水戸中央教会 説教       2006年10月15日

「執り成し」

マルコによる福音書14章43〜52節

 
43:さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。
  祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
44:イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。
 捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。
45:ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
46:人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
47:居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、
 片方の耳を切り落とした。
48:そこで、イエスは彼らに言われた。
 「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。
49:わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、
 あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」
50:弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

 51:一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、
52:亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。

 イエス様がついに捕らえられた時の様子を本日のマルコ福音書は伝えています。
弟子たちは蜘蛛の子を散らすように、
イエス様がついに捕らえられた瞬間に逃げ去ってしまいました。
 亜麻布を身にまとっていた若者は、
おそらくサリーか何かのように身に布を巻き付けていたのでしょう。
彼を捕らえようとした人々がその布をつかんだと考えられます。
するとその布を脱ぎ捨てて、裸で一目散に逃げたということです。
恥も外聞もなく逃げたわけです。
 居合わせた人々の中で、一人の人は剣を抜いて斬りかかり、
大祭司の僕の耳を切り落としますが、イエスはあっさり捕まってしまいます。
この瞬間、弟子たちは皆、一目散に逃げました。

 さまざまなピンチを弟子たちはイエス様と共にしてきました。
そして、その度にイエス様は奇跡やその他のさまざまな方法でそのピンチを乗り越えてきました。
ですから、弟子たちは、「たとえ死んでも従う」とは、言っていましたが、
あっさり捕まってしまうとは想像していなかったのでしょう。

 何かの奇跡を起こされて、
祭司長や律法学者たちなどイエスを捕らえようとする人々を、
うち倒してしまうと思っていたのではないでしょうか。

 旧約聖書にはアブラハムの甥のロトがソドムの町から助け出されるとき、
神の使いはロトを襲おうとする群衆の目を見えなくしています。
ところがイエス様はおっしゃいます。
「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」
この言葉の直後に、弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げています。

「聖書の言葉が実現するため?それは違うぞ、
イエス様が本当に神の子ならば、こんな群衆などに捕まる訳がない。」
と、弟子たちは考えていたのではないでしょうか。
 あるいはまた、イエス様が弟子たちに
「神の子を捕らえようとするこの愚かな群衆をうち倒せ!」
と、命じていたらおそらく命をかけて弟子たちは戦ったでありましょう。
 そのように言うと皆さんは「果たしてそうだろうか」と疑問に思われると思いますが、
人間の心にはそのようなおかしな傾向があります。
 たとえばあのオウム真理教の事件がそうです。
教祖の「殺せ!」という命令に教祖を信じた人々は従いました。
そして地下鉄でサリンガスを撒いたのです。
 このような時、
「教祖が『殺せ!』と言ったから、どうもこの教祖はおかしいぞ?」
とは考えないのです。

「宗教が一番大切にするのは、人の命なのだから、この『殺せ』と命じるような宗教はおかしい」
と、考えません。
 ところが、イエス・キリストが
「聖書の言葉が実現するためだ」
と言って相手と戦わずに捕まってしまおうとすると、
「この人こそ真の神の人だ。真理を語り、真理に生きる人だ」
と考えて、「わたしも捕まります」とは言わないのです。

 わたしたちの心の中には、
「殺せ!」「やっつけてしまえ!」という思いが心の奥底にあるのです。
 戦争で勝利を収める将軍や武将は歴史的にも最も尊敬されます。
しかし、愛と平和を語ったからということで、尊敬を集めることはあまりありません。
 言葉を換えるならば、わたしたちの中には
「殺すな!」「人を愛せよ!」
という思いはないということです。

 ひところ、
「なぜ人を殺してはいけないのか?」
という問いが世間で話題となりました。
そして、この問いに対して、
明確な答をすることは非常に難しいということをわたしたちは知りました。

 「人を殺してはいけない」ということは最も基本的なことのようでありますが、
実は完成した人格が悟ることを許された人生のゴールにある言葉だからです。

 イエス・キリストが捕らえられようとしたとき、弟子たちは皆、逃げてしまいました。
着物を捕まれて、捕まりそうになった者は、その着物を脱ぎ捨てて、
一目散に恥も外聞もなく逃げ去りました。

 教会にはたまにですけれど、
ホームレスの方がお金を下さいとか食べ物を下さいと言ってやって来ます。
 お金を渡すことは、ふつうしませんが、食べ物を分けてあげることはしています。
 先週も一人の中年男性が来ました。
その方は、一か月ほど前に来たことのある方で、
その時、丁度、作ったカレーを少し分けました。とっても喜んで下さいました。

 ところが、今回は朝で、しかも自分は丁度、
外国人の方が病院に行きたいというので通訳のお手伝いに出かけようと急いでいる時でした。
我が家では丁度、朝食が終わったところで、何もすぐに食べられそうな物がありませんでした。
それで会員の方が献品してくださったカップラーメンを渡そうとすると、
「お湯がないと、それは食べられませんから、何か他の物を下さい。」
と、言います。
 今、お湯を沸かすという時間的な余裕は自分にはなくて、
カップラーメンを手渡して、
「お湯は警察ででももらってください」
と、わたしは逃げました。
 病院へゆくために、車で外へ出ますと、さっきのホームレスの人がとぼとぼと、
わたしが渡した紙袋をもって歩いていました。
 追い抜かしながら、「湯ぐらい沸かしてあげればよかったな」と、後悔しました。
そしてまた、「仕方がなかったんだ」と、言い訳をしている自分を見いだしました。

