
水戸中央教会 説教 2007年1月7日
「イエスの洗礼」
ルカによる福音書 3章15節〜22節 新約p.106(新共同訳聖書)
15:民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、
もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
16:そこで、ヨハネは皆に向かって言った。
「わたしはあなたたちに水で洗礼(バプテスマ)を授けるが、
わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
17:そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、
麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
18:ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
19:ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、
また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、
20:ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。
21:民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、
22:聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
今年最初の主日礼拝に与えられている聖書の言葉は、ルカによる福音書3章です。
洗礼者ヨハネの言葉とイエス様が洗礼を受けられたことが記録されている箇所です。
15:民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、
もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
16:そこで、ヨハネは皆に向かって言った。
「わたしはあなたたちに水で洗礼(バプテスマ)を授けるが、
わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
17:そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、
麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
洗礼者ヨハネは、イエス様が再び地上にやって来られるのを待ち続けている、
わたしたちクリスチャンのお手本です。
民衆が、「このヨハネこそメシア、つまりキリストではないか」と考えていることに対して、
きっぱりと「わたしはキリストではなく、わたしの後にわたしよりも優れた方が来られ、
わたしはその方の履物のひもを解く奴隷にも劣る」と、ヨハネは言います。
なかなか、できないことだと、まず思います。
わたしなどは、本当の自分より、自分を大きく見せようとすることばかりに
気を使ってしまうことが多く、大いに反省させられます。
自分がキリストのように見られはじめたら、
人というのは案外その誘惑に引っかかってしまうのです。
全く自分は、キリストでも何でもなく、何の力もないにもかかわらず、
人々がそのように思ったら、わたしは愉快に思うという愚かさを持っています。
洗礼者ヨハネは、祭り上げようとする人々に対して、
明確な「ノー」を言えたという点でまさに神の使者なのです。
わたしたち日本人は特にこの点に関して弱いという具体的な歴史的事例があります。
つい先日まで、日本には人々から、「あなたこそ神です」と言われて、
「はい、そうです」と言っていた方がいらっしゃいました。
そのころ、わたしたちの日本基督教団は、「いや、あの方は神ではない」と言うことができず、
「天皇は現人神である」という偽りの告白を致しました。
最近、日本社会は右傾化の傾向が強まってきましたが、
当時の教会の人々の苦悩がわずかばかり理解できるような気がします。
わたしたちは同じ過ちを繰り返してはなりません。
なにか人のためにお祈りをして、
たとえば「病気がよくなりますように」と祈ったとします。
そしてその当人が実際に健康になって、
「あなたのお祈りのおかげでよくなりました」と、言われますと、
すぐなにか自分の祈りに力があったかのように思い、自分は特別だと思ってしまう。
それは誘惑の時です。「本当に神さまに感謝ですね」という一言がなかなか出てきません。
つまりわたしたちは自分の偉大さを教会の中においても探し求めているのです。
しかし、教会はわたしたちひとりひとりの偉大さではなくて、
神の偉大さが探し求められ、讃えられるところです。
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。」イザヤ 43:19
これは「日々の聖句」の今年一年のテーマです。
わたしたちにとって新しいこととは、自分の偉大さではなくて、
神の偉大さが探し求められ、讃えられることではないでしょうか。
この世の終わりの裁きの日に麦の実と殻をふるい分けるように分ける基準とは、
わたしたちがどんな善いことをしたとかしなかったということではなく、
わたしたちが自分の栄誉のために生きたか、神の栄光のために生きたかにあるのです。
善をなしたならば、その善が神の栄光を讃えるためであったか、
自分が人々から褒め讃えられるためであったかが問題です。
悪を為したとしても、その悪を神の前に悔いて、赦しを請おうとしたか否かが問題なのです。
神の栄光を讃えるためには、何もわたしたちが善をしなければならないということではありません。
悪と罪を犯したとしても神の栄光と義を讃えることはできるのです。
