
水戸中央教会礼拝説教 2006年12月10日
「旧約における神の言葉」
ルカによる福音書4章14〜21節
14:イエスは、”霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。
その評判が周りの地方一帯に広まった。
15:イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
16:イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、
聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
17:預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、
次のように書いてある個所が目に留まった。
18:「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
19:主の恵みの年を告げるためである。」
20:イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。
会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
いじめによって自殺をする子どもが増えているとこの頃よく聞きます。
また数年前よく言われていた中高年の自殺者も減少しているという話をその後、聞いたことがありません。
「愛がない」とわたしは思います。
「現代は一体どうしてしまったのだろう。社会のどこかがおかしいのではないか。」
と、わたしたちは思ってしまいますが、このような問題はいつの時代も変わりなくあります。
わたしたちの時代もまた他の時代と同じように愛を学ぶ必要性に迫られているのです。
愛とは何であるかをわたしたちは知らないのです。
「神は愛である」と聖書は教えています。
わたしたちが最も大切にすべきは愛であると聖書は言っています。民族の繁栄ではありません。
また自分の一族が末永く続くことでもありません。
人が人を愛すること、このことは人間にとって自明のことであるかのように、
わたしたちは思いこんでいます。
人間が自然に帰ると、自然に人を愛するようになるという単純なものではありません。
愛はわたしたち人間に生まれつき備わったものではありません。
人は愛することを学ばなければならないのです。
愛は学ぶべき価値があるものです。
愛は、わたしたち人間の人生において学ぶべき唯一のものです。
人は生まれながら、人を愛することができません。
ところがわたしたちは、「わたしは人を愛している」と思いこんでいます。
「人間が人間を愛するのは自明のことだ」と思っていますので、
わたしたちは愛を学ぼうとしません。わたしたちは自分自身の偽善性を認めようとしません。
この偽善性に気が付いたとき、自分自身の偽善性を認めたとき、
わたしたちは愛するということがどういうことかを理解しはじめるのです。
愛するとは、どのようなことかを知ったとき、恨みが消え、怨念が消滅してゆきます。
「神は愛である」と聖書は証ししています。
つまり、わたしたち人間は愛ではないのです。
神の愛によって生かされているのが、わたしたち人間なのです。
18:「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
19:主の恵みの年を告げるためである。」
先ほど読まれましたルカによる福音書4章18節からの言葉です。
イエス様の公の活動の始まりをこの箇所は記録しています。
これは旧約聖書のイザヤ書からの言葉です。
わたしたちの信じる神の素晴らしさと同時にわたしたち自身が鋭く問われています。
「主の霊がわたしの上におられる。」
というこの言葉の中の「わたし」はイエス様ご自身であると、わたしたちは知ることができます。
イエス・キリストは貧しい人に福音を知らせるために来たのです。
神道などの宗教の考え方とは全く違っています。稲荷神社とも違います。
何か偉い超自然的な力をもった神にすがって御利益を得よう。
この世的な力を得ようとわたしたちは考えます。
そして、そのような力を与えてくれるものを神として崇めます。それが宗教だと思っています。
しかし、聖書は旧約聖書のイザヤ書もすでに証明しているように、
神は貧しい人に福音を告げ知らせるためにキリストを世に遣わされたのです。
わたしたちに向けられた決定的な問いがここに示されています。
その問いは、「わたしたちは、貧しいでしょうか?」ということです。
そして、ここに日本でキリスト教がなかなか浸透しない原因も明確になっています。
つまり、日本は貧しくないのです。わたしたち日本人は貧しくないので、
神様は福音を告げ知らせる人を遣わされないのです。
わたしたちは豊かな上にさらに豊かになろうとしています。
そのような人々は福音に耳を傾けません。そのような人々に語られる福音はないのです。
「それでは、わたしたち日本人のクリスチャンというのは一体何なのか?」と考えます。
古代にも現代にも王や有名な学者や地位の高い人々、大金持ちのクリスチャンが沢山います。
この意味で、マタイによる福音書の「心の貧しい人々は幸いである」という言葉が理解されます。
またイエスの弟子には取税人マタイもいましたし、取税人ザアカイのことも有名な話です。
ザアカイは大金持ちでありましたが、イエス・キリストによって解放されました。
神の御心と愛は、貧しい人々、捕らわれている人々、目の見えない人々、
圧迫されている人々に向けられているとイザヤ書は宣言しています。
では、わたしたちは神の御心を理解して、
貧しい人々、捕らわれている人々、目の見えない人々、圧迫されている人々に心を向けているでしょうか?
