土浦教会 代務説教         2007年4月15日

「復活顕現」

ルカによる福音書24章13〜35節

 
13:ちょうどこの日、二人の弟子が、
  エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
14:この一切の出来事について話し合っていた。
15:話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
16:しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
17:イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。
 二人は暗い顔をして立ち止まった。
18:その一人のクレオパという人が答えた。
 「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、
  あなただけはご存じなかったのですか。」
19:イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。
 「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、
  行いにも言葉にも力のある預言者でした。
20:それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、
 死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
21:わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。
 しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
22:ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
23:遺体を見つけずに戻って来ました。
 そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24:仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、
 婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
25:そこで、イエスは言われた。
 「ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
26:メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
27:そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、
 御自分について書かれていることを説明された、
 28:一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
29:二人が、「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」
 と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるための家に入られた。
30:一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、
  パンを裂いてお渡しになった。
31:すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
32:二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、
  わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
33:そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
34:本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
35:二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 某巨大宗教団体の長IDさんが中国の温家宝国家主席に会ったということが報じられていました。
温家宝主席がIDさんに会いに来たという方が正確かも知れません。
IDさんは世界中の国家的指導者や宗教的指導者と会談をしています。
そして、国々の首相などと握手をしている写真が時々、一般のマスコミにも出てきます。
世界中の有名大学から名誉博士号が授与されているということです。
 先日、新聞の全面広告で、このIDという人の写真が掲載され、
このIDさんを讃える宣伝がありました。
皆さんもきっとご覧になったことと思います。
 わたしは「ついに馬脚を現した」と思いました。
実際のところ、「ついに」ではなくて、もう昔から分かり切っていることです。
 集団結婚式で有名なキリスト教を名乗るニセ宗教がありますが、
この教祖さんも世界中の国家的指導者や宗教的指導者と会談をして、
世界の平和に貢献しているということを自ら宣伝しています。

 イエス・キリストが復活されて、
エルサレムから逃げ延びようとしていた二人の弟子たちにその姿を現します。
「エマオへの道」と言われ、大変にドラマティクで感動的な箇所です。
 非常に多くの画家がこの場面を取り上げています。
 わたしたちの主イエス・キリストは、イエスを知る弟子たちだけにしか、
ご自身の復活の姿を現しませんでした。弟子ではなかった者もいます。

 たとえば初代教会の熱烈な伝道者であるパウロは、
イエス・キリストの弟子ではないときにイエス様の栄光の光を見ています。
その時、彼はキリスト教会を迫害する者でした。
 しかし、パウロを弟子とするためにイエス様はその姿を現されました。
そしてダマスコへの途上で、他にもパウロと一緒にいた人がいたにもかかわらず、
イエスの栄光に打たれたのはただパウロ一人でした。
ですから、復活のイエス・キリストを見たのは弟子たちだけだったということは、
確かにそうです。
 このことをわたしたちは、復活の不確かさだと思います。
つまり、
「イエス・キリストは復活したというけれど、それは弟子たちだけだった。
イエスがいなくなった後に残された教団を運営してゆくために、
弟子たちは『イエス・キリストは復活された』と言い出したのではないか。
その証拠に弟子たち以外の第三者で復活の主に出会った者はいないではないか。」
 あるいは
「もちろん、でっち上げとか弟子たちが嘘を言っているというわけではない。
弟子たちもイエスを失って大きな悲しみの中にあったのだから、
それは仕方がなかったのだろう。」
などと思います。
 しかし、このイエス・キリストの復活を体験したのは、
その弟子たちだけであったという事実こそが、
主イエス・キリストの復活が確かなものであったことの証明なのです。

 わたしたちの主は復活して、
その姿をローマ総督ピラトや大祭司カヤファに現しませんでした。
イエスを無実の罪で葬り去った祭司たちや律法学者、
ファリサイ派やサドカイ派の人々に復活の姿を現して、
「どうだ、恐れ入ったか。」となぜ言わなかったのでしょうか。
(AY君が得意なように)「エイ、控えろ、控えろ、このお方を誰と心得る!
ここにおわすは天下の副将軍水戸光圀公なるぞ!」
「ハッハー」
という具合にしたら、よかったのにとわたしたちは思いますが、
唯一真の神、わたしたちの主は、そのようになさいませんでした。
このような考えは、あり得ないことと笑って済ますことはできません。

