水戸中央教会 説教          2007年2月4日

「信仰の種」

ルカによる福音書8章4〜15節

4:大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、
 イエスはたとえを用いてお話しになった。
5:「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、
 人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。
6:ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。
7:ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。
8:また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」
 イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

 9:弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。
10:イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、
 他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、
 『彼らが見ても見えず、
  聞いても理解できない』
 ようになるためである。」

 11:「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。
12:道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、
 後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。
13:石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、
 しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。
14:そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、
 途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、
 実が熟するまでに至らない人たちである。
15:良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、
 よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

 神に祈り求めつつ、わたしたちクリスチャンは日々の生活を形作りたいと願っています。
日々、聖書に親しみ、その御言葉を深く心に留め、祈りを大切にしようと思ってはいるのですが、
これを実践することは、そんなにたやすいことではありません。
 この種まきのたとえは、何度も教会の中で語られ、有名な聖書の言葉です。
「ああ、またか」と思ってしまって、分かっているつもりになってしまう危険性があります。
 道ばたに落ちた種とは、実にこのような状態ではないでしょうか。
聖書の御言葉を日々読み、聞いてはいますが、何度も何度も習慣的に聞いているために、
何でも分かっているつもりになってしまい、
その御言葉のわたしに対する意味が通り一遍になってしまうのです。
わたしの心は踏み固められた道のような状態で、
神の言葉が根を張って育つことができないのです。

 教会生活も長く、忠実に守っており、
「あの人は立派なクリスチャンだ」と教会の内外から言われるようになるとき、
そこには御言葉の種が「人に踏みつけられる」という大きな危険があるのです。
なぜならば、そこでは神の権威と栄光が崇められるのではなくて、
誉め称えられているその人が崇められているからです。
そして高慢になり、立派なクリスチャンとして自他共に認めるような状態となって、
人を裁くようになってしまうとき、それは「空の鳥が食べてしまった」という状態なのです。

 わたしは以前、このたとえ話を教会にいる人々とそうではない人々というような理解をしていました。
つまり、生涯、教会に集い続ける人々は、良い地に蒔かれた種だが、
福音を聞いても教会から色々な事情で離れてしまう人々は道端であったり
石地であったり茨の地なのだと思っていました。
 しかし、先のような視点からこのたとえをもう一度見直しますと、
この道端や石地や茨の地は何も教会の交わりから離れてしまう人々のたとえではなく、
教会の中にいる人々について言われていることでもあると言うことができます。

 「自他共に認めるクリスチャン」それどころか牧師のような指導する立場にありながら、
道端や石地や茨の地であることがあり得るのです。
ですから、「このたとえはもう分かっている。」というような態度は許されません。
むしろ、このたとえの前にわたしたちは常に襟を正す必要があるのです。

 ガラテヤの信徒への手紙5:22−23 には、わたしたちが結ぶ実について次のような言葉があります。
「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。」
 わたしたちは愛によって生かされ、生きていることが信仰によって明らかとなっているでしょうか。
その光が輝いているでしょうか。わたしたちの信仰生活を通して、喜びがあるでしょうか。
何の喜びもないのに、そのことに気が付きもせず、信仰生活を続けていないでしょうか。
 もちろん、忍耐の時というのはあります。
しかし、その忍耐の向こうにある喜びの確信をわたしたちは知っているでしょうか。
わたしたちは隣人との間に平和を創り出しているでしょうか。
わたしたちは寛容であり、親切であるでしょうか。善意と誠実をもって人に接しているでしょうか。
柔和と節制をもって自分を律しているでしょうか。

12:道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、
 後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。

 これはファリサイ的なわたしたちの心について語っています。
ファリサイ派の人々は、福音書の中でイエス様から非常に批判されています。
彼らは、神の言葉を大切にするといいながら、
本当に大切なのは、神の言葉を大切にしていると人々に思われ、
自分自身が高く評価されることだったからです。
 わたしたち敬虔なクリスチャンにも同じ危険性は常につきまといます。
礼拝は、わたしたちが正しいクリスチャンとして認められるために来るのではなく、
神の前に謙虚になり、神の栄光を讃えるためです。わたしが認められるために来るのではありません。

