水戸中央教会 説教           2007年1月21日

「イエス・キリストの福音」

ルカによる福音書4章16〜30節

 
16:イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、
  聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
17:預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、
 次のように書いてある箇所が目に留まった。
18:「主の霊がわたしの上におられる。
  貧しい人に福音を告げ知らせるために、
  主がわたしに油を注がれたからである。
  主がわたしを遣わされたのは、
  捕らわれている人に解放を、
  目の見えない人に視力の回復を告げ、
  圧迫されている人を自由にし、
19:主の恵みの年を告げるためである。」
20:イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。
 会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
21:そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
 と話し始められた。
22:皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。
 「この人はヨセフの子ではないか。」
23:イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、
 『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、
 『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』
 と言うにちがいない。」
24:そして、言われた。「はっきり言っておく。
 預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
25:確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、
 その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、
26:エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、
 シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
27:また、預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、
 シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
28:これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、
29:総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、
 町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
30:しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 主イエス・キリストが伝道活動を始められて、
ある程度この地方で有名になっていた時のことと考えられます。
 故郷の村、ナザレに来て、皆が礼拝に集まる安息日に聖書を読み、
説教をなさいました。
 その時、手渡された聖書の箇所はイザヤ書の言葉は次の通りでした。

18:「主の霊がわたしの上におられる。
  貧しい人に福音を告げ知らせるために、
  主がわたしに油を注がれたからである。
  主がわたしを遣わされたのは、
  捕らわれている人に解放を、
  目の見えない人に視力の回復を告げ、
  圧迫されている人を自由にし、
19:主の恵みの年を告げるためである。」

 
 これはイザヤ書61章からの言葉です。
そして、イエスは、
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
と話し始められました。
 村人は驚いて聞いていましたが、
その中から「この人はヨセフの子ではないか」という人々が出てきました。
これはつまり、
「あなたはヨセフの子であって、神から遣わされた人ではない」という意味です。
 また、
「同郷のよしみで、あなたに与えられた奇跡を行う力をここでも示して、病人を癒して欲しい」
という思いもそこに含まれています。
 これに対して、イエス様は「預言者は故郷では歓迎されない」と言って、
エリヤやエリシャなどの有名な預言者たちの恩恵に与ることができたのは、
自分の国のイスラエルの人々ではなく、外国人たちであったことを証拠としてあげました。
 すると村人たちは怒り、イエスを追い出し、町の崖の上から突き落とそうとしましたが、
イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られたということです。

 この聖書の言葉を聴いて、皆さんはどのように思うでしょうか。何を考えるでしょうか。
 書かれていることは誰にでも分かります。平易な言葉で書かれていますし、
起こった出来事も分かります。

 「『預言者は自分の故郷では歓迎されない』なるほどなぁ、そういうものかなぁ。
わたしはクリスチャンだけれど、
わたしがクリスチャンだということを確かにわたしの家族は喜んでいないなぁ」
というように考えます。家族の無理解を思い起こします。
 しかし、同時にそこには疑問があるのではないでしょうか。
「貧しい人に福音を、捕らわれている人に解放を、目の見えない人が見えるように、
圧迫されている人に自由を与えるためにキリストが来たというのならば、
なぜ今も、イエス・キリストを信じても貧しい人々はたくさんいるし、
目の見えない人もいる。圧迫され続けている人もいるではないか。
なぜ、『今日、この言葉を聞いた時に実現した』なんて言うことができるのか」
と、わたしたちは考えないでしょうか。

 「おそらく、この言葉は、
まさにイエス様が実際にそのようにおっしゃった今から2000年前には本当だったのだ。
イエス様は目の見えない人を癒したと聖書にあるし、
福音を貧しい人々に確かに語ったと聖書に伝えられている。
2000年前、このイザヤ書の御言葉は成就して本当のことだったのだ。
全てはまさにイエス・キリストにおいて実現したのだ」
と、クリスチャンであるわたしたちは考えます。

 しかし、ここには罠があります。
つまり、わたしたちは今日のルカによる福音書の言葉を歴史的事実としては認識しますが、
わたしたちの心の真実としては何の意味もないものとなってしまうのです。
 何が言いたいかと言いますと、
「ナザレの人たちはなんと愚かな人々だろう、
せっかくのキリストを迎えながら、追い出してしまうとは」
とか、
「当時のナザレの村の人々は分からなかったが、
今、聖書を読んでいるわたしたちは、
この御言葉がイエス・キリストにおいて実現していることが分かって幸せだ」
などと考えることです。

 確かに、この聖書の言葉に与っているわたしたちは幸せなことは幸せなのですが、
その幸せがなんなのかをよく分かっていないのです。
 この聖書の御言葉がわたしたちの恵みとなるのは、
わたしたちが、「自分はこのナザレの村人と同じだ」と分かるようになるとき恵みとなるのです。
イエス・キリストを追い出した2000年前のナザレの村人たちと同じ思いを
自分が持っているということを発見するところに祝福の源があるのです。
 決してナザレの村の人々の犯した過ちは、
現代を生きるわたしたちにとっては2000年前の大昔の何の関係もない出来事ではなく、
今もわたしたちが犯し続けている罪であると気が付くことが大切なのです。