 たとえば、菅原道真は無実の罪で九州の太宰府に左遷されますが、
死後、大嵐を起こして京都の皇居の屋根に被害を与えたとか伝えられています。
これが天神様の縁起です。

24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、
  エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
24:14 この一切の出来事について話し合っていた。
24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

 イエス様は二人の弟子にその姿を現します。
十字架につけられて死んでしまったイエスに失望して、
弟子たちの集団から離脱してエマオに向かっていたのか、
あるいは何か用事があったのかその理由について聖書は触れていません。
 彼らの目的はありません。主イエスを失って彼らは希望を失っていました。
エマオというエルサレムから12km程離れた村へ向かって歩いていました。
 彼らは、議論していました。その議論の内容は彼ら自身がイエスに語っています。
弟子たちは現れたイエスがイエスであると気がつきませんでした。
このようなことは、わたしたちの信仰生活においてもしばしば起こります。
 イエス・キリストがわたしの救い主であると信じ、告白して洗礼を受け、
クリスチャンとしての生活を始めても、
「この方こそ、本当にわたしの救い主だ」
と確信するのは、随分経ってからということがあります。

 また、色々な困難や悩みの中で信仰を見失ってしまうこともあります。
主は、常にわたしたちと共にいてくださいますが、
わたしたちがそのことを忘れてしまうということは頻繁に起こります。
そして、困難や悲しみのただ中で
「ここにも主はいてくださった。」
という体験をわたしたちは繰り返しています。
ですから、ここで弟子たちが、
近づいて来たイエスに気がつかなかったことを批判することはできません。

24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。
  二人は暗い顔をして立ち止まった。
24:18 その一人のクレオパという人が答えた。
  「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、
   あなただけはご存じなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。
  「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、
  死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。
  しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。
  婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、
  『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、
  あの方は見当たりませんでした。」

 「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」
というイエス様の言葉は何か人の悪いイタズラのようにも思えます。
「イエス様もお人が悪い。」などとわたしたちは思ったりしますが、
それはイエス様の人に接する態度、誠実さと謙虚さの現れではないでしょうか。
 神の子が、この世にいらしたという神秘とこの言葉は関係があるのです。
イエス様は高圧的に、
「おまえたちどこへ行く、わたしが復活したイエスだ。」
と言って現れたりしなかったのです。
 弟子たちがイエス様に語った言葉から、彼らの議論していた内容が分かります。
イスラエルの希望の星であったナザレのイエスが、
権力者たちの手によって葬り去られてしまった不条理、
そしてイエスの十字架の死から三日目の今朝起きた出来事。
 婦人たちが墓に行った時、イエスの遺体がなくなっており、
天使が告げた言葉。これらについて、彼らは議論していました。
 要するにこの二人の弟子たちは、わたしたちと同じであった訳です。
わたしたちもまたこの世のことを取りざたして、社会的正義について論じます。
新聞やテレビには、そのような題材は尽きることがありません。
いえ、この社会の不正や不義、悪に関する題材でマスコミは成り立っています。
わたしたち個人の生活もそうではないでしょうか。
「あの人は楽して、あんなに豊かな生活をしているのに
、なぜわたしはこんなに苦労しなければならないのか。
あの時、あんな不運なことがなければよかったのに。」
などというのは本質的にこの二人の弟子たちの議論と同じです。
二人の弟子たちは、自分たちの絶望を嘆き、
そしてその原因を祭司長や議員たちの愚かさのためだと思っていたわけです。

 そして彼らはまたわたしたちと同じく、復活の知らせに接して、
それを信じ受け容れることができません。
あれから二千年を経過した現代もこの状況は全く変わっていません。
「イエス・キリストの復活は、残された弟子たちが考え出したでっち上げだ。」
とする意見は今もこの世に満ちています。
「確かにイエスという人物は真実で非常に大きな影響力を与えたのだろう。
その彼の人物の真実が、感動を与え、その感動が復活という伝説まで作りだしたのだ。」
という見解は、理性的であることを大切にする人々の標準的な意見です。
わたしたちの教会の中にも、このような議論は満ちています。