13:石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、
 根がないので、しばらくは信じても、
 試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。

 わたしたちは神の御言葉を聞いてこれを行おうとしているでしょうか。
自分がその御言葉に従って、実際の生活を変えようとしなければ、
神の言葉は聞いているだけでは意味がありません。
生活の中で実践してこそ、意味があります。
「敵を愛しなさい」という御言葉に従って、「敵を愛そう」とするとき、
わたしたちは自分というものが、変化をするのを感じます。
 自分の思いでは決して越えられない一線を、わたしたちは御言葉に従って越えようとするとき、
わたしたちは自分自身の成長を実感するのです。

 「『敵を愛しなさい』とは素晴らしい神の御言葉だ。
何と神さまの御心は広く偉大なことなのだろう。人間もそうでなければならない。」
と喜んで受け入れいますが、いざ、これを自分がするとなると、身を退いてしまうのです。
 実際に、自分の周りに敵が現れて、この御言葉の実践を自分自身に問われたとき、
身を退いてしまうということがわたしたちにもあるのです。

 試練にあうと身を退いてしまうとは何も教会に問題が発生したり、
迫害を受けたときのことを言っている訳ではありません。
 御言葉を行うことができなければ祈り求めれば良いのです。
わたしたちが祈り求めるべきことは、神の御心に従い、これを行うことです。
「求めなさい。そうすれば与えられるであろう。」
とイエス様は教えてくださいました。わたしたちは求めたことがあるでしょうか。
 「敵を愛することができるような心をあたえて下さい」
と祈り求めたことがあるでしょうか。
 敵が現れると、祈ることは、その敵が神によって裁きに遭い、
こてんぱんに打ちのめされることではなかったでしょうか。

14:そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、
 途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、
 実が熟するまでに至らない人たちである。

 この御言葉もやはり、教会の交わりから離れてしまう人はもちろんのこと、
教会の交わりの中にあるわたしたちにとっても起こりうる事態です。
 牧師である自分は最もこの危険にさらされているようにわたしは思います。
なぜならば教会での奉仕が、牧師にとっては人生の思い煩いとなりうるからです。
 信徒がどんどん増えて活発な教会を見ると、
しょぼくれたり、「あれはカルト的なのではないか」と、批判をしたりします。
 また自分の奉仕する教会よりも停滞している教会を見ると優越感に浸って、
「自分もまんざらではない」と思ったりします。
 牧師は説教がその主な仕事ですが、他人の説教を聞いて、
自分より良いか悪いかという評価に振り回されている自分があります。
劣等感をもったり優越感を持ったりしてしまい説教を説教として聴けなくなってしまうのです。
 富や快楽に覆いふさがれてしまうということは牧師も教会員も変わりはありません。
学識や教養が御言葉に聴くことの邪魔となる場合も頻繁に起こることです。

15:良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、
 よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。

 シンプルなクリスチャンでありたいものです。
そしてそのシンプルさを大切にしてゆきたいものです。

 霊の結ぶ実は愛であり、
喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。

 わたしたちは人々と出会うとき、相手がどんな職業なのか、
どんな家柄なのかというようなこの世の評価に左右されがちです。
しかし、教会での交わりにおいてそれはまったく本質的なことではありません。
 富んでいる者も貧しい者も共に主イエス・キリストにあって兄弟姉妹であり、
日本人も外国人も主イエス・キリストにあって区別はありません。
 わたしたちは人々に認められるためにクリスチャンとして生きているのではありません。
神の御心が、わたしの心の中に完全になるために生きているのです。

 愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制が、
わたしの心の中に具体的な姿を表し、光り輝くことがわたしたちの生きる意味です。
ですからルカによる福音書の今日の御言葉には次のような言葉が続いています。

8:16 ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。
  入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。

 光り輝くのは、わたしたちの業績、富、地位ではありません。
愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制なのです。
これらを通して神の栄光が光り輝いているのです。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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