
日本基督教団下館教会 出張説教 2007年2月18日
「奇跡を行うキリスト」
ルカによる福音書9章10〜17節
10:使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。
イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。
11:群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。
イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
12:日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。
「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、
食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
13:しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。
「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、
このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」
14:というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、
「人人を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。
15:弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
16:すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、
天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
17:すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
五千人の給食の奇跡は、わたしたちにとって非常に受け入れがたい奇跡の一つです。
弟子たちが持ち合わせていた五つのパンと二匹の魚で、
どのように男だけで五千人、女性や子どもも含めれば、
一万人から二万人はいたと考える群衆を、どのように満腹にしたのか、
大変不思議で理解に苦しみます。
誰もが一度は、どんな風にしてこのようなことが起きたのかと疑問を持ったことがあるでしょう。
そして、この問いを発したとき、わたしたちの思考は止まってしまいます。
一方、この五千人の給食について、色々な方法で何とか合理的に説明しようとする試みがあります。
たとえば、二匹の魚を五つのパンを、イエス様に差し出した子どもの純粋な気持ちを見た、
他の人々が自分たちが持っていた食糧を、差し出して分け合ったのだというものです。
あるドイツの牧師先生は、集まった人々に
「このパンをみんなで食べましょう」と言って回したところ
皆が遠慮をして少しずつ食べたのでパンが余ったそうです。
そこで、すかさず、
「ほら、こんな風に五千人の給食の奇跡が起きたのですよ。
皆がお互いを思いやる気持ちが大切で、他人を思いやる気持ちが奇跡を起こすのです」
と、説教をされたと聞いたことがあります。
あるいは、これは聖餐式と深い関係があるのではないかと考えて、
この五千人の給食の象徴的な意味を説明しようとします。
この場合、五千人の給食の奇跡そのものは聖餐式の意味を説明する象徴、
つまりたとえのように理解されます。
はっきり言いますならば、この解釈は、聖餐式の深い意味を説明するために用いられたたとえであって、
実際に起きたことではないと言います。
しかし、これらの奇跡の説明は、この奇跡の出来事を伝えようとしている福音書の意図を、
まったく無視しています。
この五千人の給食の奇跡こそ、わたしたちが、何を信じているかを明らかにしているものはありません。
わたしたちが信じているのは、まさにこのようなことなのです。
わたしたちは非常にしばしば
「奇跡が本当はどのように起きたのか?」とか
「この奇跡の意味するところは一体何なのだろう」と問います。
しかし、真実、問われているのはこの荒唐無稽な昔話ではなくて、
キリストを信じると言いながら何も信じていないわたしたち自身です。
この奇跡物語が問われているのではなくて、わたしたちの信仰が問われているのです。
信仰告白にあるように「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」とわたしたちは信じています。
信じていると告白しています。神は無から御言葉によってこの宇宙の全てを創造されました。
その神の子であるイエス・キリストが、二匹の魚と五つのパンで、
五千人以上の人々のために、食べ物を創り出して与えられないということがあるでしょうか?
天地を無から創造された父なる神の唯一の子であるイエス・キリストならば、
できるはずではないでしょうか?
