水戸中央教会 説教                      2006年12月17日

「洗礼者ヨハネの誕生」

ルカによる福音書1章5〜25節

 
5:ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。
 その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。
6:二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。
7:しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。
8:さて、ザカリアは自分の組が当番で、紙の御前で祭司の務めをしていたとき、
9:祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。
10:香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。
11:すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。
12:ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。
13:天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。
 あなたの妻ウリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。
14:その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。
15:彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、
 既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、
16:イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。
17:彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、
 逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
18:そこで、ザカリアは天使に言った。
 「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。
 わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」
19:天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、
 この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。
20:あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。
 時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
 21:民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。
22:ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。
 そこで人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。
 ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。
23:やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。
24:その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。
25:「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」

 一昨日(2006年12月15日)、教育基本法の改正が国会で議決されました。
 第二次大戦後に制定された教育基本法にはクリスチャンの人々が多く関わり、
キリスト教精神が反映されていました。
 わたしたちの日本基督教団は今回の教育基本法の改正について抗議反対する声明を明らかにしてきました。
なぜならば、この改正は戦前の軍国主義の思想に基づいているからです。 
 わたしは今、ここでこの教育基本法改正を進めている人々を批判しようとは思いません。
そうではなくてわたしたち自身のあり方を反省し、これからどのようにあるべきかを考えたいと思います。

 せっかくキリスト教精神に基づいた教育基本法があったにも関わらず、
その精神が日本社会において実質化して結実することがなかったという反省がなされるべきではないでしょうか。
つまり、わたしたちの伝道活動がおろそかであったということです。

 太平洋戦争の敗北によって日本はそれまで迫害されてきたキリスト教は戦後、一気にブームとなります。
教会にはあえて来てくださいと宣伝をしなくても人々が群がりあふれました。
 憲法も、また今回改正されてしまった教育基本法も、
戦後の日本ではその根本においてクリスチャンが大きな役割を果たしました。
 日本の法制度はある意味でどこのキリスト教国よりもキリスト教的な要素があります。
 このような状況の中でわたしたちの日本基督教団は甘え、傲慢になっていたのではないでしょうか。

 キリスト教会に敵対していた大日本帝国は崩壊し、
どのみちこの国ではキリスト教会の勢力は強くなっていくことはあっても、
弱まることはないと心のどこかで思っていたのではないでしょうか。

 昨日、新聞にわたしたちの教団と関係の深い東京の恵泉女学園が、
今回の教育基本法の改正に抗議声明を出したことが掲載されていました。
またこの教育基本法を作成に責任的役割を果たされた方は、
「これ(戦後の教育基本法)は永遠の真理に基づくものであって、
後のいかなる反動勢力がこの法を犯そうとしても、その企ては必ず潰える」
と、おっしゃったということです。
 新聞ではこの言葉によっていかに今回の改正が間違っているかと言うことを訴えていました。
確かにそうなのでしょうが、しかし、そこには傲慢の根付く余地があります。
 なぜならば、この言い方は、自らを真理とする傲慢があるからです。
 聖書が証しするとおり、人間は永遠の真理によって生きたことなど一度もないのです。
わたしたちは、「永遠の真理に基づく」と安心して、その真理を守り、
真理によって生かされる努力と謙虚さを失ってしまっていたのではないでしょうか。

 法律などが戦後キリスト教的になったことに、わたしたちのキリスト教会は甘えて来たのではないでしょうか。
そして、伝道をしても迫害されない状況の中で、
わたしたちの日本基督教団は伝道を怠って来たのではないでしょうか。

 伝道というのはトラクト配布を一生懸命するとか、
路傍伝道を一生懸命すればよいのだというだけのことではありません。 
それは教会の主イエス・キリストとその愛における一致ということです。

「互いに愛し合いなさい。あなた方が互いに愛し合うことによって、
この世は、あなた方がわたしの弟子であることを知るようになる」
と主は弟子たちに遺言されました。
 しかし明らかに戦後の日本基督教団は今日に至るまで、
このイエス・キリストの遺言をおろそかにしています。
わたしたちはこの主の遺言に立ち返らなければなりません。

13:天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。
 あなたの妻ウリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。
14:その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。
15:彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、
 既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、
16:イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。
17:彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、
 逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」