これはわたしたちの信じるイエス・キリストの父なる神の基本姿勢です。
「旧約は怒りの神で新約は愛の神だ」等という俗説が昔からありますけれど、
この貧しい人々、小さくされた人々に神の御心が向いている本質は旧約にも新約にも一貫しています。
立身出世をして功成り、名を上げるという考え方とは聖書は全く違っています。
「捕らわれている人々に解放を告げる」と主イエスは言われます。
わたしたちはどのように捕らわれているかを見いだすことができるならば、わたしたちは幸いな人々です。
物欲や名誉欲や虚栄心など、諸々の欲にわたしたちは捕らわれています。
主はこのようなとらわれの中にあるわたしたちを憐れんでくださいます。
またわたしたちには、わたしたちが捕らえている人々がいないでしょうか。
わたしたちが支配し、抑圧している人々がいないでしょうか。それは家族である場合もあるでしょう。
主は福音によって、わたしたちが支配し、捕らえている人々の存在を明らかにしてくださいます。
「目の見えない人々に視力の回復を告げ」とイザヤ書の言葉は続いています。
肉体的に目の見えない人々をイエス・キリストは実際に癒してくださいました。
そしてまた、おっしゃいました。
「あなた方が見えると言い張るために、見えないのだ」
イエス・キリストの福音は見えない人々のためのものです。
わたしは見えるという人々のものではありません。
福音によってわたしたちはいかに自分が見えていなかったかが明らかとなってゆきます。
先ほど申し上げたように、自分が不当に支配し、
捕らえていた人々の存在が見えるようになってきます。
この世にあってはぼんやりとしか分からないものですが、
ボンヤリであってもそのような行為を自分がしているかも知れないという気づきが起こされます。
これは画期的なことです。
イエス・キリストの福音は、圧迫されている人々を自由にします。
神の御心は圧迫されている人々に向かっています。
日本の江戸時代は素晴らしい時代だ、この時代の善さを見直そうなどと言うことが時々言われます。
しかし、この時代は士農工商という身分差別があり、
この士農工商という四階級に入らない被差別階級を設けた恐ろしい時代でした。
このことに触れることなく江戸時代を古きよき時代とすることはできません。
なぜこのような恐ろしい時代であったのに、江戸時代を簡単に讃美して風流な時代だと言えるかというと、
わたしたちは本来的に圧迫されている人々の存在に気が付かないからです。
それにもかかわらず、わたしたちは自分に正義があるかのような顔を平然として、
神などいるかとうそぶくのです。
現代の日本社会においても、わたしたちの身の回りにも「圧迫されている人々」は沢山います。
たまたま、わたしたちは大洗ベツレヘム教会の方々や在日大韓基督教会の方々を通じて
そのほんのわずかの部分を見聞きしていますが、そうでなければ、気が付きもしないことです。
「主の恵みの年を告げるためである」とイザヤ書の言葉は結ばれています。
今は恵みの時です。
この恵みの時、わたしたちは捕らわれている人々、目の見えない人々、圧迫されている人々、
貧しい人々に心を向け、
そして自らもそのような者であることを、
神の御前に祈りにおいて告白することがゆるされている時なのです。
そして、そのように自分の弱さと愚かさを告白することこそが、
この恵みの時を恵みの時とすることに他なりません。
自分の豊かさを誇り、人々を捕らえ、自らの肉体的強さを誇り、
人々に君臨しようとわたしたちが今もし続けるならば、
わたしたちは神の恵みを台無しにしてしまうのです。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988