水戸中央教会 説教               2007年3月25日

「十字架の勝利」

ルカによる福音書20章9〜19節

 9:イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。
 「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。
10:収穫の時になたtので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、
 僕を農夫たちのところへ送った。
 ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。
11:そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、
 侮辱して何も持たせないで追い返した。
12:更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。
13:そこで、ぶどう園の主人は言った。
 『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。
 この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』
14:農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。
 『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
15:そして、息子をぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
 さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。
16:戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」
 彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはあんりません」と言った。
17:イエスは彼らを見つめて言われた。
 「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。
  『家を建てる者の捨てた石、
   これが隅の親石となった。』
18:その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、
 その人は押しつぶされてしまう。」
19:そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、
 イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、
 イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。


 今日、わたしたちに与えられた聖書の箇所は、「ぶどう園と農夫のたとえ」と、言われます。
なかなか分かりにくいところです。
前半部のぶどう園の主人とそこで働く農夫たちとのことは、
まぁ、何が言われているのか分かるのですが、
イエス様の言われた聖書の言葉で、
なぜこのたとえが自分たちへの当てつけだと分かったのかがピンと来ません。

イエス様の言われた聖書の言葉は次のようです。
「『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』
20:18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、
 その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

 この言葉で、律法学者たちや祭司長たちは、
このたとえが自分たちへの当てつけだと気づいたというのですが、
なぜ彼らはこの聖書の言葉で気が付いたのか、不思議な感じがします。
 イエス様が引用された言葉は、ともに旧約聖書からの引用で、
一つは詩編118からものであり、もう一つの「石」については、イザヤ書からのものです。
イザヤ書5章には神の民イスラエルを神様のぶどう園にたとえている箇所があります。
ここでは神様が一生懸命ぶどうを植えて、ぶどう園を整備し、世話をしたあげくに、
食べ物にならないような酸っぱいぶどうしか実らなかったということが書かれています。
これは神の民イスラエルが、神の御心を悟らず、神様が一生懸命に導かれても、
信仰の道から外れてしまって悪を行っていることを批判しています。
律法学者や祭司長たちは聖書のエキスパートですから、イエス様のぶどう園のたとえ話は、
イザヤ書のバリエーションだと、察知した訳です。

 しかし、なお違和感が残ります。それは、律法学者や祭司長たちが
「これはわたしたちへの当てつけだ」と、気が付くと、
「イエスに手を下そう」、つまり、捕まえて、この世から葬り去ってしまおうと思ったことです。
これではまるでイエス様がおっしゃっているぶどう園のたとえに登場する、
残虐非道な農夫たちと同じではないかとわたしたちは思ってしまいます。
自らイエスのたとえの正しさを証明しているように、わたしたちには思えます。

 「律法学者や祭司長たちというのは、なんて卑怯な人々なのだろう。
そして、それに対してイエス様はなんと決然としていらっしゃることだろう。」
と、わたしたちは思います。
しかし、ここで重要なことは、律法学者や祭司長たちの醜さと卑怯さを,
わたしたちもまた持っていると気が付くことであり、理解し、告白することです。
「イエス様は素晴らしい方だ」とわたしたちは思いますが、
イエス様の素晴らしさがわたしたちに現れるためには、そう思うだけでは現れません。
イエス様の素晴らしさの対局にあるわたしたちの暗さ、暗黒の中にある醜さを直視できるとき、
イエス様の素晴らしさがわたしたちに現れるのです。