18:「主の霊がわたしの上におられる。
  貧しい人に福音を告げ知らせるために、
  主がわたしに油を注がれたからである。
  主がわたしを遣わされたのは、
  捕らわれている人に解放を、
  目の見えない人に視力の回復を告げ、
  圧迫されている人を自由にし、
19:主の恵みの年を告げるためである。」

 このイザヤ書の言葉が、「今、聞いたときに成就した」と、イエス様はおっしゃいました。
しかし、わたしたちは、「どこに成就したのだ」と周りを見回します。
そして、成就していない現実の事実を数え上げます。そして成就していないことを確認します。
なぜならば、わたしたちはこのイザヤ書の御言葉のそもそもの意味を理解できないから、
このように考えるのです。
 イザヤ書の御言葉において大変重要な見落としやすい点は、
神さまがどのような方であるかという点です。

 神は貧しい人々に福音を告げ知らせようとしておられます。
捕らわれている人々を解放しようとされる方です。
目の見えない人々の視力を回復される方です。圧迫されている人を自由にされる方です。
 では、わたしたちはどうでしょうか?

 神が貧しい人々を愛されて救おうとされているように、
貧しい人々に救いの手を差し伸べようとするでしょうか。
 わたしたちは日本人として豊かさの中に生かされていますが、
この豊かさは、貧しい国々の人々の犠牲の上に成り立っているのではないでしょうか。
 自分より豊かな人々を見たとき、自分は貧しいと思うかも知れません。
あるいは貧しいからということでさげすまれたりすれば、わたしたちは怒るでしょう。
その怒りや情けない思いというのは一体何なのでしょうか。
 あるいはまたわたしたちが自分の努力や才能によって、
人から盗むことなく現在の富や社会的立場を築き上げたとします。
すると、貧しい人々に向かって、
「あの人々は努力を怠ったからだ」と、さげすんだりしないでしょうか。
 つまり、わたしたちは神の救いなど待ち望んでいないということなのです。

 神は捕らわれている人々を解放しようとされる方です。
しかし、わたしたちの現実は人々を捕らえようとしているのではないでしょうか。
 あるいは捕らわれている人々を解放すると言いながら、
もっと多くの人々を捕らえようとしているのではないでしょうか。

 共産主義の人々は人々を貧しさから救い、捕らえられている人々を解放しようとしました。
そのために捕らえられました。
 しかし、共産主義の人々が国を造ると、
捕らえられている人々を解放するという名目のもとに、
より多くの人々が捕らえられ殺されてゆきました。

 神は捕らわれている人々を解放される方です。
この解放の業は人間にはできないことだとわたしたちは考えたことがあるでしょうか。
 そしてわたしたちの考える神さま、
心の中に思い描いている神さまは一体どのようなものであるかが問われています。
わたしの信じている神さまとは、
結局のところ、わたしが健康で才能に恵まれ、
物質的経済的に豊かになることを保証してくださる方、
あるいは信じるとそれを実現してくださる方ではないでしょうか。
 つまり、突き詰めればわたしが世界の支配者にするのが神さまの仕事なのです。
わたしたちは決して人々を解放しようなどとは思いません。
わたしたちは支配しようとするのです。

 目の見えない人々を見えるようにしてくださるのが神さまです。
神さまの思いは目の見えない人々に向かっています。
 しかし、わたしたちの思いはそうではありません。
目の見えない人々は社会の隅っこに押しやられています。
決してわたしたちの関心の的ではありません。

 神さまは圧迫されている人々を自由にしようとされる方です。
しかし、わたしたちは、隙があれば、自由な人々を圧迫しようとする者たちです。
 虚栄心、見栄、嘘や誇張は、このわたしたちの人を圧迫しようとする思いから出てきます。
そして始末の悪いことに、わたしたちは誰もがこのような悪い思いを持っているのに、
それを持っていないと主張してはばかりません。
そんなことを言ったら、もう非難ごうごうで、
「そんなことを言う、お前は一体、何様だ」ということになります。

28:これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、
29:総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、
 町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。

 わたしたちもナザレの村人たちと同じなのです。
イエス様を心の外に追い出し、崖から突き落とすのはわたしたちの赤裸々な心です。
自分の心の醜さを見いだすことができるならばわたしたちは幸いです。

30:しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 神はわたしたちの救いの道を守り、残してくださいました。
神は主イエスをこのまま群衆の手に引き渡し、殺させることもできたのですが、
そうすれば、わたしたちの救いの道は断たれてしまったのです。
人は自ら永遠の滅びの中に落ち込んでしまったのです。
しかし、神はそれをよしとされませんでした。

 わたしたちに救いの道は残されています。
この救いの道を歩むことがわたしたちには許されています。
 今日、あなた方は、このイエス・キリストの恵みの道がまだ残されていることを聞きました。

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」

 イエス・キリストの福音を、今日、今、この世にあって生きている今、信じましょう。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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