創価学会など日本には沢山の新興宗教がひしめいています。
これらの宗教は一様にキリスト教会を批判しています。
そして、彼らの指摘によるならばキリスト教国で、
牧師が戦争に行く兵士たちの為に祈ったりするのは神の教えに反しているということや、
ヨーロッパ列強による植民地支配を行ったのはクリスチャンであったということなどが挙げられます。
 クリスチャンが政治に関わって、世の中を余計、混乱させ、また神の教えをねじ曲げていると言います。
 彼らは、
「だから、キリスト教会ではなくて、新しいわたしたちの組織が必要なのだ。
わたしたちの組織こそが正しいのだ。」
と主張します。
彼らの批判は一見正しいように見えるのですが、
うかうかとこのような批判にのせられてはなりません。
 彼らのいい方は非常にワンパターンなところがあります。
様々な批判を致しますが、共通している一点があります。
それは、キリスト教会の批判をして、自分たちの正しさを主張しますが、
自分たちの過ちについては一切口を閉ざしているということです。
 彼らの最大の過ちは、自分たちの組織は過ちを犯さない完璧な組織であると言い張ることです。
そして、自らが過ちを犯していても、
「それには深い神の御心があるのだ」とかウソにウソを塗り固めてゆきます。
これがいわゆるカルト宗教と正常なキリスト教とを分けるものではないでしょうか。

 わたしたちの信仰は過ちを認めることの上に成り立っています。
わたしたちのキリスト教会は過ちを認めることにおいて、その正統性があるのです。
もちろん、わたしたちのキリスト教会自身、過ちを認めることができず、
自分自身を絶対化する傾向をもっています。
 そして、そのようなことは過去にあり、歴史的事実であり、今も起こってくる誘惑です。
しかし、わたしたちはこれを誘惑と見なし、自らの過ちを告白するときにこそ、
わたしたちのキリスト教会の素晴らしさが光り輝くのです。
それはわたしたち個人の信仰生活においても同じではないでしょうか。

 イエス・キリストを信じるということは、自らの過ちを認めて、
その救いにすがるということです。
 決して、わたしたちはイエス・キリストに完璧な人間を見いだして、
完璧になって、わたしたちがキリストになろうとするのではありません。
そうではなくて、イエス・キリストの完璧さの前に、自らの不完全さを認め、
「自分は正しい」という思いを捨て去ることが重要なのです。
 イエス・キリストと出会うとき、
それは「わたしは間違っていた」ということをあからさまに知るときです。
「自分は正しい」という思いが、イエス・キリストに出会うという恵みの中で、
消え去ってゆくのです。
これが救いの時です。
 わたしが救われているという確信は、わたしが罪を告白することができることにあります。
決して「わたしは正しい人間だ」とかわたしの正しさを確信するところに、
イエス・キリストの救いはありません。
そして、わたしたちはイエス・キリストを信じるがゆえに、自らの罪を告白しても、
その罪を追求されないのです。
 わたしたちが過ちを告白しても、その過ちの償いを要求されませんし、
教会がこの過ちの償いを求めたり、単純にわたしたちが、人の過ちを非難したりしないのです。
なぜならばわたしたちの罪はイエス・キリストの十字架の血潮によって赦されているからです。
ここに救いがあります。
ですからわたしたちは互いに許し合うのです。

6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
6:35 イエスは言われた。
  「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、
   わたしを信じる者は決して渇くことがない。
6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。
6:37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。
  わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、
  わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、
  わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、
  わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 主イエス・キリストは、わたしたちの命のパンであるとおっしゃっています。
そして、主は、主のもとに来る人を決して追い出したりしないともおっしゃっています。
 ここで、わたしが良い人であるとか、悪い人であるかは問われていません。
主のもとに行き、主を信じることだけが求められているのです。

 わたしは10年ほど前に、とあるエホバの証人のご家族と会う機会がありました。
短い時間でしたが、そこに居合わせたエホバの証人のお子さんがわたしに聞いた言葉が忘れられません。
彼はこう聞いたのです。
 「先生は小さい頃、お父さんお母さんにとってよい子だった?悪い子だった?
僕はお父さんやお母さんにとってよい子なのかな、悪い子なのかな?」
 あまりにも典型的なエホバの証人の考え方が彼の言葉に表れていてわたしは驚きました。
わたしは答えました。
 「あなたは、お父さん、お母さんにとってよい子でも悪い子でもない。
あなたはお父さん、お母さんにとって大切な子どもだよ。」

