
水戸中央教会 説教 2006年10月1日
「キリストに贖われた共同体」
マルコによる福音書14章10〜25節
10:十二人の一人イスカリオテのユダは、
イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。
11:彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。
そこでユダは、どうすれば折りよくイエスを引き渡せるかとねらっていた。
12:徐酵祭の第一日、すなわち過越の子羊を屠る日、弟子たちがイエスに、
「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
13:そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。
「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14:その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。
『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
15:すると、席が整って用意できた二階の広間を見せてくれるから、
そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
16:弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、
過越の食事を準備した。
17:夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
18:一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。
「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、
わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
19:弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
20:イエスは言われた。
「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
21:人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。
だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
22:一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、
それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
23:また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
24:そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
25:はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、
ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
昨夜、この説教の準備をしながら、眠りましたら夢を見ました。
夢の話などしますと、どこかのおかしな宗教のようですが、
「なるほどなぁ」と思いましたので、触れさせていただきます。
奈良県の山の中を同僚を乗せて車で走っていました。
どこかの教会を訪問するつもりなのですが、道が小さな村で行き止まりになっており、
道を間違えて戻ってくる途中のことです。
学校帰りの子どもたちの集団とすれ違い、
その後、道の脇にあった小さな学校に立ち寄りました。
校舎に入ってゆくと、丁度、掃除が終わったところで、
不思議なことに、今日の学校での一日が終わったことを
一人の女の子がリーダーとなってお祈りをしているところでした。
すると、先生が現れて、
「あなたは牧師なのだから祈ってください」
ということになり、わたしも祈りました。
「ここにはクリスチャンの生徒が沢山いるのですか?」
と、聞くと、
「東京から越して来た人々が多く、カトリックなんですが」
ということでした。
学校は障害を持ったお子さんもずいぶんいるようでした。
先生が
「わたしたちの学校には10人のイエス様がいます。紹介しましょう。」
と言って子どもたちを紹介しようとしました。
その子どもたちは、ただ自分で自分をイエス様だと思っているだけのことでした。
そして、
「自分こそが本当のイエス・キリストだ」
と言って争っているのです。ここで目が覚めました。
わたしたちクリスチャンの姿がそこにあるようにわたしは思いました。
わたしたちはイエス・キリストを信じて、救われた者です。
決してイエス・キリストではありません。
しかし、人々の間で、貧しい人や弱い立場にある人々を助けたりする行いや
活動の中で自分が人を救う立場、正義の味方となっていくとき、
そこに大きな誘惑があります。
「わたしこそ本当のクリスチャン」
という自負のようなものが心の中に芽を出し、根を張って、
イエス・キリストの救いを覆い隠してしまうことがあるのではないでしょうか。
救う人、人助けをする人がクリスチャンではありません。
わたしたちはまず、イエス・キリストによって救われた人、助け出された人々です。
その救われたことへの喜びと感謝によって、他者へ救いと援助の手を差し伸べるのですが、
非常に多くの場合、わたし自身も含めて、
この救われたことへの喜びと感謝をわたしたちは知らないのです。
そしてどうなるかというと、この救われたことの喜びと感謝を知らないのですが、
人を助け、救います。すると助けられた人、救われた人は、わたしに感謝をします。
この感謝がわたしに喜びをもたらし、この喜びを求めて、
わたしたちはますます立派なクリスチャンとして
人々から感謝をされるために人助けに精を出します。
このようになってしまっているとき、
わたしたちの心はもはやイエス・キリストを必要としません。
わたしの生きる喜びは、困っている人々を助けたこと、
そして自分が助けた人から来る感謝にあります。
もはやイエス・キリストがわたしの生きる喜びではありませんし、
初めからイエス・キリストが人生の喜びとなったことなど一度もなかったのです。
このような心がユダの心ではないでしょうか。
14:10 十二人の一人イスカリオテのユダは、
イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。
14:11 彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。
そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。
イエス・キリストと共にあることに喜びを見いだしているのか、
あるいはイエス・キリストの弟子であることによって、
自分が尊敬され重んじられるからイエス・キリストに従っているのか、
ここにユダと他の弟子たちを分けた境目があるのではないでしょうか。
ユダは、自分が尊敬され重んじられるかに中心があったのでイエスを引き渡すことができました。
14:20 イエスは言われた。
「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
イエス様と一緒の鉢に食べ物を浸して食べているのがユダでした。
それほど親しくてなぜ裏切ったのか、
ユダとは何と恩知らずなのだろうと考えることは正しいことではありません。
彼は、自分が尊敬されることがイエス様といる目的でした。
弟子たちの中ではイエス様とより近い関係にあることによって自分が尊敬されるのですから、
当然、ユダは、イエス様と一番近いところにいたのです。
ですから、イエスと同じ鉢から食べ物を浸していたのに裏切ったということは、
ユダにとって何の矛盾もありません。
このような意味で、わたしたちの心の中にもユダはいるということができます。
そして、そのことに気が付くことが大切です。
わたしたちの救いの喜びは、悲しみや苦難の中で光り輝きます。
丁度、星が夜の闇の中で明らかになるように、人生の闇において、
救いの出来事の確かさはわたしたちに明らかになります。
苦難はわたしたちが神の救いを見いだすためにあるのです。
それは神がわたしたちを見捨てておられない証です。
苦難はですから決して神がわたしたちを見捨てておられることを意味するのではありません。
神様がわたしたちを見捨てられたから、わたしたちが苦難に遭うのではありません。
14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、
それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
14:23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
14:24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
14:25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、
ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
イエス・キリストにおいて、神はわたしたちの苦難の中へ降りてきて下さいました。
主ご自身が苦難をその身に引き受けられました。
ご自身の体を苦難と死に引き渡されました。
弟子のユダが裏切って、その手先となりますが、主はそれを受け入れられます。
イエス・キリストは悲劇のヒーローではありません。
有能な将軍でありながら裏切りやねたみによって葬り去られた
源義経や楠正成のような悲運の武将ではありません。
わたしたちクリスチャンは判官贔屓ではないのです。
なぜならばイエス・キリストはわたしたちを救うためにこの世に来て下さった救い主だからです。
悲運のゆえに主は十字架に架けられて殺されたのではありません。
わたしたちの罪を清めて永遠の命を与えるために、この世に来て下さり、
十字架に架けられる道を歩まれたのです。
神はわたしたちの苦難と悲しみの中にもいて下さることをわたしたちが知るために、
主は十字架の苦難を受け入れられたのです。主ご自身に罪があって十字架に架かったのではありません。
わたしたちの罪のために十字架に架かって下さったのです。
本日の聖書の御言葉は、わたしたちが礼拝の中心である聖餐式の起源を語っています。
わたしたちクリスチャンは、この聖餐式を主から伝えられた最も重要な出来事として守り続けてきました。
それは、主がわたしたちのために死んで下さったことの記念であり、宣言であり、告白です。
いかなる時も主はわたしたちを見捨ててはおられないことの証です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988