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水戸中央教会 説教        2007年3月11日

「受難の予告」
ルカによる福音書9章18〜27節


 
18:イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。
 そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
19:弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。
 ほかに、『エリヤだ』と言う人も、
 『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
20:イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわつぃを何者だと言うのか。」
 ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

 21:イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、
22:次のように言われた。
 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、
 律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
23:それから、イエスは皆に言われた。
 「わたしについて来たい者は、
 自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
24:自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
 わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
25:人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、
 失ったりしては、何の得があろうか。
26:わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、
 自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。
27:確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、
 神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」


18:イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。
 そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。

 イエス様がメシアであること、つまり世の救い主である、
キリストだということを初めて明らかにしたのは、
イエス様と弟子たちだけがいた時であったと福音書は伝えています。
 まず世の人々が、イエス様のことを何者だと言っているかと尋ねます。
「洗礼者ヨハネ」とは、当時の最大の宗教的指導者で、
このイスラエルを治めていたヘロデ王を批判したために捕らえられ、殺されました。
 「エリヤ」はイスラエル史上、最大の預言者です。
世の終わりには再び地上に天から遣わされると信じられていました。
メシア、つまり世の救い主であるキリストが、
この世に来る先駆けとしてこの地上に現れるのがエリヤでした。
 「昔の預言者の生き返り」とは、過去の偉大な神から遣わされた
人々の再来ということです。
この世の人々のイエス様に対する評価において誰もイエス様がキリスト、
メシアであるとは思っていませんでした。
そしてイエス様がメシアであることに気が付いたのは、
最も近しいところにいたペトロでした。
 ペトロは、この世で初めて、イエスがメシアであることを認識した最も幸いな人の一人です。

 西洋のことわざに「召使いから見た偉人はいない」という言葉があります。
どんなに社会的に高く評価されている人も、
その最も身近で仕える人から見ると普通の人間だという意味です。
ですから普通、ペテロのような身近な人が、
イエスの一部始終を知って「この人こそメシアだ」という認識を得ることはありません。
「偉い人だ」と言われている人も近くで過ごしてみると
「ただの人だ」と思うようになるのが普通です。
 あるいは悪口さえも出てくるでしょう。
もちろん一緒に過ごすうちに、「立派な人だ」という思いを持つような人はいます。
しかし、「これは神から遣わされたメシアだ」というようなことは普通はあり得ません。
 とりあえず、日本の歴史においてはこのようなことは起こったことがありません。
マインド・コントロールか何かで、信じ込まされてしまった例は、
現代日本にも枚挙にいとまがありませんが、それを世間も認めているということは皆無です。
そのようなニセ・メシアはオウム真理教を引き合いに出すまでもなく詐欺師の極悪人です。

 「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じた」
ということは、やはりあり得ないことです。
 普通は、嘘でも何人かの仲間が「彼こそメシアだ」というような思いを持ったら、
それを言い広めて、自分たちの勢力を大きくしようとします。
 伝道の方法とか教会の成長ということが言われるとき、
わたしたちは教会の組織を整えることが大切ではないかと思いがちです。
 もちろん、小グループに分けたり、教会での役割分担を決めたり、
色々な委員会を作ったりすることも意味のないことではありません。

 先日、テレビで昔流行ったゴット・ファーザーという映画をやっていまして、
終わりの方をチラリと見ました。20世紀の前半にアメリカを席巻したギャングの話です。
映画の中で過去を回想して、このギャングたちはローマ帝国の軍団を手本として組織をし、
この組織化が大成功を収めて、一大ギャング帝国を作り上げたというセリフがありました。
わたしは、何かものすごい暴力でのし上がっただけなのかと思っていましたので、
「なるほどなぁ。宅急便と同じなんだ」と、わたしはいたく感心しました。

 しかし、このギャングとイエス様の生き方とは当然ながらまったく違っています。
少しでもよい点があれば言い広める、この世のやり方とは全然違います。
 わたしたちの教会のあり方もまた、
まずイエス様のこの生き方に倣うべきであるとわたしは思います。
 色々な委員会や集まりができて趣味やリクレーション、余暇を共にしたり、
色々な作業を分担して効率よく人間の集団である教会が運営されていくのではなくて、
わたしたち一人一人がいかにイエス・キリストを信じ、
従っていくことができるかどうかが問題です。

 主が一人で祈っておられたように、わたしたちもまた祈りを大切にすべきです。
自分たちの課題や人生の問題を共有することも大切ですが、
わたしたちが共に集まって祈ることを忘れてしまえば、
わたしたちの教会は教会であることを止めてしまうことになります。

 弟子たちが自分が誰であるかを知ると、イエス様はそれを秘密にするように命じます。
まったく不可解ですが、このようにイエス様が生きてくださったことは、
どんなにわたしたちにとって素晴らしいことでしょうか。
このことによって、わたしたちは人々からの評価を求める生き方から解放されます。
 イエス様は神の子でありながら、人々から侮辱を受け、苦しめられ、
排斥される道をあえて選びとって下さいました。
この世はイエス様を十字架に掛けて、無意味な者として葬り去ろうとしました。
そしてイエス様は世にご自身を葬り去らせたのです。
 わたしたちは
「なぜ、自分はこんなにもしているのに、認められないのだろう」
とか、
「わたしのこの状況を理解して欲しい」
とか思っています。
 人から馬鹿にされたり、さげすまれたりすれば、情けない気持ちになったり、
怒ったりします。そのようなわたしたちに主は言われます。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、
わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」

 ここにわたしたちの人生の大転換点があります。
わたしたちはこの御言葉を確かに受け取っているでしょうか。
この御言葉に応えているでしょうか。
ここに新しい人生が始まります。栄光から栄光へ、祝福から祝福へ、
命から命へとその豊かさが増し加わってゆく人生の始まりがあります。
わたしたちはこのスタートに立っているでしょうか。
 本当はイエス・キリストのことなどどうでもよくて、
「このわたしの悩みが解決したらいいのに」とばかり思っていないでしょうか。
主イエス・キリストのために命を使うということを、
わたしたちは考えたことがあるでしょうか。

「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、
神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

 おかしな言葉だとわたしたちは思います。
イエスと一緒にいた弟子たちで今も生きている人は誰もいません。
神の国が来た訳でもありません。
その上、この言葉を語られたイエス様ご自身が十字架で殺されています。
そして三日目に復活されました。
ですから、このイエス様の言葉においては「死」ということが何を意味しているかが問題です。
「ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」
この言葉の意味は、
「ここにいる人々の中に、イエス・キリストのために命を捧げて死ぬ人がいる」
という意味です。

9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
 わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、
 自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。
9:26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、
 自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。


 イエス・キリストとは無関係に、わたしたちが自分の栄えを求めるならば、
たとえわたしたちが健康で長生きをしたとしても、なんの意味もない、
死人の人生であることが言われているのです。
 神はわたしたちに新たな素晴らしい約束と祝福に満たされた人生を与えようとされています。
 この約束と祝福は、わたしたちが今日、望みさえすれば直ちに与えられるものです。
 今日、わたしたちはイエス様の御言葉に立ち返りましょう。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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