 神は愛であると聖書は証ししています。
神は、わたしたちを良いか悪いかではなくて、わたしたちを愛し、
大切に思っていらっしゃるので、神の御子イエス・キリストを使わしてくださって、
わたしたちをこの滅び行く世界から救い出して下さったのです。
 わたしたちはイエス・キリストを命のパンとして受け取り、生きているでしょうか。
わたしの価値は、わたしの能力や富やわたしのするよい行いにあると思っていないでしょうか。
もし、わたしたちがそう思っているならば、
わたしたちはイエス・キリストを命のパンであるとは思っていないのです。
 いわゆるこの世の食物によってわたしは生きており、神の愛を知らないのです。
つまり永遠の命の中に生きていないのです。

 わたしたちは今、この世にあってすでに永遠の命の中に生きることができます。
イエス・キリストを信じるということはそのようなことです。
それは、イエス・キリストが与えて下さった命を受け取ることです。
命は命によって紡がれてゆきます。

 わたしたちのこの世の食物も、
全て生きていたものの命の犠牲によってわたしたちの命がつながれています。
同じように永遠の命もまた、イエス・キリストの命の犠牲によってわたしたちに与えられるのです。
 神は、あなたが素晴らしい人であるので、
あなたを惜しんで、イエス・キリストをこの世に遣わして救い出そうとされているのではありません。
ただ神はわたしたちを愛して下さって、
イエス・キリストを使わしてわたしたち全てを永遠の命に与らせようと、
主キリストを十字架につけてわたしたちのための犠牲とされたのです。

6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、
  わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。

 イエス・キリストを見て信じることが、わたしたちが永遠の命を得ることです。
輸血を拒否したり、何百人の人に伝道することが、永遠の命を得る条件ではありません。
そして、主ご自身がわたしたちを復活させて下さいます。
 わたしがこの世でなした素晴らしい業や業績、
よい行いのためにわたしは復活するのではないのです。
 イエス・キリストを見て、信じるということは、
イエス・キリストの素晴らしさを見て、
そして「この方こそわたしの救い主である」と、信じることです。
 ですから、わたしたちは祈ります。
 「わたしたちを試みに会わせず、悪から救い出して下さい。」
と、祈ることができるのです。
 主の祈りにある
「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」
という祈りです。
 わたしたちは、自分で試みに打ち勝ち、
悪ではなく善を行うことができないということをこの祈りは前提としています。
 わたしたちはこのことを知っているでしょうか。
良いこと、善をなすとき、それは、わたしたちが為しているのではありません。
わたしたちの内にいて、わたしたちと共にいて下さるイエス・キリストご自身が良いこと、
善をなして下さっているのです。

 神の御業の素晴らしさは、このどうしようもない罪人であるわたしたちが、
神の救いに入れられ、悪人が善人へと変えられていくことにあります。
 この世に良い人などいないのです。
「自分は良い人だ」とわたしたちが考えるならば、
それはただ、わたしたちが神を知らないというだけのことです。
 絶対的な神の存在を知ったとき、わたしたちは自分の悪と醜さを知ります。
わたしたちは初めて謙遜になることができるのです。
 他人を批判することによって、
あたかも自分は正しい者であるかのような錯覚からわたしたちは解放されるのです。
 全ての人が罪人であるということは、わたしたちの怠慢の根拠ではなく、
謙遜さと誠実さの土台です。
そして自分自身を正しく振り返る根拠です。わたしも例外ではないということなのです。
「全ての人が罪人である」と、言いながら、
わたしはあたかも罪を犯していないかのような顔をしていることが多分にあります。
 たとえば、誰かが過ちや間違いを犯したとき、それをかばおうとするようなつもりで、
「人は結局、罪人なんだ。牧師だって同じだよ」
というようなあきらめとも赦しともつかないような言葉を聞くことがあります。
そして、その言葉の裏には、
「自分はそうではないけれど」
という隠されたしかし大変に強いメッセージを聞くことはしばしばです。
「人は全て罪人である」という言葉は、「わたしは確かに罪人なのだ」ということなのです。
わたし自身がキリストを求め、
その救いに与る必要性があることを示している言葉であり、この救いに与った者の言葉なのです。

6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、
  わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。

 神はわたしたちを一人も失わないで、終わりの日に復活させることを望んでいらっしゃいます。
主イエス・キリストを信じて、どのような絶望の中にあっても、
その救いを信じて歩んでいくとき、わたしたちの人生は本当に意味のある素晴らしいものとなるのです。
 どのような過ちを犯しても、わたしたちには帰る家があります。
それがイエス・キリストであり、教会なのです。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教