 1970年の大阪万国博覧会に、キリスト教館を出しませんかという誘いが来るまでに、
日本基督教団はある意味で順風満帆でした。
そしてわたしたちは、この順風満帆という雰囲気の中で油断をしたのです。
 迫害の嵐が止み、順風満帆の中で、わたしたちは内輪もめを始めました。
内部にいるわたしたちにとっては、
キリスト教福音の根幹に関わる重大な真理問題についての争いだったと思っていましたし、
今も思っていますが、ノン・クリスチャンの世間一般の目から見るならば、
単なる内輪もめ以外のなにものでもありません。

 一昨年でしたか、北米宣教会というアメリカ合衆国からの宣教会が、
日本での活動はその役目を終了したとして解散しました。
「日本は経済大国となってもう北米宣教会が援助をするという構図はなくなった。
そして日本に投入されていた力を発展途上国に向ける」
というのが宣教会の判断でした。
 確かにそうだとも言えますが、その陰には
日本基督教団で延々と続く内輪もめにいい加減嫌気がさして、投げ出した、
「もういい加減にしてくれ、自分たちで勝手にやれよ」
という思いもあるのではないかとわたしは想像します。

 主イエス・キリストを見つめて進んでゆくことにわたしたちの人生の意味があります。
決して
「神様、あの兄弟姉妹は一体どこへ行こうとしているのでしょう。」とか、
「あなたは主を見つめて進んでいない」と批判をすることではありません。
 わたしたちが自分の兄弟姉妹を見ることは、
つまりわたしが主イエス・キリストを見ていないということの証明に過ぎないのです。

 わたし自身この言葉通りに、兄弟姉妹を見ることなく、
ひたすら主イエス・キリストを見ているから、このように言っているのではありません。
 そうではなくて、わたし自身も、この過ちを犯し続けているから、
その罪を告白し許していただくためにわたしは語っているのです。

 わたしに主にある兄弟姉妹を愛する力はありません。
その愛は主イエスに願って祈り求めて与えていただかねばなりません。
にも関わらず、わたしは、少しばかりただ自分が出来る範囲内でのよいことをしただけで、
何か自分が大変正しい善い人であるかのように思いこむのです。
まさにわたしもまた本当に罪人です。

 聖書には「あなたがたは教師となるべきではない」という言葉があります。
牧師として教師という立場におかれますと本当にそのように思います。
つまり、自分が出来ないくせに他人を批判するということが日常化してしまう大きな落とし穴があるからです。
 そして人に教えること、あるいは他人を批判することで、自分は正しいと勘違いし、
錯覚してしまうという罠に陥ってしまうからです。

 教会の教師は心のことを取り扱います。ところがその心とは見えないことですから、
自分の心がどのような状態であるかにお構いなく、人の心をあれこれと取りざたしてしまうのです。

19:天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、
 この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。
20:あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。
 時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
 21:民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。
22:ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。
 そこで人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。
 ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。


 わたしは牧師として、このザカリアが神への不信仰のゆえに、
口が利けなくされてしまうことが非常に意味深く思えます。
 わたしの心の中に起こってくる他人への批判について、
口をつぐみなさいと主がおっしゃっているのだとわたしは思います。

 主イエス・キリストをお迎えするアドベントの時を、今わたしたちは迎えています。
次週はいよいよイエス・キリストの誕生をお祝いいたします。
 わたしたち一人一人の心の中にイエス・キリストは来てくださいます。
主イエス・キリストをお迎えするために、わたしたちは自分たち一人一人の心を整えなければなりません。
 それは、「あなたの心は主に向いていませんよ」ということではなくて、
「わたしの心がいかに主に向いていないか」ということを考え、主と人に対して沈黙することです。
ひたすら御言葉に聞き、その御言葉によって自らの心を振り返ることです。
 そして「主よ、どうぞわたしの罪を清めてください。」と祈るところに、癒しと聖めが起こるのです。

 主イエス・キリストの十字架は、わたしたちに罪があることを明らかにするために起こったのです。
罪を告白するところに、わたしたちの救いがあります。
兄弟姉妹を批判するところに、裁きと呪いがあるのです。
 神の与えてくださった大切なわたしたちの人生を裁きと呪いの内においてはなりません。
罪を告白して、恵みと平安の内に生きることが出来るよう神に祈りましょう。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教