 ですから、このぶどう園のたとえは二重構造になっています。
 まず、イエス様によって、ぶどう園の主人とこれを借りているひどい農夫たちのたとえが語られます。
農夫たちは当然の契約されていたはずのぶどう園を借りている貸借料を支払いません。
主人は僕を送って、このぶどう園の収穫を得ようとしますが、
送られた僕たちはさんざんな目にあわされて逃げ帰ってきます。
そして最後に自分の息子を送って、収穫を得ようとします。
愛する息子を送ったということは、その権威を示すと同時に、
この主人は農夫たちに対して丁重に振る舞ったということを意味します。
「僕を使わしただけでは、失礼だ」と主人は考えたのです。
ところが、この農夫たちは、
「息子を殺してしまえば、このぶどう園は永遠にわたしたちのものだ」と考えて、
この息子を殺してしまったというのです。ひどい話です。
 このたとえに対して、律法学者や祭司長たちは、
「そんなことがあってはなりません」と、言っていますが、まさにこの反応が問題なのです。
つまり、イエス様が、このたとえを話し終わった時点で、彼らが言うべき言葉は、
「まさにわたしたちは、あなたが今話されたたとえの農夫のように神の御心を踏みにじっています」
というものでした。そして、それこそが、唯一真の神への信仰を与えられた人々の発するべき言葉でした。
しかし、彼らは、たとえ話の中の農夫たちを、
まさに丁度、わたしたちが律法学者や祭司長たちや,
あるいはファリサイ派やサドカイ派の人々を
「なんてひどい人々だ」と裁くのと同じように裁いたのです。
律法学者や祭司長たちは、たとえ話の中のひどい農夫たちを、
「とんでもない奴らだ」と裁きました。
同じように、わたしたちも律法学者や祭司長たちを「とんでもない奴らだ」と裁くならば、
わたしたちは、このたとえの農夫と同じであり、律法学者や祭司長たちと同じなのです。

 ある人がぶどう園を作りました。
ぶどう園とは何でしょうか?
それは、第一義的には、神の民であるイスラエル民族に与えられた約束の地です。
この地で神の民は、神から与えられた律法に従って生き、正義と公正が、
この国を支配することがその目的でした。
何よりも神が崇められることが、この国の存在目的でした。
しかし、それはまったく無視されてしまったのです。

 神は天地の創造者です。ぶどう園はこの地上、この地球であるということもできるでしょう。
それは、まったく正しい見解です。
神は地球を作り、そこに人間を住まわせました。
しかし、人間は自分の手でこの地球を作った訳でもないのに、
この地球上で自分たちの好き勝手をしています。
今、問題になっている環境問題をここで語ることもできるでしょう。
またこの地上に絶えない戦争と飢餓、富める者と極貧の人々、差別、
すべての悪は、神がもたらしたものではなく、人間が創り出したものです。
飢餓や飢饉は自然現象で神の業のうちではないかと、わたしたちは思うかも知れません。
しかし、その原因は今や人間の自然破壊と民族間の争い、
この争いを挑発して儲けようとする富める国々であることは明白となっています。
自然災害による飢餓や飢饉も確かにあります。
しかし、この人間を襲う自然災害を通して、
わたしたちは、自分たちの命のはかなさと大切さを知るべきであるのに、
一向にそのことに気が付きません。
神の偉大さが讃えられ、神を畏れ、ひれ伏すことが求められているのに、
わたしたちは、その偉大さを讃えようとはしません。
災害を見て神を否定する者さえ、わたしたちの間には珍しくありません。

 ぶどう園とは、わたしたち一人一人にとって、わたしたちの人生そのものではないでしょうか。
神は、わたしたちを創り、わたしたちに命をお預けになりました。
わたしたちは、このわたしたちの命を神様からお預かりしているだけであるのに、
あたかもこの命を自分のものであるかのように思っています。
わたしたちの人生には、神様がわたしたちに与えて下さった目的があります。
「神を愛し、人を愛すること、自分自身を愛するように、わたしたちの隣人を愛すること。」
これがわたしたちの人生の目的であり、生きる意味です。
この目的がわたしたちに与えられていながら、
わたしたちはこの目的に従って生きていない、
という現実をわたしたちは知っているでしょうか。

「神を愛し、人を愛すること、自分自身を愛するように、わたしたちの隣人をあいすること。」
わたしたちは、この人生の目的の真実と正しさを知っています。
そのことはこのたとえ話の中の極悪非道な農夫たちも同じだったのです。
 この極悪非道な農夫たちは、自分は、神を愛し、人を愛し、
自分自身を愛するように隣人を愛するということを自分たちの人生の意味、
存在目的としていた人々であったに違いないのです。
ですから彼らは過ちを犯したのです。

 収穫の時が来ました。彼らは十分に「神を愛し、隣人を愛する」という人生の目的に従って働き、
生きました。
そこへぶどう園の主人の僕が来ました。ところが農夫たちは、
この僕に収穫の時に主人に収めるべきものを収めようとはせず、
僕を袋だたきにして追い返してしまいます。
 一体何が起こったのでしょうか?
彼らは、自分たちが成した「神を愛し、隣人を愛する」という、
人生の目的に従ってなしたことを数え上げたのです。