ところがわたしたちは、神は天と地と全てを創造したことを信じるといいながら、
その父の神の子がこの地上にやって来て、
二匹の魚と五つのパンで五千人以上の人々を満腹させたというと、
途端に「そんなことはあるはずがない」と言い出すのです。
「死人のよみがりを信ず」とわたしたちは告白します。
しかし、「死人のよみがえりを信じる」とは、
この五千人の給食の出来事を信じることが荒唐無稽と思えるのと同じように、
荒唐無稽な信じられないことなので
死人のよみがえり、遠い未来の決してわたしたちが経験することがないことなので、
信じることができますが、実際に起きそうなことは、信じることができません。
人となった神をイエスの弟子たちは、イエスの中に見たのです。
これが福音書の最も伝えたい本質的なメッセージで
天地を無から創り出した神にパンを創り出すことができないはずがありません。
にもかかわらず、わたしたちはこの最も本質的なメッセージを無視して、
自分はクリスチャンであると言ってはばかりません。
それどころが、本当はイエス・キリストなど何も信じていないくせに、
「あの人はクリスチャンとしてふさわしくない」とか、
「あのような信仰は間違っているとか」、
「あの教派の考え方は偏狭で、キリストの愛の教えに反する」
と言い出す有り様です。
わたしたちは人となった神の子イエス・キリストを何も信じていないのに、
「キリストを信じる者はこうあるべきである」と、言い出すのです。
おそらくわたしたちは何も信じていないから、このような不遜な恥知らずなことができるのです。
何も信じていないからこそ、わたしたちは兄弟を裁き、
他人の信仰の度合いを測るような傲慢なことができるのです。
「この五千人の給食の奇跡をそのまま信じなさい」と言いますと、
人々は、「あなたはファンダメンタリストの偏狭な信仰の持ち主だ」とか、
「理性にふたをした愚か者だ。神さまは理性をお与えになったのだ。その理性を用いないとは何事か」
とか、「それは信仰ではなくて盲信だ」あるいは「頑迷固陋な信仰だ」と悪口を言われます。
もう非難ごうごうたるものです。
しかし、五千人の給食の奇跡を信じる信仰とは、盲信や頑迷さ、
あるいは理性の欠如ではなくて愛なのです。
神と人への愛がこの奇跡を信じることを可能にするのです。
そしてこの愛は神からわたしたちにまず与えられたものなのです。
わたしたちは、この五千人の給食の奇跡を、他の奇跡よりもあまり意味のないものと思っています。
「クリスチャンとして、イエス・キリストの復活は無条件で信じなければならないが、
この奇跡は単に食べ物のことで、他の国や民族の昔話にも出てきそうなことだから
『これを信じなければクリスチャンではない』などと言うことはできない」
とわたしたちは思っています。
しかし、それは聖書の考えとは違います。
なぜなら、この五千人の奇跡の出来事はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの
四つの福音書全てに取り上げられている奇跡物語だからです。
言葉を変えるならば、この五千人の給食の奇跡を実際に体験した者たちこそが、
イエスの弟子であるということができます。
つまり、弟子としてイエス・キリストの証し人である条件の一つは、
この五千人の給食の奇跡を体験したこと、その場にいたことです。
ですから、この五千人の給食が載っていない福音書はまがい物だとさえ言えるのです。
ルカによる福音書によれば、この五千人の給食の奇跡の後に、
ペトロは、「イエスこそ神からのメシアである」と、告白しています。
それほどの大きなインパクトのあった奇跡だったのです。
このように考えますと、初めて聖書がいかにこの出来事が、
奇跡であったことを明確にしようとしている意図が見えてきます。
9:10 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。
イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。
9:11 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。
イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
イエス様と弟子たちとは、自分たちだけでベトサイダという町へ退かれたと聖書は言います。
そして群衆はそのことを知ってイエスの後を追ったのです。
つまり、五千人の給食の奇跡を行うために意図的に人々を集めていた訳ではありません。
また奇跡を行ったように見せかけるために、
事前に準備をしていた訳ではないということが明らかにされています。
9:12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。
「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、
食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
群衆たちとイエスとその弟子たちが共にいるこの場所は、人里離れた場所です。
どこから大量の食糧を運んできたりすれば、
直ちに分かってしまうような場所であったと考えられます
食糧を供給する家もないことが分かります。
実は、どこかのイエスに好意を寄せている大金持ちの家族が、
こっそり準備していたなどという疑いが入り込む余地がないようになっています。
