
水戸中央教会 説教 2006年10月8日
「苦難の共同体」
マルコによる福音書14章26〜42節
26:一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
27:イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまづく。
『わたしは羊飼いを打つ。
すると、羊は散ってしまう』
と書いてあるからだ。
28:しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
29:するとペトロが、「たとえ、みんながつまづいても、
わたしはつまづきません」と言った。
30:イエスは言われた。「はっきり言っておくが、
あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、
三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
31:ペトロは力を込めて言い張った。
「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、
あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」
皆の者も同じように言った。
32:一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、
「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
33:そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
34:彼らに言われた。「私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
35:少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、
この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
36:こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。
この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、
御心に適うことが行なわれますように。」
37:それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。
「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
38:誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
39:更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
40:再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
41:イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。
もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
42:立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
最後の晩餐を終えて、イエスとその弟子たちは
エルサレムの市街地の東側の丘陵地帯オリーブ山へ向かいました。
ゲツセマネの園は、この丘陵地帯の麓にあったと考えられますが、
今日では、正確な位置は分かりません。
つまり、「ここが正確なゲツセマネの園だ」という場所が複数あるからです。
ゲツセマネの意味は「油絞り場」です。
落ち着いて祈るために、エルサレムの市街地の外の丘へいらした訳です。
このことはイエス様の特徴と言えるかもしれません。
「偽善者のように通りの辻に立って祈ってはならない」というイエス様は教えられました。
夜、誰もいない市街地の外で祈ることは、
誰もがすることではなかったのではないでしょうか。
そしてまた、このゲツセマネの園で祈るということは、
イエス様が習慣のようにいつも行っていたことであろうと推測されます。
ですから、ユダは、このゲツセマネの園に祭司長や律法学者、
そして長老たちの遣わした群衆たちを、
イエスを捕らえさせるためにここに呼び寄せることができたのです。
エルサレムの市内でイエスを捕らえようとするならば、
イエスを支持している人々との衝突が起こる可能性があります。
イエスを秘密裏に捕らえるために、最も打ってつけの時と場所が、
このイエスの夜の祈りの時間であったのです。
イエス・キリストの復活日は春分の日に一番近い満月の日に近い日曜日です。
イエス様が捕らえられた夜、ゲツセマネの夜は満月に近い夜でした。
月明かりの中でイエス様は弟子たちに語られたのです。
ゲツセマネの園の出来事は、人間の心の闇を象徴するような出来事ですが、
決して新月の闇夜であった訳ではありません。
月明かりの中で、弟子たちはイエス様の語る姿や表情をしっかりと記憶に
留めることができたでしょう。
日本語では、
「あなたがたは皆わたしにつまずく。」
とイエス様の言葉が伝えられていますが、闇夜でつまずいた訳ではないのです。
14:27 イエスは弟子たちに言われた。
「あなたがたは皆わたしにつまずく。
『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。
14:28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
14:30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、
三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
14:31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、
あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
先日、勝田教会で茨城地区女性部の修養会が開かれ、鈴木伶子先生が講師としてお話下さいました。
鈴木先生は日本キリスト教協議会NCCの議長やYWCAの会長などを歴任された方です。
役職からちょっと恐い感じの方かなと思っていたのですが、とても朗らかな楽しいお話でした。
その中で、エルサレムを訪問されたときの羊の群についてお話してくださいました。