自らの罪を認めることは、神の御名を誉め称える大きな一歩です。
罪を認めることは自分のプライドがぺしゃんこになることです。
わたしたちの生きる意味は、自分のプライドを守ることではありません。
わたしたちの神が讃えられることです。
18:ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
福音とは「良い知らせ」です。どのような「良い知らせ」なのでしょうか。
先日、韓国からいらしているフルゴスペル水戸教会のパク先生のお説教を伺う機会がありました。
パク先生は、こんな例話を紹介されていました。
1972年に横井庄一さんがグアム島で見つかり、保護されました。
2年後にはフィリピンのルバング島で小野田寛郎(ひろお)さんが保護されます。
もう30年以上前のことですが、よく覚えていらっしゃると思います。当時の大ニュースでした。
彼らは戦争が終わったことを知らされず、
まだ日本とアメリカは戦っていると思いこんでジャングルの中に逃げ込んで30年以上暮らしました。
小野田さんは、アメリカの基地を襲ったりして損害を与え、
昔、日本軍で使っていた銃を丁寧に手入れし、襲撃の際にはこの銃を用いていました。
捕まった当時も銃はいつでも使用可能な状態でした。
彼らは個人的には忠実で実直な素晴らしい人々であったのではないかとわたしは思います。
しかし、彼らの人生は、戦争が終わったということを知らされなかったことによって
現実ばなれしたものとなりました。
戦争は、とっくの昔に終わってしまっているのに、ジャングルの中を逃げ回り、
不自由な生活を堪え忍び、小野田さんの場合はアメリカの軍隊や警察に銃を向け、
結果的に自分の部下を死に追いやっています。
知っていたならば、全てはしなくてもいい苦労、無駄な人生です。
死ななくてもよい人が死んでしまいました。全ては、知らされていなかったからです。
知らないということは取り返しのつかないことを招くよい例ではないでしょうか。
福音は「良い知らせ」です。知らせは聞くことによって知ることができます。
ですからそこではよく聴くということが大切です。
まず、何が言われているかを知らなければなりません。
そして、聞いたことに従って行わなければ何の意味もありません。
わたしたちは「よい知らせ」である福音に与っていますが、そのように生きているでしょうか。
福音は、神と人との間の平和を告げ知らせています。
しかし、わたしたちはその神との平和を楽しんでいるでしょうか。
神との交わりの断絶した戦争状態にわたしたちはいないでしょうか。
普通の日々を省みてください。
朝、わたしたちは神への感謝をもって目を覚ますでしょうか。
聖書を開き、祈る時間があるでしょうか。
聖書のどこにも、金持ちになれとか、高い地位につきなさいなどとは書いていないのに、
なぜ、わたしたちはそれを求めるのでしょうか。
それは、わたしたちが神との平和を知らないからです。
何か解決すべき問題に直面したとき、わたしたちは考え行動します。
案外、その時、祈りをまず優先させるということがおろそかになりがちです。
まず祈るということが大切です。
このことは、クリスチャンとしての生活が長くなればなるほど、
ますます確かにされてゆく真実です。
本当ににっちもさっちも行かなくなって祈り、祈ったら、
別にこれということをする必要もなく、
物事が解決に向かったという経験がわたしにとっては増えてきました。
それは皆さんにおいても共通している経験ではないでしょうか。
先ほどの横井さんや小野田さんのことで、忠誠心に満ちあふれた軍人の手本のように誉め称え、
日本人の忠誠心というのは特別なものだと、国家主義的に利用する風潮があります。
しかし、日本人が他の民族に勝って忠誠心に優れているとはわたしは思いません。
キリスト教会においても忠誠心というのは大変に大切にされています。
それはおそらく日本の伝統をはるかに凌いでいるとわたしは思います。
わたしたちが今、目の前にしている聖書の内容は旧約聖書は3000年以上、
新約聖書は1900年以上変わっていません。
水戸中央教会では、イエス・キリストと弟子たちの最後の晩餐に起源する聖餐式を毎週執り行いますが、
これはイエス・キリストが後の弟子たちに伝えるようにと言った一言の命令に従って行われています。
また決して人を殺めることなく、イエス・キリストへの忠誠を証ししてきた、
数え切れない殉教者たちが昔もそして今も世界中にいます。
このようなキリスト教会に対して、武士道的な日本人の忠誠心を持ち出すことは、
夜郎自大のおこがましいことと言わざるを得ないのではないでしょうか。
21:民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、
22:聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
神の子、イエス・キリストがわたしたちのところに来て下さり、父なる神を示して下さいました。
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。」イザヤ 43:19
わたしたちが神さまの助けによって新しいことを行うのではありません。
神さまご自身が新しいことを行われるのです。
イエス・キリストを信じるとき、神はわたしたちに新しいことを行われるのです。
神ご自身が、この水戸の伝道をすでに行って下さっています。
「今や、それは芽生えている」とおっしゃっています。
わたしたちこそが、その小さな小さな芽生えです。
わたしたちがイエス・キリストを信じて救われるようになったのです。
他の水戸の人々が信じて救われない訳はありません。
神の大いなる御業を讃える一年となりますよう祈りましょう。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988