9:13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。
「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、
このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」
ここでイエス様は弟子たちに、
「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と、言っています。
これによって弟子たちは、自分たちの手持ちの食糧全てが、
ホンのわずかであったことを自ら確認して報告しています。
つまり、弟子たちが実は隠していたということはなかったと言われているのです。
9:14 というのは、男が五千人ほどいたからである。
イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。
9:15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
9:16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、
天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
9:17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
残ったパンくずは、最初にあった5つのパンよりも多くなっていました。
そして誰もが食べて満腹するほどの量があったのです。
五千人の人々が自分が隠し持っていた食料を差し出したということならば、
皆が食べて満腹した後に、十二の籠にパンのあまりを集めることなどできなかったでしょう。
また人々が遠慮をして、少しずつ食べたので余ったということならば、
最初より量が増えるということはあり得ません。
「知性を働かせよ」と言うならば、「このことが奇跡であることを認めなさい」ということなのです。
そして、この五千人の給食の出来事が奇跡であると認め、信じることは、
わたしたちの不信仰を認め、神の前に悔い改めることを意味します。
それは恥ずべきことではありません。
弟子たちもまた、この奇跡を直ちに理解した訳ではありませんでした。
マルコによる福音書によれば、
「弟子たちはパンの出来事を理解しなかった」という言葉さえあります。
イエス・キリストの弟子たちが愚かであったからではありません。
イエス・キリストの弟子たちですら、これが奇跡であることは、目の前で起こったことでありながら、
認めることができないようなことだったのです。
わたしたちが自分の不信仰を認めることこそ、大切な神の前に喜ばれることです。
なぜならば、イエス・キリストが十字架に架かって死んでくださったのは、
まさにわたしたちが不信仰であったからです。
この不信仰なわたしたちを赦すために主は命を捧げてくださったのです。
五千人の給食のような奇跡を起こすことなど、わたしたちには到底できはしません。
しかし、にもかかわらず、いかにわたしたちは高慢になり、
神と人の前に自分は何者かであるかのように誇っていることでしょうか。
ちょっとでも人より見栄えのいい家に住んでいれば、
自分はぼろ屋に住んでいる人より偉いと思いますし、
逆ならば、卑屈に自分は価値がないかのように思ったり、あるいはねたんだりします。
職業においても同じでしょう。その収入の多い少ないで、自分や人の価値を平然と決めています。
地位や名誉やそんな神様の前で何の役にも立たないこと
わたしたちは自分の価値が上がったり下がったりすると思っているのです。
そして、そのことで一喜一憂しているのが人間の生涯で
そして、多少なりとも人と比べて多く献金をしたり、社会に貢献したりすれ
もう認めて欲しくてたまりません。
主イエスは、この五千人の給食という信じらない奇跡を、
誰にも知られないようにされたにもかかわらず、
わたしたちの行いのなんとかけ離れたことでしょうか。
以前、ある財界の大物と称される方が、儲けたお金をあちらこちらに寄付しては、
ご自分のことをこれでもかというほど宣伝されました。
ご自身がお母さんをおんぶして金比羅山だかどこかの階段を上る大きな絵を描かせて、
船の博物館だかの玄関に飾らせておりました。イエス・キリストのやり方とは全く違います。
しかし、わたしたちはこの人のことを笑うことができるでしょうか。
わたしも前回の信徒大会でお話ししましたように、小さな翻訳を出版して、
中越地震のための献金集めに用いていただいています。
しかし、この出版を通して、少しでも自分が認められたい、
認めて欲しいという思いが心の底にあることを認めざるを得ません。
わたしも愚かな一人の罪人です。
わたしたちの主イエス・キリストを褒め称えましょう。
そして、このわたしたちの罪のゆえに主は十字架にかかって死んでくださり、
わたしたちを死から解放してくださいました。
五千人の給食の奇跡を信じるということ、信じられるということは、
神の前に全面降伏をすることです。自らの卑小さを痛感することです。
ここにこそ神は、わたしたちに最大の御業をなされるのです。
わたしたちの主イエス・キリストに栄光が限りなくありますように。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988