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日本基督教団水戸教会 出張説教           2006年11月19日

「救いの約束(モーセ)」

出エジプト記3章1−15節

1:モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、
 あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。
2:そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。
 彼が見ると、見よ、柴は燃えているのに、柴は燃え尽きない。
3:モーセは言った。
 「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
 4:主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になっ
 神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。
 彼が、「はい」と答えると、
5:神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。
 あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」
6:神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。
 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」
 モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。

 7:主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、
 追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。
8:それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、
 この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、
 カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。
9:見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。
 また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。
10:今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。
 わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
 11:モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、
  しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
 12:神は言われた。「わたしが必ずあなたと共にいる。このことこそ、
  わたしがあなたを遣わすしるしである。
  あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたはこの山で神に仕える。」
 13:モーセは神に尋ねた。
 「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。
  彼らに『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、
  彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。
  彼らに何と答えるべきでしょうか。」
 14:神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、
  また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』
15:神は、更に続けてモーセに命じられた。
 「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、
  イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。
  これこそ、とこしえにわたしの名
  これこそ、世々にわたしの呼び名。

 まもなくクリスマスの準備期間であるアドベントを迎えます。
商店街では、もうすでにクリスマスの飾り付けが見られます。
「今年のアドベントは12月3日からなのに。」と思わず心の中に思います。
あまりつべこべ言わないほうがいいのかも知れません。
またわたしたちの伝道の業に対する責任の問題とも言えますから、
批判をするよりは、好意的に理解して、
わたしたち自身がより一層誠実に主イエス・キリストを信じることの方が大切でありましょう。

 本日の聖書箇所は出エジプト記3章1〜15節です。先ほど読んでいただきました。
これはわたしたちの日本基督教団の教会暦、聖書を読むカレンダーによるものです。
クリスマスは言うまでもなく、わたしたちの主イエス・キリストの誕生を記念する日です。
 12月3日の第一アドベントからはイエス・キリストの誕生に直接関係する箇所が
教会の暦では指定されています。
 アドベントの前に当たる今の期間、日本基督教団の教会暦は、
旧約聖書において神が人に直接語りかけられた箇所を挙げています。

 本日の聖書は、ピラミッドなどで有名な古代エジプト王朝が盛んであった頃のお話です。
 紀元前1300−1200年ほど昔の出来事です。
紀元後の2003年を生きるわたしたちにとっては今から3300〜3200年前のことです。
 日本では新石器時代・縄文時代の後期ぐらいのことです。
 「そんな大昔のことが、わたしたちと何の関係があるのか?」
とわたしたちは考えるかも知れません。
 この聖書のエジプトを脱出した大昔の出来事は、
わたしたちにとってどのような意味を持っているのでしょうか。

 日本最古の歴史文書と言われる古事記は、編纂されたのが八世紀初頭です。
そして、歴史的に確定されるような出来事の記述はどんなにさかのぼっても五〇〇年、
三世紀以前のことが書かれているとは思われません。
そしてその古事記の内容について、現代日本人はほとんど知りません。
 そのような状態のわたしたちにさらにそれから二〇〇〇年も前の大昔の、
しかもこの地球の反対側で起こったような出来事が何の意味があるというのでしょうか。
 
 最近は日本の伝統と文化を大切にしようということが声高に言われます。
自分たちの日本人としてのアイデンティティを確固たるものにしようという文脈で
古事記は大切なものではありましょう。
 そのような意味で民族のアイデンティティとしての歴史という意味で、
聖書の出エジプトの物語も重要であると言うことは出来ます。
そして確かにそれは正しいことです。
 クリスチャンもまたイエス・キリストを信じる信仰によって真のイスラエル・神の民とされています。
ですから、このモーセの出来事は神の民であるわたしたちの歴史の一部です。

 しかし本日の聖書の言葉、モーセの召命の記事は
単なる神の民であるわたしたちクリスチャンの歴史という意味で重要なばかりではありません。
そうではなくて、ここには現代のわたしたちにとってもなお、新しく、
わたしたちを常に新しくさせてゆく真実が語られています。
 この真実は三〇〇〇年前の昔も今も、そしてこの世が終わるとしても有効な真実です。
ここには驚くべき今も昔もそして未来においても画期的な真実が語られています。
この画期的な真実を聖書は現代のわたしたちにも伝えているのです。それは次の言葉です。

