
水戸中央教会 説教 2006年10月29日
「神の創造の業」
ルカによる福音書12章13〜31節
13:群衆の一人が言った。
「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
14:イエスはその人に言われた。
「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
15:そして、一同に言われた。
「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。
有り余るほど物を持っていても、
人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
16:それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
17:金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
18:やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、
そこに穀物や財産をみなしまい、
19:こう自分に言ってやるのだ。
「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。
ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
20:しかし神は、
『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。
お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
21:自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
22:それから、イエスは弟子たちに言われた。
「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、
体のことで何を着ようかと思い悩むな。
23:命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。
24:烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。
だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。
25:あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、
寿命をわずかでも延ばすことができようか。
26:こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。
27:野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
28:今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。
まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。
29:あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。
30:それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存知である。
31:ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
先週の水曜日、「筑波かすみ」という日本人形の里帰りの歓迎会が開かれました。
日本基督教団茨城地区もこの支援をしていますので、わたしも参加させていただきました。
新聞などでも取り上げられていますが、
「筑波かすみ」という人形は今から79年前、第二次世界大戦が始まる前、
日本とアメリカ合衆国の友好を深めるために日本から合衆国に贈呈された人形です。
まず、合衆国から一万三千体ほどの青い目の人形が日本に寄贈され、
日本の学校や幼稚園に配布されました。
そのお礼として日本から58体の市松人形が合衆国に寄贈されました。
この58体の一つが「ミス茨城」として茨城を代表して贈られた
「筑波かすみ」と名付けられた人形です。
この人形を通じて行われた日米の民間主導の親善交流を行ったのは、
アメリカからの宣教師シドニー・ギューリック先生と日本実業界の大立者、
渋沢栄一だったと言うことです。
アメリカから贈られた一万三千体の「青い目の人形」はその後に勃発した太平洋戦争中に、
「鬼畜米英」の象徴としてほとんどが破壊され処分されてしまいました。
茨城県には243体が寄贈されたそうですが、現存しているのは9体とのことです。
「筑波かすみ」里帰り歓迎会の会場には、
日本での修繕のために帰国した日本人形「筑波かすみ」の後ろに、
アメリカから贈られて茨城県に現存している「青い目の人形」が何体か陳列されていました。
また歓迎会の中で、戦争当時、誰にも知られないようにこっそりとアメリカからの人形を隠し、
そして戦争が終わって、時期を見計らって誰にも知られないように、
こっそりともとに戻したご婦人の体験談を聞く機会がありました。
そして「筑波かすみ」が今回79年ぶりに日本に戻ってきてお色直しをすると言うことで、
その方も自分が守った人形にご自分で新しい服や帽子を作って着せて来ましたということでした。
この「筑波かすみ」の里帰り実行委員会は地方の政財界の方々が名を連ねていますが、
本当に尊ぶべきであり、
中心の方は、あの戦争中に「アメリカからの青い目に人形」を守ろうとした
この年輩のご婦人なのだと強く思わされました。
この「筑波かすみ」のことで、少し渋沢栄一のことを知りました。
この方は近代日本に資本主義を確立された方で、単に金儲けに長けていた商人ではなく、
しっかりとした見識を持ち、世界的な視点から日本の実業界をリードされました。
リードされたというよりは日本の実業界を作りあげたという方が正確かもしれません。
公共の福祉や国際交流にも力を注がれ、関東大震災の義捐金集めに奔走したり、
救世軍の働きを支援されたり、
今回の「筑波かすみ」のような世界平和を願う活動にも大変に尽力されました。
民間人として初めて明治44年勲一等瑞宝章を授けられています。
「現在、埼玉県では、多くの企業の設立や育成に携わる一方で、
福祉や教育などの社会事業にも尽力した渋沢栄一の生き方と功績を顕彰するため、
渋沢栄一の精神を今に受け継ぐような、
健全な企業活動と社会貢献を行っている全国の企業経営者に「渋沢栄一賞」を贈呈している。」
(Wikipedia)ということです。
16:それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
17:金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
18:やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、
そこに穀物や財産をみなしまい、
19:こう自分に言ってやるのだ。
「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。
ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
