
水戸中央教会 説教 2006年9月17日
「生涯のささげもの」
マルコによる福音書12章35〜44節
35:イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。
「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
36:ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。
『主はわたしの主にお告げになった。
「わたしの右の座に着きなさい。
わたしがあなたの敵を
あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
37:このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、
どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群集は、
イエスの教えに喜んで耳を傾けた。
38:イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。
彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、
39:会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、
40:また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。
このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
41:イエスは賽銭箱の向かいに座って、
群集がそれに金を入れる様子を見ておられた。
大勢の金持ちがたくさん入れていた。
42:ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、
すなわち一クァドランスを入れた。
43:イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。
「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、
賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
44:皆は有り余る中から入れたが、
この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、
生活費を全部入れたからである。」
本日のマルコ福音書12章35〜44節は、
新たに「イエスが神殿の境内で教えていたとき」という言葉で始まっており、
ひとまとまりを成しています。
内容的には三つの異なったテーマが論じられています。
最初は、メシアがダビデの子であるとはどのような意味であるか。
第二は律法学者への非難。そして貧しいやもめの献金です。
35:イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。
「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
36:ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。
『主はわたしの主にお告げになった。
「わたしの右の座に着きなさい。
わたしがあなたの敵を
あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
37:このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、
どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群集は、
イエスの教えに喜んで耳を傾けた。
律法学者たちが「メシアはダビデの子だ」と言っていることについてイエス様は問うています。
イエス・キリストは確かにダビデの子孫ですし、
イエスの父ヨセフは、ダビデの家系であったと他の福音書は伝えていますから、それとは矛盾します。
アドベントには
「11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち
11:2 その上に主の霊がとどまる。」
イザヤ書11章の御言葉が読まれます。
このエッサイはダビデの父のことであり、
ダビデの家系からキリストが現れるという預言として理解され用いられています。
ですから律法学者が言っていることは、間違いではないように考えられますが、
ここでは、「子」という言葉に特別は意味があると考えられています。
つまり、メシアはダビデの子であるということは、メシアはダビデに従う者だ、
ダビデよりも低い者だという考えに対する否定です。
メシアはダビデの子であるがダビデより低い者ではなく、
ダビデの主であるとイエス様は教えられました。
何も分からないわたしたちにとってはどうでもいいように思えますが、
これは決定的な律法学者たちへの批判となっています。
つまり、ダビデは律法の下に生きていました。ダビデは律法の支配下にありました。
ですから、メシアもダビデの子であるならば、メシアも律法の支配下にあるはずなのです。
ですから、このマルコ福音書でファリサイ派の人々との間で論争となる安息日問題と
深い関わりがこの箇所はあります。
安息日問題とは、イエスが安息日の規定を越えて、病人を癒したということでした。
つまりファリサイ派の人々の目から見るならば、
イエスは安息日を守らないからメシアではないということです。
メシアがダビデの子であるならば、彼も律法の支配下にあるはずだからです。
主イエスはこれに対して次のように教えています。
マルコ2章27〜28節
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
だから、人の子は安息日の主でもある。」
本日の御言葉においても、これと基本的には同じことが述べられています。
そして律法学者たちは、
「律法に従っていれば、それでいい。メシアが来たとしてもわたしたちが律法に従っている限り、
メシアもわたしたちに従うはずだ」
と、結論づけていたのです。律法学者たちはこのような態度であったために、
たとえ本物のメシアが彼らの目の前に現れても、
イエスをメシアとして受け容れ信じることが出来なかったのです。
自分たちも気付かない内に、
彼らは実はダビデよりもメシアよりも自分は偉いのだという高慢に陥っていました。
高慢とは不信仰のことです。
神を信じるということは謙虚になり、低められるということです。
信仰とは、わたしの力によっては人生はどうにもならないということを認めることです。
38:イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。
彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、
39:会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、
40:また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。
このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
律法学者を牧師に置き換えるとまったくぴったりとしますので、ドキリとします。
まず、この言葉は、この御言葉を取り次ぐ、牧師であるわたしに言われたものであるとわたしは認めます。
わたしたちの人生の目的は、神を崇めることです。
神を崇め礼拝することがわたしたちの生きる意味です。
しかし、わたしたちは、この本来の目的を見失って、ひたすら自分が崇められることを求めます。
自分が礼拝されることを求めます。
共産主義は、貧しい人々のことを思い、
誰もが幸福に安心して暮らすことの出来る世界を目指そうとしました。
ロシアの共産主義の人々は、
このイエス様の言葉にあるような律法学者に成り下がっていた当時の宗教的指導者を排斥ししました。
しかし、彼らは神の前にひれ伏すということを否定しましたので、互いが互いを監視し、
少しでも共産主義を批判する者は牢獄に送り込まれるという恐ろしい社会を作り上げました。
町のあちらこちらに共産主義指導者の写真が掲げられ、銅像が建てられました。
神を信じ、委ねるということは、わたしたちに自由を与えることなのです。
41:イエスは賽銭箱の向かいに座って、
群集がそれに金を入れる様子を見ておられた。
大勢の金持ちがたくさん入れていた。
42:ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、
すなわち一クァドランスを入れた。
43:イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。
「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、
賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
44:皆は有り余る中から入れたが、
この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、
生活費を全部入れたからである。」
わたしたちの教会の中においても、やはり色々な奉仕をされる方とか、
教会にたくさんの献金をされる方が重視される傾向があります。
だから奉仕をしないようにしようとか、献金をしないようにしようというのではありません。
このレプトン銅貨は、10円、20円程度です。
しかし、彼女にとっては、その生活費のすべてであったと主はご存じでした。
神は、わたしたちのすべてをご存じで、わたしたちに報いて下さいます。
そしてそれは神のみに許されることであり、可能なことなのです。
わたしたちが人の財布を覗いて、
「あの人は金持ちなのだから、もっと献金するべきだ。」
とか、
「わたしはこれくらいで十分だ」
などと判断することではもちろんありません。
しかし、わたしたちは平気でそのようなことをします。
わたしたちはすぐにイエス様の立場に立って、神のように裁くのです。
いかにわたしたちが罪の中にあるかが分かります。
わたしたちにとっていかにイエス・キリストの十字架の贖いが大切であり、
不可欠なものであるかが分かります。わたしたちには罪の赦しが絶対に必要なのです。
わたしたちのために十字架で死んで下さり、わたしたちに罪の赦しを与えて下さる神に感謝を捧げましょう。
わたしたちの神は貧しく泣き叫ぶ者と共にある神であり、豊かで人に君臨する者を退ける神です。
これが唯一真の神です。これが愛の神です。
ですから能力のあることを大切にし、富と地位に価値を見いだすわたしたちは無慈悲で、愛がないのです。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988