羊の群というのは、羊飼いがきちんと群を導かないと、
本当にバラバラになってしまう様子を見て実感されたということでした。
羊は犬と並んで、古くから人間と共生をしている動物です。
その長い共生の中で群としての統制力を自身では失ってしまったのかもしれません。
羊飼いを失った羊は、散ってしまいます。
それと同じように、イエスという指導者を失った、イエスの弟子たちは、団結を失い、
ちりぢりバラバラになってしまうとイエス様はおっしゃいました。
弟子たちはイエスの言葉の意味を大変に良く理解しています。
ペテロは、
「たとえ皆がイエス様を捨てて逃げ去っても、わたしは決してあなたを見捨てません」
と、言っています。しかし、主イエスは、ペテロの裏切りを予言します。
この予言にはイエスの大きな愛があります。
たとえ裏切ったとしても、そのことをイエス様は責めるのではないのです。
この裏切り者をも含めて、主はわたしたちを受け入れ、
導いてくださっていることがここに明らかにされています。
そしてイエスの弟子たちの誰もが裏切ったと聖書に伝えられていることがむしろ重要です。
この時、イエスを裏切らなかった者たちは後に使徒として教会の指導者として任命されませんでした。
単に事実がそうであったと言うだけではなく、
わたしたちもまた主イエスを裏切ることがあると言えることがむしろ大切なことです。
「いやわたしは、イエスに忠実に生涯を歩み抜いた」
と誇ることができるならば、その人はむしろ大変な罠の中に落ち込んでいるのです。
なぜならば、その人は、主イエスを誇るのではなく、自分の忠誠と真実を誇ろうとしているからです。
教会というところは、誰もが平和に仲良くしているところかと外側からは思われますし、
自分たちもそういうところだと、そうでなければならないと思っていますが、
波風が立ち、嵐が吹き荒れる時も度々あります。
そんな時、波風と嵐に立ち向かい、
これを静めようとする人々と波風を避けようとする人々の二通りがあります。
そして、主の恵みによってこの波風が静められ、教会に平和が戻ってきますと、
波風に立ち向かっていた人々が、
波風を避けていた人々に対して支配的な態度になるということが起こります。
イエスの弟子たちはすべてが裏切ったのですから、
このようなイエスに最後まで忠誠を尽くしたグループが
途中で逃げてしまった人々を支配するというような構図は初代教会にはなかったのです。
そして、それが本来の健全な教会のあり方なのです。
すべての人々が主イエス・キリストの前に
「自分はあなたを裏切りました」と、言えることが、わたしたちの信仰の基礎です。
古代の教会において実際にこのような問題は起こっています。
ローマ時代、まだキリスト教がローマ帝国から迫害されていた時代、
同じように信仰を守り続けて、迫害に耐え続けた人々がいました。
そして、キリスト教がローマ帝国の宗教として公認されるようになったとき、
迫害に耐えられずに信仰から離れた人々が教会に戻ってきますと、
これを受け入れない人々が現れました。
教会会議は、この戻ってきた人を受け入れない人々の方が間違っているという判断を下しました。
そしてそれは正しいのです。
パウロの言葉には、
「わたしは生涯をイエスに従って歩み抜いた」
というような意味の言葉がありますが、
彼の場合、過去にクリスチャンを迫害する者であったという大前提があります。
自分が偉いのではなく、主の恵みに感謝をパウロはしているのです。
14:32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、
「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
14:33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
14:34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
14:35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、
この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。
この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
14:37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。
「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
14:38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
14:39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
14:40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
14:41 イエスは三度目に戻って来て言われた。
「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。
人の子は罪人たちの手に引き渡される。
14:42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
弟子たちはイエスに何度も「眠らずに一緒に祈るように」と命じられますが、眠り込んでしまいます。
これは単に弟子たちのだらしなさが言われているとはわたしには思えません。
そうではなくて、イエス様が負われた重荷をわたしたちは担うことなどとうていできない
ということが言われているのだとわたしは思います。
「わたしならば、決して眠ることなく、イエス様と共に祈り、イエス様を励ますことができたのに」
と思うことは思い上がりもはなはだしいとわたしは考えます。
何度、「眠るな」とイエス様に注意されても眠ってしまったということを弟子たちは学んだのです。
「心は燃えても、肉体は弱い。」という言葉の真実をイエス様は教えてくださったのです。
神により頼んで生きることの大切さが言われているのです。
自分の力に頼り、自分の力を誇るのではありません。
神様がわたしたちを愛し、祈ってくださっていることをわたしたちは感謝するのです。
信仰とは、主がすべてをなして下さったことをわたしたちは喜ぶことにあります。
にもかかわらず、わたしたちは自分が為したことを誇り、
自分の誇りを探し求めているのではないでしょうか。
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, Tokyo 1987,1988