「神様、わたしは、あの貧しい困っている人々を助けることができました。」、
「神様、わたしは、あなたの教えに従って、あの正しいことをなし、この正しいことをなしました。」、
「神様、わたしがいかに忠実にあなたに仕え続けてきたかを見て下さい。」
 これこそが、ぶどう園の主人である神から遣わされた僕を、
袋だたきにして追い返してしまうことに他なりません。
 神が求めるのは「悔いくずおれた心」「悔い改め」です。
神が求めた収穫とは、わたしたちが為した素晴らしい良き業ではなくて、
わたしたちが、神から与えられた人生の意味と目的を、
いかにないがしろにして行うことができなかったかという罪の告白です。
そして、それこそが、「神を愛し、人を愛する」という人生の目的に従って生きた徴であり、証明です。

 愚の骨頂は、
「わたしはどこどこ大学を優秀な成績で卒業し、社会においてはかかる地位にありました。
どうです神様、そして皆さん。わたしって素晴らしいでしょう」
ということです。まさに僕を袋だたきにして、侮辱して追い返してしまったというのは、
このようなことを言うことです。
「そこまで、わたしは言わない。自慢なんて、そんなはしたない真似はしませんよ」
と、思われるかも知れません。そう思われる方はそれでもよろしいかも知れません。
 しかし、わたしたちは、『そこまで、わたしは言わない』と言うようなことを
平然と行っているのが真実です。
 「牧師さん、あなたがそんな風に思うのは、あなたの人物が小さいからですよ」
とおっしゃる方がいらっしゃるかも知れません。まさにそうでしょう。
しかし、わたしは、このわたしの人物がちっぽけな、
こせこせしたケチくさいものであることを知っていることに感謝できればと願っています。
なかなかこの感謝ができないのです。
自分で自分のことをケチくさい、こせこせしたものであるとは思っていませんので、
ちょっと人から馬鹿にされたように思えば、落ち込んだり、怒りに捕らわれたりして、
感謝どころではありません。
 「あなたの人物が小さいからだ」なんて言われたら、
表面上は「はいそうです」なんて言っていますが、内心は穏やかではありません。
「この野郎、小さいのそっちだ」などと平然と思っています。

 自分より格が下だと分かっている僕は袋だたきにして追い返しますが、
主人の息子が来るとこれを殺してしまいます。
 このようなこともわたしにおいて起こっていることです。
 何かわたしが素晴らしいことをしたとします。
そして、その自分のした素晴らしいことよりも、素晴らしいことをした人、
あるいはしている人が自分の生活領域の中に入ってくるとこれを受け入れることがなかなか困難です。
 簡単に言えば、わたしは説教者です。
そして、説教者として大変に愚かなことですけれども、
自分がいい説教をしているかどうかというのは、大変に気になります。
「いい説教だ」と自分で思えるということは、
単に人の説教を聞いていないということを意味するだけなのですが、
それでもちょっと周りを見回して、
「自分の説教の方がいいぞ」などという愚かなことを繰り返しています。
そして、褒められると喜びます。
 しかし、なんかの機会に、素晴らしい説教を聞きますと、ねたみが生じます。
これが、自分の生活領域と何の関係もなければ、いいのですが、
目の前にいる同僚なんていうことになると内心穏やかではありません。
「自分の方が格が上だ」と思えるうちはいいのですが、
「こいつには敵わない」ということになりますと、この人の存在が目障りになってきます。
つまり、ぶどう園の外に放り出して殺してしまう訳です。

「『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』
20:18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、
 その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

 主なるわたしたちの主イエス・キリストは誉め称えられますように。
主はわたしたちを押しつぶして下さる石、わたしたちが捨てた石です。
主は、この救いからほど遠いわたしを押しつぶして下さり、
わたしたちの命を生きて下さいます。
 わたしたちが主の御前に自分自身の罪と愚かさを告白して、
「どうかこの愚かなわたしの人生をあなたが生きて下さい」
と祈るとき、確かに主は、わたしたちの中に生きて下さり、新たな素晴らしい道、
永遠の命への道をわたしたちは歩み始めることが出来るのです。

 イエス・キリストを信じ告白するということは、
わたしではなく、主がわたしの人生を生きて下さっているということなのです。
 「誇る者は主を誇れ」との御言葉どおり、
わたしたちは、自分自身ではなく、主を誇る者となることができるのです。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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