24:25 そこで、イエスは言われた。
  「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、
  御自分について書かれていることを説明された。

 イエス様は
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」
と嘆きますが、それでもすべてをもう一度、弟子たちに説明されます。
 頭ごなしに
「このアホ、おまえたちなんか知るか!」
とは、おっしゃいません。
 そしてまた、ここで、自分を陥れた祭司長たちや、
議員たちについて批判を始めるのではありません。
 わたしたちの個人の生活を振り返るとき、
このことはわたしたちをハッとさせます。
 自分に対して不正や悪を為した人々のことを、わたしたちは忘れることができません。
そしてまた非常に多くの場合、わたしたちは、
自分に不当なことを為した人々への復讐の思いからシャカリキになって頑張っています。
 人を批判することによって、わたしたちは自分の正しさを主張しようとします。
しかし、わたしたちが本当の自分を見出し、
わたしたちがわたしたちの人生を本当に豊かなものにするのは、
主の前に自身の物わかりの悪さ、不信仰を告白し、イエス様に教えてくださいと願うときです。

24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、
  もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、
  イエスは共に泊まるため家に入られた。
24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、
  賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

 主イエス・キリストは二人の弟子たちに、
最後の最後までご自分が誰であるかを明らかにされませんでした。
 イエス・キリストは為すべきことを為して、
ただ弟子たちにだけ、そのことの意味と真実を伝えてこの世から消え去りました。
 ここにわたしたちが、
わたしたちの人生をどのように生きるべきかが示されているのではないでしょうか。
 わたしたちは前述のIDさんや偽キリスト教の教祖ように、
自らの栄光を求めて生きるべきではないのです。
「そんなことは分かっている」とわたしたちは言うことはできません。
そうではなくて、わたしたちは主の前に
「わたしの心の中にもIDやB教祖と同じ心があります。
どうか、この心を清めて、救って下さい。」
というのが、わたしたちの祈るべき祈りです。

 わたしたちのこの教会の中にも、お金持ちであったり、
社会的に身分の高い人々は案外沢山います。
そして、そのことの故に、教会内でも重んじられたり、
あるいはそうでないために軽んじられたりすることは頻繁に起こりがちです。
 わたし自身の中にもそのようなことで人を差別してしまうことは起こりますし、
自分自身が、牧師としての変なプライドに固執していることが多々あります。
 
「二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」
この瞬間とは、この変なプライドを持っていることに気がついた瞬間です。
 主に栄光を帰そうとする瞬間に主イエスは消えてなくなりました。
主はこの世において栄光を得ることを拒否されたからです。
イエス様は最初からそのように生きて下さいました。

 福音書の最初から思い起こして見て下さい。
イエス様が出会った人々には王や貴族はいません。
大金持ちであっても、それは取税人であったり、
地位がある程度あったとしてもそれはさげすまれていた異邦人でした。

 マザー・テレサは、世界中に感動を与えてこの世を去りましたが、
彼女が相手にしたのは、貧しさの中で死に行く人々でした。
IDやB教祖とは、全く違います。
 主はわたしたちにその命をかけて、
真実に意味ある人生とは何であるかをわたしたちに示して下さいました。
名誉や富に惑わされて、命を失ってしまうのではなく、真実に生きる道を主は示して下さったのです。
 イエス・キリストは真の人であり、真の神です。
ですから、地位や身分の高い人、財産家に認めてもらう必要はありませんでした。
貧しく、さげすまれ、生きることのできないような人々に生きる力を与えられたのです。
 神は命と栄光を人に与える方であります。
人が神に栄光を与えて、神は初めて神となるのではありません。
神は最初から神であり、栄光の中にいらっしゃいます。

ですからわたしたちは祈ります。
天にまします我らの父よ、願わくば御名を崇めさせ給え。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教