
水戸中央教会 説教 2007年3月4日
「ベルゼブル論争」
ルカによる福音書11章14〜26節
14:イエスは悪霊を追い出しておられたが、
それは口を利けなくする悪霊であった。
悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。
15:しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼベルの力で悪霊を追い出している」
という者や、
16:イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。
17:しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。
「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。
18:あなたたちは、わたしがベルゼベルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、
サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立っていくだろうか。
19:わたしがベルゼベルの力で悪霊を追い出すのなら、
あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、
彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
20:しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、
神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
21:強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。
22:しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、
頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。
23:わたしに味方しない者はわたしに敵対し、
わたしと一緒に集めない者は散らしている。」
24:「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、
休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。
25:そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。
26:そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、
中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
イエス様が、口を利けなくする悪霊に憑かれた人から悪霊を追い出すと、
口の利けない人が話すことができるようになりました。
本物のキリストが現れて、奇跡によって人を癒すと、
「あの男は悪魔の手先だ」と言い出す人々が現れました。
そしてまた、本物のキリストがこの世にやって来て、その本物の証明をすると、
ある人々はまさにそれを疑いだして、イエスを試し、
天からの証明を求めたと本日の聖書の言葉は伝えています。
イエス・キリストは、素晴らしい奇跡の業をなし、人々を教えながらも、
その正体は悪魔の子であるのか、
それとも神の子であるのかということがここでの議論の中心です。
これに対して、イエス様は、
「もし自分が悪霊の頭であるベルゼブルの力によって、
人々から悪霊を追い出しているというならば、それは内輪もめであって、
その国は成り立たない。」
と言われました。
悪霊の頭であるベルゼブルは、悪霊の頭であるならば、悪霊を助けるはずです。
それを追い出すことはあり得ません。
悪霊を追い出すという業は当時、一般的に行われていましたから、
「それではあなた達が悪霊を追い出すとき、誰の権威においてその業をなすのか?」
と逆にイエス様は問います。
もちろん、それは神の御名によってなしているのですから、
悪霊の頭の権威によって悪霊を,
追い出すことなどあり得ないとイエス様を中傷した人々自身も知っているのです。
ですから、イエスを中傷した人々自身、
イエス様が神からの人であることを知っているはずなのです。
イエスが神からの人であると知っていながら、イエス様を警戒し、
距離を置くということは、イエス様に敵対することであると言われています。
このいわゆるベルゼブル論争と言われる聖書の箇所は、
理解が非常に難しいようにわたしは思います。
イエス様の言葉の意味がどうもよく理解できないのです。
特に、「武装した強い人が守っている家のたとえ」で、
「もっと強い人」はイエス様ご自身であろうことは確実だと思いますが、
この「もっと強い人」にやっつけられてしまう、
最初の「強い人」とは一体誰なのだろうと思います。
おそらく「悪霊なのかなぁ」と考えるのですが、
その悪霊が自分の屋敷を守っている間は、
その持ち物が安全というのはどうもしっくり来ません。
またこのたとえですと、最初の悪霊追い出しの話と矛盾するように感じます。
つまり、
「より強い悪霊であるベルゼブルが、
口を利けなくする悪霊を追い出してなんでいけないのか」
と思えるからです。
しかし、より強いのは、神であり、
悪霊は神より弱いという考えが前提としてあると思われます。
「イエス様がせっかく素晴らしい奇跡の業をなして下さったのに、
それを悪魔の頭の力によってなしているなどと中傷するのは許せない。」
とわたしたちは思います。
しかし、自分がイエス様の時代に生まれていたら、
きっとイエス様に従った弟子たちではなく、
イエス様を中傷した人々に自分は属していたとわたしは思います。
そして、それがわたしたちの大部分ではないかとわたしは思います。
なぜならば、少々自分の見知らぬ教団や教会、教派に出会いますと、
「あれはカルトではないか」「間違ったキリスト教ではないか」と、
すぐに考えるからです。
もちろん、現代もまた幸福の科学や統一協会や、
確かに、キリスト教会の名をかたる破壊的なカルト教団というのがありますから
注意が必要です。
けれども、わたしたちは案外簡単に、
自分となじみのない教会を「あれはカルトだ」と言ってはばからず、
自分の見解が正しいのか間違っているのかも検証せずに放り出しておくことができるからです。
よく調べ、知り合いになってみると、
素晴らしいキリスト教会であると分かるのにそれをおろそかにしてしまいます。
わたしたちの日本基督教団は、日本のプロテスタント教会の中では比較的大きな集団ですから、
「自分たちこそ、日本のキリスト教会の標準だ」と思い込む傾向が強くあります。
この傾向はどこのキリスト教会も持っています。
カトリック教会も同様の意識があるでしょうし、
日本基督教団とは比較にならない世界的な教会ですから、
その傾向は無意識であっても、もっと強いでしょう。
また新しくできた少数派の教会の場合も、
既存の教会や教派と自分たちとは違うという意識を持っていますから、
「自分たちが正しい」と思う意識は強くあるはずです。
この「自分たちは正しい」「自分たちが標準だ」という思いが、
「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と、
