
水戸中央教会 説教 2007年1月14日
「漁師を弟子とする」
ルカによる福音書5章1〜11節
1:イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、
神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
2:イエスは、二そうの舟かが岸にあるのを御覧になった。
漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
3:そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、
岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。
そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
4:話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
5:シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
6:そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
7:そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。
彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
8:これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
9:とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
10:シモンの仲間、ゼベダイのヤコブもヨハネも同様だった。
すると、イエスはシモンに言われた。
「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
11:そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
神の子である主イエス・キリストは、貧しい大工の子どもとして、マリアから生まれました。
イエス様が生まれたのは旅の最中であり、場所は家畜小屋であったと伝えられています。
病院や産婆いたというような、何か子どもが生まれるためのしかるべき準備はまったくありませんでした。
王の王である真の神の御子が生まれるとき、
神は、ご自身の愛する子をどこかの偉い王様や貴族のもとに託すこともできたでしょうが、
そうはなさいませんでした。
確かに予言者によって預言されたとおり、
イエスの父親役を務めたヨセフはあの偉大なるダビデ王の系図に連なる者の一人でしたが、
ダビデ王からは千年近くも時が経っており、ヨセフは貴族でも祭司でも学者でもなく、
社会的には当時最も下層の階級に属していました。
イエスの最初の弟子たちは、漁師であったと本日のルカによる福音書は伝えています。
神の子イエス・キリスト、人類史上最高の教師は、漁師などの貧しい人々、
当時の社会において無教養と言われていた人々を弟子としました。
王や貴族の子弟、富豪や教養ある学者たちを弟子としませんでした。
知識や教養がある方が、物事の理解が早く、教えやすく指導がしやすかったに違いないはずですが、
イエス様はそのようにはなさいませんでした。
釈迦や孔子の弟子たちは知識と教養に恵まれた人々が集いましたが、
イエス様は知識にも教養にも恵まれないような人々からご自分の弟子を選びました。
このような姿勢は、旧約聖書から、聖書が伝える唯一真の神さまの一貫したした姿勢です。
神さまがご自分の民とされたイスラエル民族は、エジプトで奴隷とされていた民であり、
当時のエジプト王国から大変な迫害を受け、苦しんでいました。
世界の超大国であったエジプトの民を神の民としませんでした。
神の民とは無敵で全世界を支配する力を持っているはずではないでしょうか。
世界で最も強く、最も豊かで、最も賢い民こそが神の民ではないでしょうか。
しかし、唯一真の神は、小さな奴隷の民イスラエルをご自分の民とされました。
神は、イスラエルが強いまた豊かな民であったから選んだのではない、
とはっきりと聖書の中でおっしゃっています。
神さまはイスラエルが弱く、貧しい民であったから選ばれたとおっしゃっています。
それは、神の栄光と力が明らかとなるためです。
人が謙虚に謙遜になることを神は求めていらっしゃるのです。
そしてそれこそがわたしたち人間の現実なのです。
神はわたしたちを愛して救おうとされていらっしゃるので、
世界でも最も弱い民族を選び、貧しさの中に生まれ、愚かな人々を弟子とされたのです。
なぜならば、わたしたちの人間の誇りや地位や名誉や富などは、
わたしたちの永遠の命とは何の関係もないからです。
人生において求めるべきことは神さまご自身であって、
この世の富や名声ではないからです。
1:イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、
神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
2:イエスは、二そうの舟かが岸にあるのを御覧になった。
漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
3:そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、
岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。
漁師たちは、イエスの言葉を聴こうと求めて、
イエスのもとにやって来た群衆の一人ではありませんでした。
たまたまイエスが説教をされている近くにいただけです。
「舟からあがって網を洗っていた」ということですから、
特にイエスに関心を持っていたのではなく、偶然、そこに居合わせただけです。
むしろ、イエス様のほうから、押し寄せてくる群衆を避けるために、
「舟を貸すように」と声をかけて頼んだ訳です。
4:話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
5:シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
6:そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
舟を用立ててもらったお礼とも考えられます。
イエスは、自分の依頼に従ったシモンに舟を沖にこぎ出して漁をするように命じます。
今のようにエンジンで舟が動く訳ではありませんから、
沖に漕ぎ出すというのは、ちょっとそこまで車で行くというような気楽なことではなかったでしょう。
しかも、彼らの長年の漁師としての経験から、
今、沖に漕ぎ出して漁をしても何も捕れないことは分かり切っていました。
5:シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
シモン・ペトロは、魚が捕れるか捕れないかということよりも、
この群衆が集まってきて、話を聞いているイエスという、
何か偉いのであろう方への敬意から網を降ろして魚を捕ろうとします。
イエス・キリストに対するほんのわずかばかりの敬意と、
イエスの言葉への服従が彼の人生を決定的に違ったものと致しました。
彼はイエスの言葉を、
「いくら先生だからって、そんなことあんめぃよ」
と笑い飛ばすこともできたのです。しかし、彼はそうしませんでした。
ほんのわずかばかりの敬意を持つことと、
イエスの言葉への服従がいかに大切なことでしょうか。
そしてそこからわたしたちの想像を超えた大きな恵みが与えられるのです。
主イエス・キリストはこの世に和解と平和をもたらすためにいらっしゃいました。
わたしたちもまた和解と平和のために、
イエス・キリストの言葉にわずかばかりの敬意と服従を示しているでしょうか。
「兄弟がわたしに対して罪を犯すとき、何回まで赦すべきでしょうか。7回まででしょうか」
と弟子たちが尋ねたとき、イエス様は
「七の七十倍までも赦しなさい」
と命じられました。
「先生、わたしはあの兄弟あるいは姉妹を何度も赦しましたが、
何の効果もありませんでした。しかし、お言葉ですから、赦しましょう」
と、わたしたちは主に答え、行っているでしょうか。
わたし自身を振り返ると、案外行っていない、
主の言葉にほんのこれっぽっちも敬意や服従を示したことがないと思わされます。
人間関係というものは非常にもろいもので、
ある種の対立が一旦生じるともう修復不可能になってしまうことが多々あります。
「あの人を許せというのですか。そんな馬鹿馬鹿しい」
ということがしばしばです。
わたしたちは舟を沖へ漕ぎ出そうともしなければ、網を降ろそうともしていないではないでしょうか。
6:そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
7:そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。
彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
8:これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
9:とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
しかし、わたしたちが主の御言葉に従って「赦せない人を赦そう」とするとき、
そこに大きな人生の恵みが与えられます。
その恵みは、丁度、ペトロたちが他の舟を呼んでようやく引き上げることができた魚のように大きく、
わたしたちの他の兄弟姉妹をも豊かにします。
教会の中に和解が起こるとき、丁度舟が魚で沈みそうになるほど満ちあふれたように、
この礼拝堂は人々で満ちあふれるでしょう。
そして、わたしたちは主の御前に自らの罪深さを告白するのです。
わたしたち個人の人生にも争いがあり、不和が起こるでありましょう。
争いがあったり不和があったから、その人生や人間関係はダメなのではありません。
そうではなくて、そこに和解が起こるか否かが問題なのです。
争いと不和は起こって来ます。それはごく自然なことなのです。
争いと不和によって人々は分裂します。
それは生命の営みといってもいいかも知れないくらいです。
しかし、そこに赦しが起こり、和解が起こるときそれは神の御業に他なりません。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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, Tokyo 1987,1988