 説教の準備で、丁度、本日のマルコ福音書の箇所を読んでいましたので、
この弟子たちが蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった思いと、
自分が、今、このホームレスの人から逃げてしまった思いとがよく重なりました。

 イエス・キリストが捕まられようとする時、弟子たちは皆、逃げてしまいました。
そして、この逃げてしまったという経験をイエス・キリストの弟子の全てがしています。
これが教会の基礎となっています。逃げてしまうことがいいということではもちろんありません。
「逃げればいいのだ」と開き直ることではありません。
 わたしは、最後の最後までイエス・キリストに忠実に従い続けたと、
わたし自身を誇ることが問題なのです。
 神の前に、
「わたしはイエス様に生涯従い続けて参りました」
と、何者かであるかのように誇ることが問題なのです。そして、これこそが偽善なのです。

 わたしたちが神に忠実であると言っても、それはわたしたちの出来る範囲でしかありません。
自分では気が付きませんが、神に従っていないことは数限りなくあります。

 イエス様が再びこの世にいらっしゃって、お目にかかるとき、
わたしたちが確認することは、いかにわたしたちが信仰を取り違え、
思い違いをしてきたかということであり、その過ちに愕然とするでしょう。
 ただ、イエス様がわたしたちを選んでくださって、
イエス様を信じたという事実だけによってわたしたちは救いの恵みのうちに入れられるのです。

 わたしの忠誠、わたしの忠実さ、わたしのなした善いこと、
これらは全て、わたしという非常に脆弱なものの上にあります。
 ちょっと都合が悪くなると、逃げてしまうようなわたしのころころと変わる感情によって、
わたしのなす善い業は左右されます。
 たまたま善いことをすることが出来る状況にあったに過ぎないのに、
あたかもわたしたちはそれが自分のせいで出来たのだと思いこんでいます。
そのメッキはすぐに剥がれていまいます。

 わたしたちはまったく新しく造り変えられる必要があります。
わたしというこの脆弱な基礎の上に自分の人生を築くのではなく、
わたしの存在の基礎を、わたしの上に置くのではなく、
イエス・キリストという岩の上に、
わたしたちはわたしたちの存在の基礎をしっかりと据えなければなりません。

 
マタイによる福音書7章24節〜27節
7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
7:27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

 わたしたちの感情や思いから善をなしたり、あるいはなさなかったりするのではなく、
イエス・キリストの言葉に聞いて、それを行うことによって、
わたしたちは岩の上にわたしたちの人生を築くのです。

 弟子たちはイエス・キリストが捕まえられた時、皆、逃げてしまいました。
これは弟子たちにとって恥じ以外の何ものでもありません。
それは恥ずかしいことです。
 このことを弟子たちはあえて語り伝えました。
弟子たちの愚かさをわたしたちは笑うことは出来ません。
 イエスの弟子たちは、この後、イエス・キリストの復活に出会い、
聖霊に満たされて、まったく新しい人間に造りかえられたから、
このような自らの恥を語ることができるようになったのです。
 弟子たちはむしろ感謝と喜びをもって、この自らの過ちと恥を語っているのです。

 何かそれなりの地位やふつうに生きていられる環境にある人々ならば、
自分の昔の過ちや恥ずかしいことについて語られること
それなりの地位やふつうに生きていられる環境を破壊することになります。

「あの人は、いっぱしの人格者のような顔をしているけれど、昔はこんなことがあった」
というおしゃべりはその人の地位やふつうの生活に傷を付けることができます。
権威を失墜させることですから、わたしたちはそのようなことに触れられたくありません。

 弟子たちがイエスを見捨てたと言うことは、
弟子たちにとって、そのような触れられたくないことに他なりません。
 しかし、それが語られていることに、イエス・キリストの弟子の本質があります。
それは、イエス・キリストの復活の光が、弟子たちの人格を根本的に変えてしまった、
画期的な決定的な出来事だったことの証明です。
つまり、自分の正しさ、自分自身を頼りとして、善い人になってゆくことではなく、
イエス・キリストの素晴らしい御業を褒め讃え、
イエス・キリストを頼りとして生きてゆくことです。

 わたしたちは自分を善い人に見せようとして一生懸命です。
 盗人にも三分の理といいますが、犯罪者も自分を正しい人であると言います。
自分が悪くなったのは、環境が悪かった、周りが悪かったと言います。
つまりわたしたちと同じように自分の善さを主張しているのです。

 イエス・キリストを信じるということは、
自分の正しさ素晴らしさではなくて、
イエス・キリストご自身の素晴らしさと神ご自身の素晴らしさを讃美し、伝えることです。
それはわたしたちがわたしたち自身の罪を過ちと愚かさを言うことによってなされるのです。

 イエスを捕まえようとして剣や棒をもって、
祭司長や律法学者、長老たちの遣わした群衆がやって来ました。
 わたしたちのふだんの姿は、むしろこのイエスを捕まえようとしている群衆ではないでしょうか。
自分の権威やプライドが傷つけられると、わたしたちは神であろうが容赦はしないのです。

イエス・キリストはおっしゃいました。
「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」
わたしの思いではなく、神の御心が実現するところにわたしたちの救いがあります。
人生において最も確実な真理の一つは、
人生はわたしの思い通りにはならないということです。
そして、だから人生は素晴らしいのです。
 なぜならば、わたしの思い通りにならない人生は、
わたしが神の御手のうちにあることの証明に他ならないからです。
それは神があなたを見捨てていらっしゃらないことの徴です。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教