こともあろうにイエス様に向かって言わしめた根本です。
イエス・キリストの正しさはもう二千年に亘る歴史がすでに証明しています。
クリスチャンでなくてもイエス・キリストが悪霊の頭ではないことは明らかです。
ドラキュラ映画のような娯楽の世界でも、
イエス・キリストの十字架は悪魔に対抗する手段となっているほどです。
イエス・キリストを信じるわたしたちにとって、
イエス様に向かって「あれは悪霊の頭だ」などと言うはずがないと思えます。
イエス・キリストを信じ告白してクリスチャンになったからといって、
「自分たちが正しい」という思いに陥らないかというと、決してそんなことはありません。
先ほど他の教会のことを例に挙げましたように、
イエス・キリストを信じるといいながら、
「悪霊の頭だ」と言った人々と同じ過ちを、
わたしたちは犯してしまうことは非常にしばしば起こるのです。
ですから、このベルゼブル論争は今日まで聖書によって伝えられているのです。
それは「昔は愚かな人々がいて、イエス様は大変苦労されたんだ」
ということを知らせるために語り継がれているのではなく、
わたしたちもイエス・キリストを信じているといいながら、
同じ過ちを犯すことがあるから、大切にイエス様の言葉が伝えられているのです。
イエス様が世にいらして下さったことによって、
わたしたちの罪が明らかとなりました。
「自分は正しい」、「自分たちは標準だ」という思いが罪の正体です。
イエス・キリストを信じることは、本来的に、神に、自分の間違いと過ちを告白し、
赦しを願うことです。
しかし、どうしたことか、
わたしたちはこの「自分は正しい」という思いから逃れることができません。
ですからイエス・キリストは十字架で死ななければならなかったのです。
イエス様の十字架の死によって、
わたしたちは未だに「自分は正しい」などと思いつつも神様によって赦され、
感謝をもって生きることができるのです。
このような意味で「自分の屋敷を武装して守っている強い人」とは、
わたしたち自身ではないでしょうか。
「自分は正しい。自分が標準であり、基準だ」と思って、
わたしたちは自分自身のアイデンティティを守っています。
しかし、わたしたちよりはるかに正しく強い方、
つまりイエス・キリストがいらして、わたしたちのエゴを縛り上げ、
わたしたちを神の国のために用いて下さいます。
神の子イエス・キリストを信じて受け入れない者は、
神に敵対する者であり、永遠の滅びに至るのです。
この「自分たちは正しい」「自分たちは標準だ」というわたしたちの考えは、
今も社会の中で問題として取り上げられる「いじめ」の根本的な原因でもあります。
そしてあらゆる個人の争いから犯罪や国家間の戦争に至るまで、
この「自分たち」又は「自分は正しい」という思いがその根底にあります。
悪魔、サタンは「偽る者」という意味だと聞いたことがあります。
まさに悪魔は正義という仮面を付けてわたしたちの前に現れるのです。
悪魔は、「これは悪いことだぞ」「わたしは悪い者だ」というようなことを決して言いません。
彼は正義を振りかざし、聖書の言葉さえ用います。
そのことは受難節の初めに読まれました聖書の言葉、
「イエス様の荒野の誘惑」(ルカ4章)においても明らかです。
わたしたちは神に仕える者となるために、
一人一人が神様から召し出されて洗礼を受けたのです。
悪魔に仕える者となってしまってはなりません。
イエス様は、イエス・キリストを信じても、
悪魔に仕えさせられてしまう危険性があることを教えて下さいました。
24:「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、
休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。
25:そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。
26:そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、
中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
これはイエス・キリストによって清められた人が、
神に仕える者へと変えられ、その後に罪を犯して、
最初よりも悪くなってしまうことが言われています。
「それならば、イエス・キリストの救いは何の意味があるのか
?」
と思われるかも知れませんが、このようなことはあるのであり、起こっているのです。
これは牧師のような職務において起こりやすいことではないかとわたしは思います。
イエス・キリストを信じて、洗礼を受けます。
罪の赦しのバプテスマを受け、清められてクリスチャンとして教会に奉仕します。
そして、牧師のような神の御言葉を取り次ぐような奉仕を委ねられ、
一生懸命にあるいは、それなりに奉仕をします。
しかし、その奉仕に精を出すうちに、
「自分はこんなにやっている。」、「自分はこんなに主のために仕えた。」、
「だから、わたしは少しくらいこれこれのことをしてもいいではないか。」、
また、神の御言葉を伝えるうちに、神の御言葉の正しさが、
まるで自分の正しさと力であるかのように考え始めるのです。
そして、自分が神様になってしまう。
このような愚かなことは頻繁にわたしたちの中に起こります。
ホンの二〜三年前、京都の何とか中央教会という名前ではなかったかと思いますが、
この教会の牧師先生が、
教会員に対して恐ろしい犯罪行為を行ったことはまだ皆さんの記憶に新しいことと思います。
この事件などは、一度、イエス・キリストを信じて罪赦されたはずの者が、
「自分は正しい」という誘惑に飲み込まれてしまった具体例ではないでしょうか。
まさに「そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
という御言葉の通りではないでしょうか。
イエス・キリストの受難を覚え、自分自身を振り返る受難節にわたしたちは今あります。
悪魔の誘惑は、「あなたは正しい」「あなたはよくやっている」という言葉をもって近づいてきます。
「正しいのは神のみ」です。
そして、「すべてをなして下さるのは神様だけ」です。
決して「わたしが正しい」のでも「わたしがよくやっている」のでもありません。
すべてを神に感謝して、後のものを忘れつつ、まとわりつく罪、
つまり「自分の功績」をかなぐり捨てて、神の国へ走り続けるわたしたちでありたいと願います。
神を信じることは、自分の過ちと罪を認め続けることであり、
だからこそ、わたしたちは神の国へ向かって走り続けているのです。
イザヤは次のように言っています。
40:31 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
「年を取れば、走ることはできず、歩けばすぐに疲れる」
とわたしたちは思いますが、これは神の国へ向かって、
わたしたちが悔い改め続けることがいわれているのです。
自らの罪に悔いくずおれる時、わたしたちは主に望みをおいて、
鷲のように翼を張って上っているのです。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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of The Common Bible Translation
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, Tokyo 1987,1988