13:モーセは神に尋ねた。
 「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。
  彼らに『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、
  彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。
  彼らに何と答えるべきでしょうか。」
 14:神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、
  また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』


 神はご自身の名を初めてモーセに告知しています。
「わたしはある。わたしはあるという者だ」
として自分の名を言っています。
しかし、これは名ではありません。固有名詞ではないのです。
 天照大神とか太陽神アポロンとか最高神ゼウスとかブラフマンなどの名前ではありません。
神はご自身を言ってみれば、名前のない神として、ご自身の名を示されました。
 この聖書の記述こそが当時においてもまた現在においてもそして未来においても
画期的な意味を持っている真実です。

 このエジプト脱出の時代よりはるか昔にヤコブという人に神が現れたという記録が創世記にあります。
ヤコブは神に名を尋ねますが、
「なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか」
と、言って名をあかさずにヤコブを祝福して去って行きます。(創世記32章)

 なぜ、神様は名を明かさなかったのでしょうか?
神様は、木枯らし紋次郎のように「あっしには関係ないことです」と言っているのでしょうか。
ウルトラマンのように自分が誰であるかを秘密にしておく必要があったのでしょうか?
あるいは、本当に謙遜な善意の方で、その奥ゆかしさから名前を言わなかったのでしょうか。

 イエス様が教えてくださった通り、
右の手のすることを左の手に知らせないように善を行う手本を
神様ご自身が示してくださったのでしょうか。

 そうではありません。
 わたしたちの信じる神、聖書の証する神は、唯一真の神だからこそ、
その名が明かされないのです。神はわたしたちの知性と感覚をはるかに越えた方です。
そして神はこの世のすべてとわたしたちを創造された方です。
神はそれが真の神であるなら、わたしたち人間が名を呼ぶと言うことが出来ない方なのです。

 わたしは、次のように言う人々によく出会います。自分自身もかつてはそうでした。
「わたしは、神様なんてものは信じません。
この宇宙を越えた永遠な何か偉大なものがあると言うことは思いますが、
それは神とか仏を越えたものです。」

 現代日本人のごく普通の一般的な宗教に対する見解とこれは言って差し支えないでしょう。
ある意味最も知性的な意見であると思われています。
 しかし、聖書がわたしたちに教え伝えている神は、
この宇宙を越えた何か偉大な方そのものなのです。
 わたしたちが名前を付けることなど出来ないと
わたしたち自身分かっている永遠なる方なので、
神は「わたしはあるというものだ」という実に的確な真実をもって語ったのです。

 みなさんの名前を付けたのは誰でしょうか?通常は親が子供の名を付けます。
もちろん親戚や知人の方が名を考えて付けたという場合もそれはとどのつまり同じです。
子供が親の名を付けることは出来ません。人間の親は自分の名を子供伝えることは出来ます。
 しかし、親の名前はその親自身が自分で付けた訳ではありません。
親が子に自分の名を教えるということは、自分には親があり、
自分が子供として生まれたことの証明です。
ですから最初の人には名がないはずです。

 この原則を聖書は正確に守っています。最初の人には名前がありません。
 わたしたちは「最初の人はアダムではないか」と思いますが、
これはヘブライ語で「人」という意味です。

 「唯一真の神には名前がない」
これはインドでゼロという数字が発見されたのと同様のあるいはそれ以上の宗教的大発見です。
人間はこの考えに自ら至ることが出来ませんでした。
 その証明の一つは古事記です。日本の最高神は天照大神で、ちゃんと名前があります。
それは、つまり、天照大神が、唯一真の神ではないことの証明であり、
わたしたち日本人は今日に至るまで、唯一真の神でないものを神として平然としています。

 聖書はさらに驚くべきことを語っています。
それは、この唯一真の神が奴隷の民であるイスラエルの叫びを聞き、
これを救い出そうとされることです。
 これは驚くべきことなのですが、
わたしたちはこの驚くべきことを驚きとして理解しているでしょうか?
 なぜならば唯一真の力ある神ならば、
なぜこの神は支配者であるエジプトの王ファラオの神ではないのでしょうか。
唯一力のある本当の神は、この当時の世界の超大国エジプトの神ではないと宣言されているのです。
これは驚くべきことです。
 最も力ある神ならば、その神は最も力ある大きな国の神のはずだとわたしたちは考えないでしょうか。