20:しかし神は、
『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。
お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
21:自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
本日、わたしたちに与えられた聖書の御言葉によるならば、単に自分のために富を蓄えるのではなく、
神様の前に豊かになりなさいということが言われています。
欧米のお金持ちが社会事業や福祉などにその財産を寄付したりするの、
この御言葉の影響によるところが大きいと言えます。
カネギー等は日本でも有名ですし、
最近もビル・ゲイツが多大な財産を社会貢献のために捧げたことが新聞などで伝えられました。
先ほど触れました渋沢栄一もまたクリスチャンではありませんでしたが、
このイエス様の言葉に影響された人の一人と言うことが出来るでしょう。
では、この御言葉は、わたしたちに渋沢栄一のようになりなさいということを言いたいのかというと、
そうではありません。
経済的に豊かになって、社会や教会のために沢山献金をしましょうということではないのです。
あるいは自分のために富を用いるのではなくて、
他の人々や社会全体のために用いなさいというだけのことでもありません。
もっともっと根本的なことがここでは語られているのです。
この根本的なこととは、わたしたちの平安はどこにあるのか。
わたしの安心するところはどこなのかということです。
わたしの命の安んずるところはどこなのかということが問題となっているのです。
わたしたちの平安は、富によって保証されるのではありません。
わたしたちの安心は食べ物が十分にあるというところにあるのではありません。
わたしの命は着るものによって守られる訳ではないのです。
そうではなくて、わたしの平安、わたしの安心、わたしの命は神によって与えられ、
神によって守られるのです。そして神の中にこそ、わたしたちの平安があるのです。
29:あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。
30:それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存知である。
31:ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
「ただ、神の国を求めなさい」
とある通り、わたしたちの平安と安心、わたしたちの命は神の中にのみあるのです。
しかし、わたしたちはいつも大きな誤解をしています。
この最初のボタンの掛け違いはわたしたちの信仰を台無しにしてしまい、無力化してしまいます。
本日の御言葉は次のように始まっていました。
13:群衆の一人が言った。
「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
14:イエスはその人に言われた。
「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
15:そして、一同に言われた。
「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。
有り余るほど物を持っていても、
人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
ここでわたしたちは、イエスは何か不親切な人のように思ってしまわないでしょうか。
一人の人が、遺産相続のことで兄弟と争っており、
この調停をして欲しいと頼むのに、イエスは、これに対して、
「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
と、にべもありません。
しかし、この人は、わたしたちが常に犯している誤りを見事に犯しているのです。
神はわたしたちの生活の仲裁者ではないということです。
わたしたちの生活をより良くしたり、わたしの望みに応じて願いを叶えてくれる召使いではないのです。
そうではなくて、わたしたちの安心の居場所であり、平安の基であり、基礎なのです。
「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」
と、イエス様は教えてくださっています。
貪欲とは、単に何かを必要以上に求めることを意味するのではなくて、
自分の願いを実現する者として神を信じることもその一つであり、それこそが最も究極的な貪欲です。
全能者である神によって自分の全ての願いを叶えようとすることは、
もはや神を信じているのではなくて、悪魔を信じているのです。
神がわたしに答えてくださらないとか、
神がわたしの望みに答えてくださるか否かが究極的な問題ではありません。
そうではなくて、わたしが神の願いと望みに答えているかが究極的な問題なのです。
24:烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。
だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。
25:あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、
寿命をわずかでも延ばすことができようか。
26:こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。
27:野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
28:今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。
まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。
29:あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。
何度も何度もイエス様はわたしたちに「思い悩むな」と、教えてくださっています。
わたしたちが思い悩むのは、わたしたちが神の御心を求めず、
自分の欲望と願いの達成に人生の目的を据えている証拠です。
自分の願いに囚われているから、わたしたちは思い悩むのです。
神の御心を求めるとき、わたしたちは思い悩むのではなく、
わたしたちは自らの罪を告白し、悔い改めの涙を流すのです。
神の御心に思いが至るとき、鳥のように空を飛び回る自由を与えられ、
野の花のように美しい生涯を送ることができるのです。
わたしたちは人に知られるために生きているのではありません。
神に知られているから生きているのです。
人の間で有名になると、
わたしたちは自分の人生の価値が増し加えられるという思いこみと幻想に支配されています。
人の間で有名になることと神の前に豊かになることとは違うのです。
イエス・キリストを信じる信仰によって、
わたしたちは何も持たなくても神の前に豊かな者とされるのです。
わたしたちの主イエス・キリストに感謝を捧げましょう。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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, Tokyo 1987,1988