 ここにわたしたち人間の虚偽が明らかになります。
 どこかの日本の最高権威とも言うべき大学の先生が
多神教の方が一神教より多様な考え方を認めており優れているとおっしゃったそうですが、
あまり聖書をご存じなくて、おっしゃっているのではないかとわたしは思います。
 多神教の日本の神道は、支配者の論理に過ぎません。
日本の天皇の支配を正当化するのが古事記であり、その背景にある日本の多神教なのです。

 これはエジプトでも同様でありました。
日本の精神文化は3000年前のエジプトとそう変わりはないのです。
ひょっとするとそれ以下かも知れません。
 当時のエジプトはまわりの国々と比べて今の日本とは比較にならない超大国です。
エジプトの最高神が世界の最高神であると当時の人々は信じて疑わなかったでしょう。
イスラエルの人々は、エジプト国内に住んでおり、その社会に支配されていました。
神がイスラエルの民を解放すると、モーセに伝えましたが、
どの神がそれを行うかということが問題となったのです。

 エジプトも多神教で日本の神道と基本的には同じです。
日本の神道でたとえて言うならば、イスラエルを救おうとする神が、
八幡様や天神様では、日本で一番偉い神である天照大神に敵いません。
そして最高神である天照大神は天皇の神ですから、
イスラエルの解放をイスラエルに告げる以前に、天皇にその命令が下るはずです。
それは、しかし、あり得ません。

 この「神の名はなにか」という問いは、明治維新の状況と似ています。
江戸時代、徳川幕府が日本を支配していました。
この幕府を無くして新しい日本の国を作るためには、幕府の正当性を超える正当性が必要でした。
そこで天皇が担ぎ出されました。
 実質的な武力は天皇はなにももっていませんが、
この国の真の支配者は天皇であるとする国学の研究成果によって理論が形成されていたからです。
 論理的な正当性が人間の行動を決定します。

 共産主義国家もまず、マルクスの理論があって後に誕生しました。その逆ではありません。
古代国家においては、宗教が国家の成立に決定的役割を果たしています。それは現代も同様です。

 「わたしはある」という名の神の名がモーセに伝えられたとき、
モーセ自身、エジプト脱出という人類史上空前絶後の計画が成就したことを悟ったのです。
その神の名は、エジプトの最高神である太陽の神を超えるものだったからです。
 つまり、何が重要かと言いますと、
この全エジプトを支配していたファラオの神である太陽の神が
まやかしであることをこの時モーセは確信したからです。

 「太陽こそがこの世界の自然を支配し、すべての生き物を養っている神だ」
という考えの中にモーセもイスラエルの民も生きていました。
そして、その教えは正しく思えたのです。
 日本人は今でもそう信じているくらいですから、
3000年前の人々がそれを正しいことと信じて疑わなかったとしても当然です。

 イスラエルの奴隷としての仕事も、
おそらくこの太陽神のための労働だというような理由がつけられていたでしょう。
 この一見正当なエジプトの嘘を「わたしはある」という神の名は引っぱがしたのです。

 この「わたしはある」という名の神こそが、
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」、であるわたしたちの先祖の神であり、
今、不当な苦しみの中にある奴隷の民を救い出そうとされています。
 唯一真の神は、人々を支配し、虐げる者の神ではなく、虐げられた者を解放し生かす神です。

 イエス・キリストもまた、この世で立派な王子として宮殿に生まれたのではなく、
宿屋には場所がなくて家畜小屋に生まれました。
 そして神に見放された者として十字架で死にました。
 わたしたちが神に見放されたと思うような不幸に遭遇するとき、
神はわたしたちを決して見放しているのではありません。
 人々から見放されているでしょうが、
神は、そのときわたしたちを通して御業を行おうとしているのです。
神はわたしたちと常に共にいてくださいます。

 ただわたしたちが高慢になり、人々を虐げ、支配してふんぞり返るとき、
人々が「あなたこそ素晴らしい神のような人です」と、賛美するとき、
神はわたしたちと共にいらっしゃらず、わたしたちは試みの中にあるのです。
 

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教